アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

ジャコメッティ展。2017.6.14~9.4。国立新美術館。

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ジャコメッティ展。2017.6.14~9.4。国立新美術館

2017年7月13日。

 学生の頃、美術の授業に関心がなかったのに、それでも写真が多い教科書で憶えているのは、いくつかあって、ジャコメッティの彫刻もそのうちの一つだった。それだけ際立ったものだとも言えるのだけど、その印象はケチなのではないか、というもので、それは今考えると本当に愚かかもしれない感想でもあるのだけど、彫刻といえばロダンとかボリュームがあって、空間にどれだけの存在を示せるかというようなものだったから、よけいに印象が強かったのだろう。ただ、何かのグループ展で見たジャコメッティ静物画がかっこよかった。そのかっこよさというのは、シャープでエッジがきいていて、隅々まで意志が張り巡らされているような印象があったからで、その色も抑制がされていて、グレーみたいな色調が統一感もあって、それから、ああかっこいい人なんだ、と思うようになり、その立体も切実さや、必然性を感じさせるものなのかもと感じるようになり、すごくかっこいいものなのかもしれないと思うようになった。

 

 今回の展覧会は、テレビで紹介されたから混雑を警戒していたのだけど、どうやらあまり影響がないと知って、妻と相談して行く日を決めた。美術館の外にチケット売り場があって、大勢が並んでもいいようにロープがはられていたが、着いた時には誰もいなくて、外に売り場がある意味がほとんどないように見えた。

 

 最初の部屋は、初期で、キィビズムやシュルレアリスムを忠実に形にしたものに思えて、硬い表現で、それからあとを知っているせいか、とても平凡な作品が並んでいるように思えた。

 

次から、とたんに面白くなる。

 小像。ホントに小さい。グリコのおまけにも入っていそうな大きさ。とても小さく、それでもブロンズで彫刻で、解説によると、見たままを作ろうとすると、この大きさしか作れず、といったことで、これが最初だったのかと、そして、次の部屋から並んでいる見慣れたような作品群は、本人にとっては、それが1メートルであっても、無理して作ったものらしいと知って、ホントに変った人だろうし、それは人間の認知というものに対しての根本的な疑問といってもいいものだったのかもしれないが、それを、あれこれの試行錯誤がそのまま固まってしまったように、指のあとがついていて、それでも、それがくどさになっていなくて、形としての必然みたいに、そのまま最初から、その形を出現しようとさせているような落ち着きみたいなものまで感じた。

 

 絵は、マルグリットマーグの肖像。きれいで、タッチの一つ一つに意味があるように、小さなものしか作れなかったというようなことを知ったせいか、本当はもっと小さく描きたかったのだけど、それを大きくすることによって、意志がひきのばされ、それだけに大きく伸ばされたゴムのように、画面に強く定着して見えるかな、と思ったけど、全体のイメージは硬質で、すごく今のもののようにも思えて、かっこよかったが、あくまでも個人的な感想というものかもしれない。肖像の下部には、赤い線も入っていて、それがとてもシャープだったが、カタログを見たら、全体の印象はべったりとした平面になっていて、実際に見たのは、絵なのに立体感があるからすごいと思ったのかもしれない、などとも思った。

 

 矢内原伊作のコーナーは、失礼な話かもしれないけれど、矢内原の顔の形が何しろインパクトがあって、立体をきわめようとしたのだったら、それは気になって当然だろうというような気持にもなった。

 銀行のプロジェクトのコーナーは、大きい立体がすごかった。それは注文によって作ったものかもしれなかったが、大きい分だけ不気味で不思議なものになっているようにみえた。そこは写真撮影が許可された場所だった。

 

 作品は、誠実なのは間違いないようにも思えた。この人のフォロワーはいるのだろうか、でも、取り入れるのは難しいようにも感じた。

 

 

(2017年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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