2003年4月4日。
引きこもりだったり、アウトサイダーだったり、少女に男性器があったり、そんな情報は知っていたが、なかなか行く機会がなかった。2002年の11月から2003年の4月までやっているのに、行ったのは、終る2日前の金曜日だった。
平日なのに、この美術館では初めてといっていいくらい人がたくさんいた。
ヘンリー・ダーガーの絵は、かなりさわやかといっていい色合いだった。地平線が描いてあるせいか、誰にも見せずに1人で描いたというイメージとは違って、広々とした気配を感じる部分もあった。だけど、女の子が首を絞められて苦しむような表情への執着心があるようで、そういうシーンにはリアリティーが妙にあったし、殺された女の子の内臓への偏執的な感じも十分にあった。だけど、事前の勝手な想像とは違って、絵として、素直に、何だかよかった。
こうした絵が発見されたのは、本人が亡くなってからだったらしい。それも、アパートの家主がアート関係者の教育者で、そして、その部屋を20数年間、保存し、研究をした結果、今の評価につながったというのを、この展覧会のパンフレットを読んで、初めて知った。だから、ある意味、それは偶然ではなかったのだ、と思った。
死ぬ時に「部屋のものはすべて処分してほしい」とヘンリー・ダーガーは言っていたらしいから、今の状況を、本人が喜ぶかどうかは分からない、とも思うが、それは、それこそ本人以外が推測すること自体が、差し出がましいことなのかもしれない。
それより、この作品は、物語は1万5千ページを越え、挿し絵としての絵も300点を超えるというから、その絵50年以上描いていたらしいから、その描いている時間そのものが、やっぱり、どこか幸福感と無縁ではなかったのだろうから、それで、どこか満たされていて、だから、人とのつながりを、ほとんどもたなくても平気、かどうかも分からないにしても、この作品を作り続ける、という幸福感があったから、生きていけた、というのも、やっぱりあったのかもしれない。
これが、絵としてうまい、みたいな評価を受けている部分もあるというが、これだけ描き続けていれば、上達はする部分は当然あると思う。そして、やっぱり、描いている時の幸福感を思うのは、その絵を見たからだ。幸福感がなかったら、ああいうさわやかさみたいなものは、感じなかったに違いない、と、見てから、しばらくたっても、思ったりしていた。
(2003年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。