アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「瀧口修造の造形的実験」。2001.12.4~2002.1.27。渋谷区立松涛美術館。

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瀧口修造の造形的実験」。2001.12.4~2002.1.27。

渋谷区立松涛美術館

 

2002年1月16日。

 招待券が当たって、出掛けた。

 デュシャンに関する作品を見て、興味を持った。

 美術館の中は相変わらず、少し薄暗く、水の流れ落ちる音がどこか絶え間なく聞こえてきて、湿り気を感じる伝統的な気配は、やはり感じる。

 

 バーンド・ドローイングとかデカルコマニーとか、ウルトラQウルトラマンといった特撮モノのオーブニングで見た記憶のある、渦をまく感じの作品が並んでいた。

 デカルコマニーというのは、美術関係の学校などでは昔は良く行われていたらしい。どこか、確かに作品というよりは楽しみというか、趣味的な匂いが強い。

 本人が亡くなったあと、綾子夫人が保管していたもので、綾子夫人も亡くなり、その経過があって、多数の未発表の制作物を中心とした展覧会が開かれたのだろうか。

 

 チラシにはこんな言葉が並んでいる。

「瀧口は、1920年代後半から、詩作、シュルレアリスムの紹介、美術評論など多面的な文筆活動を始めました。『瀧口修造の詩的実験 1927〜1937』(1967)は、初期の仕事をまとめて30年後に出版された、彼の主著のひとつです。瀧口が戦後も詩、美術、映画、写真、デザイン、舞踏など幅広いジャンルの前衛的な仕事に立ち会い続け、独自の批評行為を行い、日本の文化の動向に深い影響を与えたことは、広く知られています。

ところが、瀧口は1959年頃から『ジャーナリスティックな評論を書くことに障害を覚え、』エクリチュールの原点を模索しながらデッサンに着手します。」

 

 そして、それから、この美術館にあるような作品を作り続け、そして、一部は個展などを開いたが、発表するというよりは親しい人への贈り物として送ったりしていた、という。

 

「瀧口が後半生に心を注いだ、こうした言葉によらない表現行為は、通常の美術作品とは異なった、独自の動機から作られたといいます。それが何だったのかを改めて問うことで、戦前、戦中、戦後をとおして瀧口が培った思想に、わたしたちも改めてアクセスすることができるのではないでしょうか」。

 

 デカルコマニーなどを、50代後半から没頭し始めたというのは、何となく分る気がする。文章などで、隅々まで意識を張り巡らせ、そして、次々と出てくる、様々なジャンルの前衛に関して書かなくてはいけないとなれば、若い頃ならまだしも、50を越えて後半になれば、もしかしたら無気力や無関心に襲われるかもしれない。そして、自分でも何か作れないか。でも、それは自分の意志といった狭い中ではなく、もっと偶然といっていいいものの要素を十分に取り入れられるものはないか。そういうことで、それから20年近くも、ずっと取り組めたのかもしれない。それを積極的に発表しないところに、奥ゆかしさみたいなものを感じる。

 

 このチラシの中でも、「文字によらない表現行為」や「制作物」という表現が注意深くされているが、観客にとっては、いつも見ている展覧会と同様に、作品だった。

 

 

(2002年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

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