2009年11月25日。
内藤礼の個展があるのを知ったのは、今年の夏くらいだったと思うけれど、実はその頃から楽しみだった。昨日の夜の寒さの記憶があるのでかなり厚着をして昼頃に出たら、いつものようにすぐに暑くなり上着を脱ぎ、電車の中で軽い昼食を食べつつ、鎌倉の小町通りの人ごみをくぐりぬけて、午後2時頃には美術館に着いた。何か知らない場所のような、なじみのある場所のような、そんな気持ちになるのは、美術館という場所そのものに妙に慣れてきて、それでいて、その違いにも敏感になったという事かもしれない。
この2日間で、20年以上前の、古くから知っている人に会ったせいか、過去をさまよったような気持ちもしたけれど、アートに関してはここ12年くらいの記憶しかないから、かなり新しく、そして内藤礼ならば、その新作に興味があるから、美術館の前に来ると、スイッチが現在に少し戻るような作業を自分の中で感じた。だから、知らない場所のような、なじみのある場所のような、妙な感じになったのだろうけど、でも、ホントに自分にとってはアートが必要なものになってきているんだと改めて思う。
1階で入場券を買い、2階に上がってから、やっぱり荷物をロッカーに入れようと思って、また下へ下がり、ついでにトイレに行き、また2階の展示室の入り口に戻る。係の人が「中は暗くなっているので気をつけてください。説明などは一切ありません」といった説明をしてくれて、ああ内藤礼だ、みたいな気持ちになって、中へ入るとホントにかなり暗かった。
いつもなら絵などを飾っているショーウインドーといっていいような空間の中は、何もなくなっていて、そのケースの中や、上や、外側にも、白い小さい風船や、ごく小さいオブジェといっていいものや、ガラスの玉や、何かぎりぎりに見えるか見えないかのものがあちこちに展開され、豆電球みたいな照明の薄暗い中で、内藤礼の世界だ、と思っていた。かなり集中しないと、何もない空間にも見えてしまう。
普段は、絵を下げるための器具まで、作品のように見えてきてしまい、係の人に聞いたら、「それは違います。でも、計算されていると思います」と言われた。そして、ほぼ何もないケースの中に一人ずつ入れるというので、妻と順番に入った。中に入って、外を見たら暗がりの中にゆっくり動く観客までが作品のようだと思ったり、ガラスにうつった輪になった電球の光がかなり美しく見えたり、それは、でも気がつかれないように作り上げているような、いつものようにある意味での嫌がらせのような作品にも見えた。
分かるか、分からないかの微妙なところ。見えるか見えないかのきわどいところ。そこへ作品を置き続けるというのは、繊細というよりは大胆な作業ではあって、これはただ見にきて、何もないじゃん、と言って帰ることも可能だし、そうしてもいいのだろうけど、それが少しでも、この世界、みたいな事を分かってくると、次を期待してしまうし、今も何かを探して、そうしていくうちに時間の流れが外とは異質なものになってくるような気がつく。ゆっくりとした、水のように少しねっとりとしたような。
そして、展示室には、やはりゆっくりとした観客が意外と大勢、といっても10数人いるのだが、その姿が、自分も含めて、宇宙人につかまって暗闇に閉じ込められている、人類みたいにも見える。こまかかったり、はかないものだったり、そういうものを組み合わせて、暗闇に置いていくだけで、異質な空間と異質な時間を生み出せることに感心し、(なにしろ、ここに大掛かりでお金がかかったものがなさそうなのに)そのことを楽しめた。
その展示室を出ると、天気がよく、外の光がまぶしく、それは思った以上の明るさに感じ、そんなに時間がたってないのに、その太陽の光の事を少し忘れているような感覚になっていた。
次の展示室は暗くしていなかった。ただ、布が敷き詰めてあった。それも、微妙につぎはぎというか、重ね合わせてあるというか、そして、わざとかどうか分からないけれど、ピンとではなく、微妙に(またこの言葉を使ってしまったが、つい使いたくなるような作品だとは思うが、あまり何度も使うと伝わり方が嘘くさくなるとは思う)シワがよるようになっているように思う。
ああ、これは海なんだろうな、とか、生命の源とか、思っていると、なんだか中途半端な位置に薄い紙がたくさん積むように置いてあって、「説明は一切しません」的な事を最初に言われていたから、なんとなく聞きづらいとは思ったけれど、スタッフに尋ねたら、「この紙は一人1枚持って帰っていいです」と言われた。ただの薄い、向こうが透けそうな丸い紙だと思っていたら、その真ん中に、ものすごく小さく赤い、それも逆文字で「おいで」と書いてあるのが分かった。よく見ないと、持って帰っても何も書いてない紙と思ってしまうかもしれないのに、見つけた満足感みたいなものも確かにあった。
こうした事のすべてが作品で、これで完成です、と言い切れているのだろうから、大胆だと改めて感心し、2階のミュージアムショップでカタログを予約し、送ってもらう手続きをした。
1階に降りた。中庭には、長いひものようなものが上からはられ、風で動き続けている。それだけで、この空間が何か別のものになっていた。昨日は、雨が降っていたから、その時の事を聞いたら、中庭にある彫刻にぺったりとはりついて、だから、それを、スタッフが、はがしていた、と知った。そして、あちこちの手すり(?)には水が入ったジャムの空きビンのようなものに、ただ水をめいっぱい入れていて、太陽の光のせいで、その影の中に小さい炎があるようにも見えた。
糸を通したビーズのようなものが、床ぎりぎりのところにぶらさがっていたりした。どれも意味がないような、あるような、ずっと見ていると、すごくいろいろな意味がありそうな作品で、よく考えたら原価が安いはずなのに、ものすごく効果的だと思った。
手渡された薄い紙のリーフレットを見直したら、9の作品だけを見た記憶がなかった。それは、壁の穴に押し込むように置かれたボタンだった。ちょっと光っていた。だけど、見落とす人も少なくないと思った。さらには、このボタンは、中庭の石像と完全に呼応しているのが分かった時には、うれしく、すごいと思った。
なんだか満足して建物を出た。
「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」。
タイトルが、ハッタリになっていないと思った。
12月の中旬に図録が送られてきた。写真が、見た時の感じを正確に伝えていると思った。畠山直哉という写真家で、東京の地下の下水道を写したりと、過酷な環境でも、繊細な写真を撮る人という印象があった。だからこそ、あの細かさや、はかなさを撮影できたかと思うと、もしかしたら、この写真家の指名まで内藤礼自身がしたのではないか、みたいな気持ちになった。
(2009年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。