アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「ドイツビデオアートの30年」。1997.3.15~5.18。原美術館。

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「ドイツビデオアートの30年」。1997.3.15~5.18。原美術館

1997年5月17日。

原美術館は平日に行くのが多いせいもあって、人が少ないイメージしかなかったが、最終日の前日の土曜日のためか、人がたくさんいた。ドイツビデオアートの30年。というタイトル。

 

横たわって上の方を見ていると、ごく短い瞬間にいくつもの映像が走っていく作品を見るために、展覧会で初めて並んだ。正直、並ぶほどの価値があったかどうか際どいところだと思う、ひねりが少し少ない感じがしたからだ。タイトルが処刑台。それでも、それに、ふさわしい映像が見えたと思う。

 

植物の根が入っているような大きな試験管がならんでいるような作品。

若い女性と年老いた女性の全裸の像が交互に表れる作品。

ビデオカメラが何台か置いてあってお互いに写し出しあっているトンチという言葉を思い出すような作品。

 

全体として、生真面目だったり、何か印象がやや薄いという感想が残ってしまう。

 

手作業の味わいや重みといったものを感じさせてくれる絵画というもの。

それと全く違う手作業を意識的に消しているポップアートといったもの。

こうした作品は、それぞれなるほど、と思わせてくれたり強めの印象をこちらに送ってくれる。

それに比べて、比べるのも変だけど、ビデオアートは何か距離が遠すぎるように思う。それは、たとえばエヴァンゲリオンのような映像がテレビで見られるような時代だから、その刺激に慣れ過ぎているのかもしれない。専門家に言わせると、それはアートとは無関係とかいいそうだけだし、確かに刺激が強いだけでもつまらないんだけど、でもアートがそういうライバル達に勝っているかというと、また疑問が出てくる。

 

例えば、この展覧会を見ての思い付きに過ぎないけれど、ビデオをせっかく使うんだから、他の作品では表現しにくい時間というものを、これまでにない方法で表現してくれれば、ビデオアートがあって良かったと思える気がする。逆にその方向にも行かないとダメなんじゃないかと、見終わって思う。

 

たぶん、30年という時間の短さなのではないか。蓄積の量の足りなさではないか。映像に対しては、それほど語れないとは思うけれど、でもビデオが凄くなるのは、その操作が難しかった昔ではなく誰でも作れるようになるこれからのことになるのではないか。関わる人がもっと圧倒的に多くなり、もっと膨大な作品がうまれるようになり、そうなって初めてビデオアートのすごい作品が出てくるのではないか。今作っている人を軽く見ているとかいうのではなく、そんなことを考える。

なにしろ、これからだろう。でも、もしかしたら、すごくなっていく過程を見られる可能性があるのは、ある意味で幸せなのかもしれない。

チラシにこんな説明も載っていた。

 

「ドイツのビデオアート

マスメディア社会のアメリカでもなく、技術大国の日本でもなく、ドイツがビデオアートの発祥地だというと意外に思われるかもしれませんが、1963年ドイツにおいて発表された、あるいはドイツ人がアメリカで発表した作品が、ビデオアートの最初期の例として知られています。(もっともこの頃にはまだビデオがなかったので、実際にはテレビや映写フィルムを使った作品ですが)そしてこの初期の段階からドイツではビデオ彫刻に属するような作品が比較的多く作られてきました。これは作家の関心が、単に新しい映像を生み出すことにとどまらず、テレビや巷にあふれる映像が私たちの意識・潜在意識に与える影響などに向いていることと関係があると思われます」。

 

 

 この中で例えば、パーソナルコンピューターの世界でもアメリカにかなり遅れをとっているのでは?と詳しくない人間にも思われてしまうくらい、今の日本が技術大国ということには疑問が出てきてしまう。

 

(1997年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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