2013年11月23日。
トークショーのことをメールで問い合わせたら、丁寧な返信が来た。予約も入場料も必要ないので、その時間に来てください、とあったが村上隆がトークショーをやるのだから早めに行かないとギャラリーがいっぱいになるのではないか、などと思いつつ、少しあせりつつも着いたら20分前だった。人はたくさんいるが、会場になるらしい畳の場所にはまだ人がそれほど集まっていない。そこに座って、隣のぐい飲みを見ていた。会場には、磁器の作品があって、それは村田氏のそれまでの鳥などが絵付けしてある「かわいい」といっていいような器が並んでいた。
午後2時を過ぎてから、2人が座布団をしいて、正面に並んだ。
村上隆が時々目をつぶりつつ話をしている。
今回の展覧会は、「つばぜりあい」をしながら作りあげて、そういう意味では、さわやかな気持ちになっている。今回、ある器のお店を経営している人のからだエピソードで、ぜひこの展覧会を見に行ってください、と言ったら、もう初日でいいのは売れてしまっているから、という返事があり、そういう事ではなく、見に行ってください、というやりとりをしたのだけど、それに対して、そういうさもしい見方がダメだ、というような話。
そして、今回はなぜ優れているか?という話。
作家本人は「未完成で」というような事を言っているが、何のツテもなく韓国に渡り、そこで作品を作った。というような事で、遠くに大芸術のともしびがみえた、という作品だと思う。そこで留まる人。見た、と言ってそこで商売をする人。いろいろな人がいるのだけど、村田さんは、ここからつらい芸術家として活動をするけど、その成果が今回の展覧会として結実している。今も、これが売れ残っているのか?という感じがある。バカだなあ、と。いろいろ言われている。ちょっと塗り過ぎている。たれている。うんぬん。そんな事ではない。この人は、これがバブルの頃なら松の木を、それも薪割りの人を雇って、そのお金を1回の焼きで50万も使う感じもあったのだけど、この村田氏は、廃材を使わせてもらって経費を抑えている。そんな方法をとりながら、遠くに見える灯火に向かって作り続けている。そんな話をしていて、その村田氏は、隣にいて、普通に力みや変な防衛もなく、信頼できるたたずまいをしていた。
村上隆は芸術は本当に命がけで、作品を作ったあとはただのふぬけになっている、と言った。その言葉が大げさでなく、そしてこの陶芸家とウマがあったという事は、それは、命がけで大芸術の遠くのともしびに向かって進もうとしている、そんな志をどちらも持っているせいではないか、と思った。
村上隆は「うぶ」という表現をしていた。これは奇跡の瞬間で、そういう事は気づかれない。普通な顔をしている、オリジナリティーがあるわけでもない、だけど、そういう事ではない、という言い方をしていて、また岡田斗司夫が、100万以上の値段の作品を売るやつは信用しない、みたいなツイッターをしていて、それをリツイートしている人がいて、という事を前提にしながら、ばかばかしい。何のことも分かっていない。国家が権威を誇示するためのテクノロジーなのだから、昔の茶碗が10億とかいうけど、それは安すぎる、というような言い方も村上隆はしていた。それは、他の今のヨーロッパなどのリアルを知っている、というか、骨身に沁みて分からされた人間の発言なのだとは思う。
そんな話を聞いて、身が引き締まったと言うか、この展覧会のものを買って帰ろうと思った。
妻が湯のみがないと言っていた。この前は、ピンと来るものがない、と言っていた。それでも、自分が使えばいい、と思って選んで買った。
家で妻に見せた。私のことを思って買ってくれた感じがする。それは本当だった。そして家に買ってきて、机に置いた。尾形アツシの私の湯のみと一緒に並ぶと夫婦湯のみに見えた。すっきりとしている。見ていると、スッキリとし過ぎていて、まるで素人が陶器屋で作ったものにも見えてくる。そんなはずはない完成度があるのに。これが「うぶ」という事かもしれない、と思った。もうベテランの陶芸家が、こんな作品を作れるわけがない。普通ならば。この邪心がない感じ。考えたら、個性的が偉くて、そしてどこか個性が感じられる器がやっぱり偉くて、これにはそれがほとんどないから、その薄味が妻にピンと来ないと言わせたのかもしれない。
ただ、買って来て、手元に置くと少し変わって来た。それは今日の村上隆の話に少し洗脳されたせいもあるかもしれないが、でも、買ってよかった。これは他にない器かもしれない。
北大路魯山人が、詐欺師っぽくてひどくて、でもその中にひとかけらの芸術を見たりすると、感動する、と村上隆は言っていた。そこまで見極められる目になれるとは思わないが、そこまで見ることが出来る村上隆はすごいと思った。
(2013年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。