アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」。2019.8.28~11.11。国立新美術館。

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「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」。2019.8.28~11.11。国立新美術館

2019年9月14日。

 トークショーに出るために、見ておかないと、といったような義務感でまずは展覧会も見ようと思った。それは、チラシも、タイトルも、それほど惹きつけられる、という感じではなかったから、そんなに期待はしていなかったのは、文学、という単語が出ると無意識に近い形で警戒してしまっているからかもしれない。

 

今、文学、ということを考えるのであれば、前提として本当に成り立っているのだろうか、需要があるのだろうか、みたいな疑問を抜きに話せないだろうか、といったことを考えてしまうようなことが、自分で勝手に重く感じすぎるせいだとは思うのだけど、今回は、トークショーの開場の1時間半前から会場に入ったから、ゆっくり見られるのではないか、といったようなことを思って、入る。

 

 入り口から入って、壁にナンバープレート。曲がって奥に行くと、壁の中に小さい部屋があって、そこに意味ありげに並べられたナンバープレートがあったりして、いかにもインスタレーションというような印象があって、これだけきっちり設置されている気持ち良さは、久しぶりかもしれない。田村友一郎。そして、広めの部屋の上部に4つの方向へモニターとしての画面があって、そこにどうやらマクドナルドにクルマが突っ込んだアメリカの光景が映し出されていて、どちらもアメリカの象徴みたいなところがあって、それを見ていると、文明みたいなことを考えたりもできた。

 

 ミヤギフトシ。映像や写真などを使って、沖縄の写真が並んでいるようなのだけど、中には、動画も入っていて、さらに作者も含めての会話が聞こえてきて、それも、とてもプライベートな内容で、そこから沖縄のことやジェンダーのことや、いろいろな連想もできて、何より、この展示室はもし家としたら、とても広い場所なのだけど、かなり狭く感じるは不思議だったし、その会話を聞いていると、部屋の1箇所ではなく、別の場所の動画に映っていて、この空気感が漂ってくるような感じがしていた。

 

 だんだん暗くなっていって、展示室はかなり暗めで照明で作品が照らされているような配置になっている。それは、戦前、中止になった東京のオリンピックの聖火の道筋や、原子力爆弾の材料ウランの運搬のことをテーマにしながら、それを詩的に構成していた。気持ちよさがあった。小林エリカ

 

 豊嶋康子。確か、振込用紙を使った作品があって、そうした日常的な細かい素材を使っていた印象があって、今回も勝手に、そうした期待をしていたのだけど、かなり大きい額縁を使ったような作品が並んでいて、そこにあまり気持ちが動かなかった。

 

 山城知佳子。映像作品。映画と変わらない感じに見える。途中までで、出てきてしまったが、沖縄の家庭を舞台に、基地建設にからんでのことで、埋め立てのために、それも必要かどうかわからない施設のために、伝統や信仰がある山まで本当に無残に掘られている映像は、印象が強かった。全部は見られなかったのだけど、トークショーのあとにまたきて、全部が見られた。どこか達成感もあった。

 

 北島敬三。1991年頃の東欧諸国の人々の写真。暗く、厳しく、リアルな顔が並んでいた。最後は、地方都市を中心に、廃墟みたいな場所も含めて撮影しているシリーズは、2011年の東日本大震災以降に撮影されていて、その光景は、やや実在感が薄く感じるほどの、異様な雰囲気があって、ちょっと恐さも感じた。

 しっかり見られて、充実感もあった。11月3日は、無料の日だから、その時に妻と一緒に行きたいと思った。

 

(2019年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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