アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「明るい絶望」中村政人 個展。トークショー 「ギンブラート、新宿少年アート…トビラの内側の“展示”という概念を打ち破り外に出た少年たち」。会田誠×宇治野宗輝×小沢剛。アーツ千代田3331。

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「明るい絶望」中村政人 個展。トークショー 「ギンブラート、新宿少年アート…トビラの内側の“展示”という概念を打ち破り外に出た少年たち」。

会田誠×宇治野宗輝×小沢剛。アーツ千代田3331。

 

2015年11月15日。

 メンバーだけで、ちょっとワクワクした。アートに興味を持たせてくれたのが会田誠の作品だったし、その恩は勝手に感じているし、小沢剛の「ジゾーイング」を見た時の楽しさと緊張感みたいなものも覚えているし、そして、その人達がアート界で生き残って、ある意味では大御所みたいになっていて、いろいろな思いもあるけど、自分がアートに勝手に興味を持ってから16年くらいなので、それなりに長くなったりもしていると思うと、その過去を思うことで、時間の流れと自分の老いを改めて感じたりすると、微妙に悲しくもなる。

 

 午後3時開始の、20分前に会場に着く。まだ空いている。その途中に「明るい絶望」の展覧会場の前に会田誠がいて、すみません、少し見せてください、と言っていている。確かチケットを買う時には55人だったはずだけど、開始時刻になった頃は、100人くらいいるんじゃないか、という人数になっていた。少しうれしい。

 

 会場には、テレビ画面で昔の映像が流れている。ギンブラート。1993年。まだ、この出来事にはまったく興味がない頃だったから、なつかしいというのとは違うと思うが、そこに出てくる参加しているアーティストが、みんな若く、それが何だか恥ずかしい気持ちにもなる。ここに来る人たちは成功したから、この映像もなつかしく見えたりするのだろうけど、成功しなかったらまた違うのだろうか。ドアの向こうから、3人があらわれる。スーパースター感は確かにある。会場には八谷和彦もいる。小沢剛の髪型は、今銀座での個展に合わせて藤田嗣治の髪型にしているようだった。

 

 司会は、美術手帖の元・編集長の楠見清で、何回かトークショーの司会をしているのを見た。

ギンブラートのいろいろな話。3人に話をふるが、最初は型通りみたいだったが、3人の会話が始まると、違う豊かさが出てきたりもする。この3人が、それぞれ自然に名字で呼び合って話をしているのは、共に生き残って来た同志、という感じがあって、うらやましくもあったが、そういう中で、たとえば、会田誠が「コジキアート」をして、売れず、そして飲み会があったのだけど、コジキだから、ということで銀座で野宿をした、という話がでて、それを他の人があまり知らなかったが、そういう筋の通し方はすごいと観客としても思った。

 

 小沢剛が、その頃からプロデュース的な役割を淡々とこなしている凄さがあったり、宇治野はでデザインの世界からやってきて、それも小沢剛が全裸で走り回っている姿を見て天才だと思って、というような率直な話もしたりしていた。小沢剛は、美大生の頃に、貸し画廊のシステムも分らず、借りようとして1週間で二十数万ということを聞いて、なんだか怒りもあり、だから「なすび画廊」に結び付いたのかも、というような事を言っていた。当事者であっても、当人にしか知らない事があるのだなあ、と思って、歴史ということを思った。

 

 その後のことで、会田誠は、こういう仲間には警戒心が抜けず、中心にいなかったのだけど、時間差で、チンポムと一緒にやったり、ということを、中年になってからやっている自分のことを振り返ると、新宿城の頃は画廊で個展をやったものの、仕事がなく、金もなく、それで作っていた、というような事を語ったり、そうこうするうちに、会場に松陰浩之が来ていて、あくの強い声と姿でいろいろと話し、宇治野にも会田にも仕事をふっていた、ということを話をしていて、90年代末にはお金もあった、ということも話した。

 

 その中で、宇治野をエンターテイメントの世界に売り出そうとしたら、自分も入ることになり、そこからアートに戻る、というような事を聞いたり、やはり人のつながりが物事の起こり方のスピードをあげるのかも、というような事も思った。ゴージャラスって、そういう事だったんだ、と改めて思った。

 

 そして、松陰の話で、小沢を通して、みんながつながっていった、という事をまた知った。そして、そのギンブラートや新宿少年アートの意味、を3人が控えめながら、率直に語っていた。それは観客としても、なんだかうれしかった。

 

 会田は、あれから貸し画廊から企画画廊の流れが出来たけど、それは世界の中で見たら必然であって、逆にいえば、貸し画廊のほうがオリジナリティがあると言えるくらいだから、と話す。

 

 宇治野は、アートになってない、ってよく言われた。だけど、世界に行くようになって、いろいろな人がいると、分った、と言った。

 

 ベネチアビエンナーレがあった時に、呼ばれてもいないのに、なすび画廊を10個くらい持っていった。そこには、オレみたいなヤツが来ていた。いるんだ、と思った、と小沢が、凄く嬉しそうな顔をして語っていて、こういうところが信頼できるんだ、と観客としては思った。

 

 最後の方で、会田誠がサラッとだけど、重みを持って、話し始めた。考えたら、中村(政人)と村上さんって、変な言い方になるけど、水と油だと思うんだよね、それは、あの頃から、そうで、だからギンブラートの頃とかは、奇跡的に一緒にやったんだと思う。あれから、村上さんは西洋の金持ちを顧客にしたんだし、中村さんは地域、地域と言う言い方はダメだっけ、そういうアートの方向になったんだから。

 こういう発言を聞くと、来てよかったと思えた。

 村上隆も、中村との対立を話していた事もあったが、それがどうしてなのかは、良くわからないし、今は対立していないというが、そして、この二人は誕生日が同じで、今年、偶然だろうけど、同じ時期に個展がある。

 

 質問の最後は高校生だった。都内で唯一の美術の専門高校らしい。

 やりたい気持ちはあるけど、何をしたらいいか分らない。今の(聞き取れなかった)アーティストはあんなのは、と悪口を言うだけだし。

 

会田。 タダで借りられる公民館などで個展を発表して、友達を呼んで、その光景を記録して、それを繰り返す。発表ジャンキーみたいになって、いつのまにかアーティストになる、のかな。

宇治野  ぼくがやったように、先生の言う事の反対をしたらいいのでは。

小沢  図書館へ行って、美術の欄の本を一冊ずつ全部読む。えり好みしないで。

 

 すごく誠実な答えで、どれも、やってみようかと思ったりもする。

 

 

(2015年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

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