アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「DOMANI・明日2020」。2020.1.11~2.16。国立新美術館。

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「DOMANI・明日2020」。2020.1.11~2.16。

国立新美術館

 

2020年2月2日。

 知り合いの方から、チケットをいただいて、ありがたく、それで行くことになった。「傷ついた風景の向こうに」というサブタイトルで、今回は今までと違って、すでに実績のある作家ばかり、というくくりだった。それは、今年はオリンピックがあって、その関係で「日本博」というのがあって、それと関係があるのは微妙な気持ちになる。それでも、こうして一人の作家でも、展覧会をやれるような人が何人もいるのは、見に行く人間にとっては、とてもありがたい気持ちはある。

 

 石内都の傷をテーマにした写真「Scars」のシリーズは、これまで何度も見たことがあって、だけど、また見ると、少し違う感じがする。強さがあった。さらには撮影のための交渉の大変さも思ったり、それでいて、改めてすごく力強く見えるのは、基本的に撮影する相手のことを、とても尊重しているから、ということが伝わってくるからではないか、と思った。

 

 米田和子の作品は、時間や歴史に関わる景色を写し、それは、いつも芭蕉の「兵どもが夢のあと」を思い出すような光景だった。若林奮や、昆虫写真家の栗林慧や、ずっと見上げる梢を、30年くらい描き続けている日高理恵子の存在は、どこか微妙にこわさがあるにしても、大げさに言えば、世界に見え方を変えてくれる作品だった。

 

 そして、別の場所で見て、東日本大震災の被災地(今も、この言葉を使っていいのかどうか、というような気持ちにもなる)を撮影し、そこにアニメーションを加えた作品を制作して昨年、亡くなってしまった佐藤雅晴の映像は、静かな気持ちになった。

 

 森淳一の長崎の原爆をテーマにした作品には、「山影」や「金比羅山」といった地名に関わる名前がついていて、それは長崎に原子爆弾が落とされた時、山の尾根を境にして、被害が変わってきて、しかも、キリスト教の教会がある側の被害が大きく、神社がある側のほうが被害が小さい、という事実があって、そのことを作品化していることで、その事実も初めて知ることができた。同じように、原爆の被害があったというだけでなく、そうした、偶然としか思えないことによって、また違う種類の苦しさなどが生まれてしまうことも、恥ずかしながら、これまでまったく知らなかった。

 

 そして、宮永愛子の、東日本大震災の時期に制作をしていた、という金木犀の葉を葉脈だけを残して、それを12万枚使って、大きな布のようにした作品は、やはりすごかった。最後は、畠山直哉の写真で、自身の実家が東日本大震災の被害が大きい地域で、それで親も失ったりした重い背景もあるのだけど、今回の作品はつい最近の被害が大きかった地域の大きく育っている樹木の写真で、それは、何があっても植物は育つし、そのことに対して、その背景を考えると、自分は何もしていなくても、感慨はやっぱりある。

 

 

(2020年の当時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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