2011年5月6日。
バスに乗り、久しぶりにその中で昼食を食べながら現代美術館前まで乗って、降りて、妻に見る順番を聞いたら、先に「アニュアルがいい。たぶん、りんごの絵はじーっと見ちゃうと思うから」という事でセット券で買った。そして、両方とも見ることが出来る時間があるのは、着いたのがもう午後1時半を過ぎていたのに余裕があったのは、義姉が義母の世話を見てくれているからで、だから、気持ちがゆったりとしていた。
最初に3階へ上がったら、段ボールが重ねられていた。ティッシュがネジで壁に留められていた。台所にあるスポンジがカラフルな市松模様で床に並んでいた。ハンマーが形になりやっぱり床に並べてあったり、スーパーボールと棚でビルのように縦にそびえていたり、ただ画びょうを壁にびっしりとさしてあるだけのものがあったり、ホントに単純なことをきちんと作業して、違うもの…という形にするだけでなく、冨井大裕は、気配も含めてそこにちゃんと出現させているんだな、と思った。やっぱり展示の順番として、最初は、段ボールじゃない方がいいのに、というように後になって思ったりもした。
鉛筆で、信じられないほどの精密膨大な作業のあとに、作品にしている関根直子。何本使ったんだろう、と思えるくらいのボールペンで、紙が紙でないような質感を持ってしまった作品を作る椛田ちひろ。糸を部屋いっぱいにクモのようにつむいで、ほとんど見えるか見えないかの作品を作って、見ていると遠近感がおかしくなるようなことを作る池内晶子。カセットテープで球を作って、それをヘッドがある台に乗せると音が出る作品を展示していた、以前は原美術館で氷のレコード盤を作ってもいた八木良太。
だけど、自分としては、この中で印象に残ったのは、木藤純子の作品だった。ほとんど白い部屋の中に水が入っている大きいグラスと小さいグラスがあって、それを上から見る時だけ、おそらく日の出や日の入りや青空が見えるような作品だった。部屋のすみに小さく鉛筆で書かれている数字は、日によっての日の出と日の入りの時刻だったり、そのそばには、緯度と経度が書いてあったり、その部屋の奥には、3階くらいの高さの窓に描かれているシルエットの木の枝があった。床には花びらの形の紙吹雪があったり、なんだか分からなかったので、スタッフの女性に聞いた。壁に月の満ち欠けの小さい絵が描いてあったり、灰(?)があったり、上から時々、花びらが落ちてくる、という話を聞いて、妻と一緒にその四角い部屋で4隅の木のベンチに座って待っていたら、1枚、落ちて来て、ほら、と見上げたら、あと2枚、ふわっと舞い落ちて来て、妻は他の人にも知らせようとして、走ったら誰もいなかったけど、その係の女性は一緒に喜んでくれていた。うれしかった。後になってリーフレットを読んだら、その灰は、どうやら、作者の「雪子」というおばあさんのことと(もしかしたら、その遺灰?)関係あるのかもしれないと思いつつ、それは、ずっと働いていることで、色白であることを本人すら忘れていて、死の間際か、死のあとか、それが分かったというようなエピソードも含まれていて、その作品は、すごく様々なものが詰め込まれていて、だけど、気づきにくくて、どこか内藤礼っぽいけど、もっとウエットな感じもあって、なんだかその必然性があって、面白いと思った。
ベトナム風のカフェになった館内のカフェでベトナムコーヒーやベトナム風の甘いパンケーキみたいなのを食べて、それから田窪恭治 展を見た。りんごの絵がやっぱりよくて、それが十年くらいかけて、フランスだかどこかに住みながら、資金も含めて実現していって、今は琴平に椿をモチーフに作品を作り続けていて、その環境の中でしか出来ない大がかりなものを作り続けていて、そうしたら、ヤブツバキの絵を公開制作をしている本人の姿を見て、まっすぐにすべての気持ちをこめて描いている姿がすごいと思い、その後に、美大生らしき若い女性に、スランプみたいなことを聞かれて、そこから、責任というものが裏打ちされているような返事が聞けた。
常設展は、最初、一人で行ったが、ピピロッティ・リストの作品が面白くて、出てきて、妻にもすすめた。売店では迷った末に、大竹伸朗の、前から欲しかった「ヤバな午後」のTシャツを買った。
1日がたっぷりと過ぎた。久しぶりにアートをみた、という気持ちになれた。いい連休だった。
(2011年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。