アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「アーティストファイル2013 現代の作家たち」。2013.1.23~4.1。国立新美術館。

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「アーティストファイル2013 現代の作家たち」。2013.1.23~4.1。
国立新美術館

 

2013年3月20日。

 まだ学割が使える。3月いっぱいまでらしいが、一般の半額で500円。やっぱりまだうれしい。最初の部屋はチョン・ヨンドゥ。韓国の作家。子どもが描いた絵を現実化させて写真をとる作品。昔、映画を一本撮るくらいのお金をかけて写真作品をつくってたアーティストがいたが、それとは違って、なんとか工夫をして、再現しようとしていて、その必死な感じとか、楽しそうな感じも、けっこう面白いと思って、お、この絵がこの写真に、というような気持ちになり、その数が多くて、それがやっぱり面白いと思う。

 

 東亭順。中古のシーツを使った平面作品。それに対して、オイルやニスをにじませて形になっている。表面が妙にすべらかになって、きれいに見える。その向こうの壁に、しみがついていない部分にピンが指してある。ものすごい数。

 

 その次の部屋には、丸太や焼き物をくみ上げた部屋いっぱいで、もしかしたら崩れてくるかもしれないと思わせるくらいのバランスの巨大なインスタレーション。国安孝昌。でも、どうしても川俣正を思い出してしまう。

 

 その後に子どものこちらを見ている顔。視線との高さによって、その感じ方が違うかもしれない。テンペラの技法(その難しさや独特さを理解していないが)中澤英明。

 

 それから、利部志保。そのいろいろな並べ方は、少し平凡さみたいな感じがして、申し訳ないが、あんまりピンと来ない。何かを並べる。それをどう配置するかは、決意が必要だけど、それをどの瞬間に決めるのだろう、それを自分でどう評価するのだろう?それを見る側が、うまくいったとかダメだったとか、どうやって感じているのだろう?

 

 ナリニ・マラニ。インドの作家。絵も、映像も、なんだかこわい。そのあとに、また中澤の子どもの顔の絵。2012年に急にたくさん製作している。この展覧会が決まってから、製作しだしたのだろうか。大震災のことも関係あるのだろうか。中には「一つ目小僧」というのもあって、それは反則ではないだろうか、などとも思う。

 

 そのあとに、志賀理江子。どこかの展覧会で、すごいと言われていて、気になっていた。写真が壁のように、バラバラに、まるでススキが高く不規則に生えている空き地のように、物体のように並んでいる。だから、あちこちを迷路のように歩いて、そして、その写真は、そこに写っている人達との信頼があるのだろう、というのが分かるくらいに、自然に何かをしてくれている。ただ、全体として、夜に撮影されたものが多く、不吉な気配が強く、その部屋を歩いていると、ちょっと恐さがある。あとの映像で、この部屋のレイアウトの決め方を、作家本人が、A3くらいの紙に小さく、この部屋を再現しているような模型を作って、指示している姿を見て、なんとなく納得がいった。

 

 最後、ダレン・アーモンド。具合が悪くなって、もうすぐ死ぬかも、でもその時は20年前に亡くなった夫とダンスをするの、みたいな話を再現したような暗い部屋。ダンスをしている男女の足首を映している映像。ダンスの名門の場所にある何かしらのシンボル。切ないメロディ。なんだか悲しくなる、というか、切なくなる、というか、自分が老いていくことを強く意識させられる、というか。そのあとの写真は満月だけで映した景色。不思議なまろやかさが満ちている写真。 

 

 アートは、言葉にならないようないろいろな感情を起こさせる狙いもあるのかもしれない、などと会田誠が言っていて、今日はそうだろうな、と思い、ただ、なんだかやりきれないような気持ちが残った。面白かったけど、明るい気持ちにはなれなかった。いい展覧会だったと思った。

 

 

(2013年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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