2001年8月19日。
奈良美智にとって、国内では初めての本格的な個展が始まっていた。
それに伴って、サイン会も行われる。
午後1時から、美術館で整理券を配る。500名まで。そして、その整理券と作家の著書を持っている人のみに午後2時からサインをしてくれるシステム。
妻が、大好きなアーティストだった。でも、サインをもらう時、本人に会って、がっかりするのが不安というのと、好きだったピークは2年前、世田ヶ谷美術館『時代の体温展』の時で、今はそこまでではないから、という理由を述べて、やや躊躇していたが、当日までにはすっかり行く気になっていた。
奈良の作品には嘘がないと思う。それになつかしさや気持ちよさや不安とか、いろいろな感情もこめられていて、すごく伝わってくるので、一度は、大規模な場所で見たいと思っていたから、私にとっても、それは楽しみでもあった。
午後1時より少し前には着きたくて、あせって出かける。12時40分頃には美術館に着いた。最初は誰も並んでいないように見えたが、受付の場所に近くなるといっぱい人がいた。美術館でこんなに人が集まり、それが熱気をはらんでいるなんて、ほとんど見たことがなかった。
並んでいると、係員がやってきて、尋ねたら、今、200人くらいです。と答えてくれた。そして、別の係員がメガホンで何度も今日の段取りを説明している。そんなに難しいことではない。午後1時から整理券を配る。そこには指定された時間がある。それまでに来ること。一人にサインは1ケ所。それも奈良の著書。
待つ時間は長いが、その列は結構若い女性が多い。奈良のTシャツを着ている人も少なくない。いつの間にか、こういうところに並ぶと、気がついたら最年長ということも多くなった。ただ、どう見ても自分より上の人も、必ずいる。
午後1時を少し過ぎてから、整理券を配り始めた。さっきの係の人間が言う通り、配り始めたら早かった。もらった券には午後2時40分。と書いてある。2時の回の人は、もう並んでいる。展覧会を見るには、時間が足りないけど、ただ待つには、時間が長い。
妻は昔買った「深い深い水たまり」があるが、もう1冊を手に入れるためにミュージアムショップへ行く。人がものすごく多い。明らかに似たような行動をする人達だった。そして、レジの前の列が蛇のように店内を回っているので、一回買うのをあきらめる。
「深い深い水たまり」
https://honto.jp/netstore/pd-book_01471056.html
人混みに疲れて、いったん図書館へ行った。
時計を見る回数が、たぶんいつもより多い。そわそわしている。
午後2時頃には図書館を出て、ショップへ行く。さっきよりはかなり人が減っている。何冊か見て、今回の展覧会のカタログが思ったよりも良く、妻とも相談してそれにした。2300円。ぬいぐるみの多くは売り切れている。
「奈良美智展 カタログ」
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/catalog/kanagawa/yokohama/yokohama.html
何だか、妙に、もう嬉しくなっている。
午後2時40分の回の人は、まだ2人しか並んでいないけれど、でも2時15分には2人で並んだ。
何かわくわくしてくる。時間がたつ。
午後2時35分くらいに、呼ばれて、それまでは外に並んでいたが、建物の中に入る。まだ2時20分の回の人が先に並んでいる。病院の「中待合い室」みたいだった。妻は疲れて、床に座って、待っている。2時40分は、とっくに過ぎた。
「奈良先生はひとりひとりに丁寧にサインをしているので、予定より時間がかかっています」。
メガホンの係員が、そう言っている。
そうこうしているうちに、妻がトイレに行くと言い、その間に前の回(午後2時20分)の人達が別の場所へ移動していく。戻ってきた妻が「ねえ、前の人達が移動していったよ」と嬉しそうに言った。
でも、私も、なぜかまだ、ワクワクしている。かなり待ったのに、それほど気にならない。
午後3時過ぎ、2時40分の回が呼ばれる。
30人くらいが、移動していく。
冷房の効いてないゾーンを抜け、美術館の入り口近くのスペースへ向かう。何回も折れ曲がるロープ。その向こうに本人が見える。
写真で見たのと同じだった。
いや、もっとにこやかで気さくでいい感じに見えた。
絵を描く人だから、握手はしない方がいいかも、などと思っていたら、みんな握手をしている。
黄金の右手なのに。
隣の妻が、少しぽっーとしている。
こちらまで、何だか嬉しかった。作品がいいと思っていた上に、本人まで感じが良く見えたせいだと思う。
ここまで、さんざん迷って妻に決めてもらったサインの場所と文字。
列が進む。サインをしてもらっている人を見て、妻は名前の前に書いたTOを消す。奈良の書いている名前の後の「どの」のが見えて、それを書いて欲しかったらしい。
さらに、近付いていく。でも、ここからは時間はあっという間。妻の番。サインを書いてもらっている。細かく指示したわけでもないのに本人が思った通りの位置に、サインが書き込まれたと喜んでいた。
そういえば写真を撮っている人も多かった。ここに来るまで、それは禁止とか何とか、厳重な感じがあったけど、ここにはそんな空気はなかった。小山登美夫ギャラリーの小山が、写真を撮ってあげている。
自分の番だ。よろしくお願いします。奈良はまっすぐな目をこちらに向けてくる。ここにお願いします。妻が選んだカタログの表紙。写真に白いキャンバスが写っているところ。嫌がるかも、と思って第2候補を決めていたが、すぐに書き出した。小山がこっちをじっーと見て、「それは?」とTシャツの柄を聞いてくる。胸のあたりにボクサーの写真がある。
「あ、ジャックデンプシーです」。そう言ったら、奈良は目をあげて「デンプシーロールの」とにこやかに続けた。「そうです」と答える。もっといろいろ言えばよかったと後で思ったが、その後は、「友だちにもらったのを、気にいって着てます」などと言うだけだった。
でも、話し掛けられて嬉しかった。とても短いけれど、豊かな時間だった。
握手もしてもらった。こちらが御礼を言ったが、向こうも「ありがとう」と言っていた。思ったよりも強い力で握手をしてくれた。
妻だけでなく、自分も完全に舞い上がっていると分った。
美術館のすみっこで、妻と2人で、「よかったね」を連発した。
妻は、思った以上に、いい顔だった。それに、ぴったりのところにサインを書いてくれた。とニコニコだった。
こっちもサインを、写真のキャンバスにぴったりと収まるように書いてくれた。そして、二人の名前を「・」で区切って書いたのを、何も言っていないのに、「・」を「+」に変えて書いてくれた。それは、何だかとても嬉しかった。名前が「+」でつながっているように見えた。
作品は、シビアでリアルなことがベースになっているのに、肯定的で暖かい気持ちにすらなれていく。立体が特によかった。
作品は、よかった。というより、嬉しかった。と言いたくなる。自分の中にあるものを作品で引き出されるからかもしれない。優しさと残酷さが同居する。と言われているが、そういう要素が揃っていないと、特にこれからはダメではないか。とよけいに思ったりもする。
ゆっくり見て、1回出て、お茶を飲んでからまた再入場して、見ようということになった。
出口から出る。午後5時になっていた。奈良美智は、まだ、サインを続けていた。笑顔と気さくな感じが変わらなかった。すごく嬉しかった。作品も本人もいいというのは、それほどないと思っていたせいもある。あの普通の感じの良さは作ってでは出ないと思う。本人にとってみれば、初めての大規模な個展で、当然なのかもしれないけれど。ただ、クラスの中のとてもイイやつが、ずいぶん久しぶりに会っても、才能もあって認められてきたのに、それでも変わらない感じがした。自分より年上なのに。
ずっと奈良は、笑っていた。女の子からファンレターを結構もらっていたが、それも仕方ないと思えた。
何か、よかった。
こうすればいいんだ。とも、具体的ではないのだけど、なぜか、思えた。
久しぶりに、やる気が出てきた。
(2001年の時の記録です。多少の修正・加筆をしています)。
https://yokohama.art.museum/exhibition/archive/2001/20010811-58.html