2003年6月18日。
最近、テレビなどでも、舟越桂を時々見るようになった。その彫刻は、見ていると何とも気持ちが落ち着くというか、静かになるような気はしていたし、妻は、その作品を見ると、ほとんどいつでも「あ、ふなこしさんだ」と駆け寄り、ファンであることに変わりはなく、私としても個展を大規模にやるのなら、やっぱり見ておきたい気持ちは、ずっとあった。
東京都現代美術館は、村上隆の個展をやって以来、東京駅からのバスに乗って行くようになった。東京駅からバスに乗って、そして、20分くらいたつと、バスですぐ美術館の前につく。
舟越の作品は、フロアいっぱいに、でも点在するように並んでいた。それも、ケースの中でなく、むきだしで、しかも人の高さになるようにその上半身の彫刻はあったから、ホントに人にまぎれている、と「ほぼ日」で糸井重里が書いていたような光景があって、それも、この美術館では珍しく人もたくさんいて、それも、印象派の展覧会で見かけるような、中高年の女性の姿もわりと多く、本当に幅広く人気があることを、再確認できた。
1980年から、今年の作品まで、ほぼ年代順に並んでいる。
最初のものは生々しかった。
そして、作品を作っていくうちに、明らかに洗練されていって、その伝わってくる感触もどんどん静かになっていっているように思えた。作品のモデルになった方々にも、同じような印象があった。
10年という、普段で考えたら、それなりに長い時間の単位で、ずっと制作してきた作品が、いっぺんに見ることができる、というのも、考えたら不思議なことだけど、おそらく徐々に変化していったのだろう。それが、はっきりと、見ている私にまで、舟越の特徴として分るようになったのが、ここ2年くらい、ということかもしれない、と後になって、改めて思った。
舟越の最近の2年くらい(2002、2003年)の作品は、それまでよりも、もっと長い時間見ていたくなるような作品だった。その大きな違いは、もちろん形が、ホントに人間では有り得ないような妙なものになってきた、という変化はあるのかもしれないけれど、それよりも、彫刻の目が、さらに変わってきた、と見えた。
何かを見ている感じ。どこか遠くを見ているように、と思わせるように感じた目が、ここ2年くらいでは、確かに何かを見ているけれど、何を見ているか分らないけれども、でも、その目が、清々しい、静かな生々しさへ変わっていて、それが、すごくよかった。
長いキャリアがあって、50くらいになっても、また変化するというのが、改めて凄みを感じた。
見にきて、よかった。
妻も満足そうで、よかった。
(2003年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。