アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

竹内公太「Re:手の目」。2015.3.7~3.22 。SNOW Contemporary

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竹内公太「Re:手の目」。2015.3.7~3.22 。SNOW Contemporary.

 

2015年3月21日

 行ったことがないギャラリー。この個展を椹木野衣ツイッターで知って、そして、それは、原発事故の時の「指を指す作業員」という作品として知られている作家の個展だとも知った。

 

 場所の見当さえつかないようなところは、行くのに面倒くささと不安さえもあって、だけど、渋谷からバスに乗った。初めての路線。都会を走るバス。養命酒の会社とか、昭和女子大の付属の中学の卒業式とか、三宿とか、普段は無縁としか思えないような場所を通って、そして、聞いたこともないようなバス停で降りる。

 

 場所が分からないと思ったら、写真の表示がある。倉庫の一部なのか分からないけど、普通のドアの4分の1くらいの大きさのドアがあって、入ると、そこは思った以上に広く、思った以上に何人もの人がいた。渋谷からバスで20分くらいかかったし、最寄り駅からも15分は歩く場所なのに、人が来ていて、面白そうだったら、人は来るんだ、と自分が来ておいて、思った。黒瀬陽平が評価していた、ということも知ったし、来てみて、何か分からないまま、まずは見て、そのあとに説明を読みながら、再び見た。

 

 石碑の前にいる、おそらくは作者。それは、福島県いわき市の石碑を訪ね歩いた新聞記者の本を参考に歩いて、その本の中から「我たシは石碑でハ無い」という文字を映像で並べていて、そこに「けれど」を付け加えていて、それは、石から切り離された私を伝える、という意図があるらしかった。その石碑は産業や災害や戦争や事故、亡くなったと思われる人も含めての記録でもあって、確かに、その事とそこにいた人とは一致しない、ということを未来の人へ伝えているのも分かった。

 

 その石碑の文字を動画で撮っているから、そこに古さとか時間とかいろいろなものまで確かに映り込んでいて、見ていると、時間がたつほど、面白さみたいなものが伝わって来て、そして、文献やメディアの存在を否定しているわけではないので、という意味で「けれど」を付け足したということもリーフレットに書いていて、そういう慎重さというか、知性みたいなものが、作品にまた違うものを付け加えているとも思えた。

 

 さらには、石碑の写真は、参考にした本の著者と同じ構図で撮った写真ということで、隅々まで、気を抜いたことをしない作家なんだ、と思い、自分の意図や意志だけでは作品を作らない、というような強い意志みたいなものまで感じた。

 

 手の目。手のひらに目を持つ妖怪がいるらしいが、今みたいにケイタイを持って撮影をしようとうろうろする姿は、その妖怪のようにも見え、ということを含めて、そして、福島のいろいろなところを絵にして、それを手で見ようとした、ということも絵にしていた。だから、絵の前には手首のオブジェがあるし、絵も5本の指で隠されている部分があったりして、という意味を知りながら見ると、見え方も違ってくる。油断が出来ない知的さ、というのだろうか。あまりにも抽象的だろうけど、そんな感じがする。

 

 触覚的な視線をテーマにした、ということらしい。

 震災によって、大きく影響を受けざるを得なかったような場所の絵が並ぶ。

 そして、福島では、ケイタイだけでなく、放射能測定器を持って動き回る人達もいて、というような事も文章で説明してあって、それも含めて「手の目」なのか、みたいな事も思った。

 

 見に行ってよかった。微妙にざわざわして、だけど、静かな気持ちにもなった。

 

 

(2015年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

 

竹内公太

http://kota-takeuchi.net