アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「パウル・クレー。終わらないアトリエ」。2011.5.31~7.31。東京国立近代美術館。

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パウル・クレー。終わらないアトリエ」。2011.5.31~7.31。

東京国立近代美術館

 

2011年7月17日。

 

 地下鉄に乗っていたら、冷房が強め、ということもあり、妻が寒い、と言いだして、持って行ったカーディガンと、私がリュックに入れているウインドブレーカーを着て、まだ少し寒いような状態で竹橋の駅に着き、駅の階段を登って、お堀のそばの出口を出たら、青空がすごく広くて、暑くて、温度がぐっと上がって、夏の感じが強くなった。駅に入場券が売っていて、すごく混んでいるのかと思ったら、ほぼ並ばずに替えたが、臨時の売店は混んでいて、人がたくさんいた。

 

 入ったら、小さめの作品が並んでいて、最初に油彩転写という方法で描かれた一見、ドローイングにも見える作品だった。鉛筆やインクで描いた素描を、黒い油絵の具を塗った紙の上に置き、描線を針でなぞって転写した後、水彩絵の具で着彩するという技法で、そこからリトグラフや油彩画が制作されることもあった、と解説で知った。

 

 そこには最初の素描と、転写されて制作されたあとの作品が並べてあって、確かにその技法が効果的なのは分かるし、見た事もないクレーの作品もあった気がして、Tシャツにしたい、という気持ちにもなって、何だかかっこいいと思った。そして、それからも、クレーは自分の作品を切ったり、つなげたり、様々なことを試みていて、それが頭の良さも感じさせたが、だけど、もしかしたらクレーは線に自信がなかったのかもしれない、同時代に同い年くらいのピカソがいたりして、絵そのものというか、線だけでも才能というか、そこでもう何かを語っているはずで、それが自分にない、ということで、様々な技法を研究し、試していたのかもしれない、とも思えた。

 

 そして、たとえば、鑑賞者側でも「クレーのこういう絵が好き」という言葉が飛び交い、クレー好きという人でも、ある特定の技法だったり、パターンだったりがイメージとして強くあって、こちらから、そういう好みを言ってもいいと思わせるものもあるのだから、不思議な立場、というか、圧倒的に、すごいと見上げられている感じは確かにしない。だから、イケムラレイコが「私にとって親しみをもってこちらから作品に塚づける数少ない作家だ」という表現をしているし、クレーのことを『「画家に生まれる」のと「画家になる」のとは、とても違う。クレーは画家になっていく道を努力して歩んだと思う。意識して歩んだと思う。彼の残した日記や書き物がそれを物語る』と書いていたのが、時間がたつほど染みるように分かってくるような気がした。

 

 そばに置いておきたい作品が多い、というのがクレーなのかもしれない。なにか努力とか志とか、そういうものが形になり、しかも押しつけがましくない、というのがクレーかもしれない、などと少し大げさな言葉まで浮かんだ。

 

 

(2011年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

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