1998年8月7日。
大阪への出張の帰り。前の晩に帰れないような時刻の取材。だから、今日はただ家へ帰ればいい。なんだか、気分がいい。この頃は、もう、どこの美術館へ行こうか、しか考えてない。
迷って、電話して、ちょっと遠いけれど、どこかで読んだ(たぶん美術手帖)「欧米なみの規模と質」という言葉と、なぜこれがアートなの?というちょっと挑戦の匂いのするテーマにひかれ、名古屋から1時間かかるということを知って、少し躊躇したが、行くことにした。駅からも10分以上かかる。
暑い夏。遠い。
でも、とても美しい美術館だった。空間がたっぷりととってあって、最初の展示室から階段を上って次に行ったり、壁全体が乳白色のガラスで光りがいっぱいの部屋や、微妙な坂道があったり、急に小部屋になったり、と充実した変化とともに、でも気がついたら、どこがテーマに関係あるんだと思ったら、1階の奥の広いスペースが、そこだった。でも、美術館全体に比べるとこじんまりした感じで、全体を使ってやればいいのに、と思った。
デュシャンの便器が大事そうにガラスのケースに入っている。それもオリジナルはなくなっているから、そのレプリカ?というものだ。それ自体も含めて、、、妙な話だった。ボイスの作品。コスースのシャベル。河原温。そして、どこかで何度か見たイブクラインの女体の作品。無音の部屋は、ジェームスタレル。かなりバラエティーに富んでいた。
最後の作品。生まれつき目の見えない人達に「あなたにとって美とは何ですか?」と質問し、その答えをそのイメージの写真と共に並べてあった。答えの大半は視覚的なもので、その作家ソフィ・カルは完全に憶えた。
この美術館は妻と来たい。と思った。そして、同じテーマの展覧会を違う美術館で見る事になる。巡回というシステムだった。
(2018年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。
『なぜ、これがアートなの?』