アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「ピカソ展」。1999.3.13~6.14。上野の森美術館。

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ピカソ展」。1999.3.13~6.14。上野の森美術館

1999年6月5日。

 

 天才も傑作ばかりを残すわけではない。

 そんな当然のことが常識でないかのように、アートを語る時にピカソの作品は全てが天才の証明のように言われてきた。少なくとも、その名前が何かの切り札みたいに使われることは想像以上に多い気がしている。

 

 時々、どこかの美術館の常設展の中に「これ、ピカソに似てるなー」と思ったらピカソだったりすることがある。それを知って、これは生意気な発想なんだろうけど、これは駄作に近いんじゃないか?と思ったりもする。ピカソという名前で凄く高い金額を語る西洋人の画商のイメージが、頭に浮かぶ。全然違うのかもしれないけれど、それをどこか有り難さを抱いて、買ってしまう美術館の学芸員のイメージも一緒に浮かんだりする。

 

 ピカソは量産しただけだ、ある時期を境にして。

 そんな文章を読んだのはどの雑誌だったかも憶えていないが、いつも同じような作品を描いて飽きないのか?と思うことも多いが、それは商売として考えたら自分のイメージはいい意味で固定していた方が楽なのは分かるし、天才だ!と思った漫画家の多くだってキャラクターは一つ生み出せば精一杯なのを見ても、見る側の贅沢に過ぎないかもしれない。

 

 上野のピカソ展へ、妻の友人の方と一緒に行った。

 その人が「ピカソが見たい」と強く希望しなければ行かなかったと思うが、土曜日で混んでて人ごみは嫌だったけれど、ピカソは人が来るんだと確認できた。

 

 最初の年表に人だかりが出来ているのは相変わらずだが、最初の自分を描いたような絵から、もう違っていた。ただの個人的な感想だが、ピカソのその絵は印象派とは違うやり方で新しいリアルを模索していたようにはっきりと思える。ちょっとイラストのようだ。絵にしか見えない、でもそれまでの写実とは明らかに違って不思議な軽さを感じる。古く見えない。その後、青の時代が来て「ピカソは写実的な絵がうまいから、その後に(訳が分からないけど、凄いらしい)キュビズムの絵を描くことが出来た」と教養好きなオバさんたちが言いそうだけど、それが違うのを確認できた気がした。たぶん、当たり前だけど、最初から違っていたと思う。

 

 その後にもピカソの作品ばかりが並ぶ。

 当然だけど、こんなにまとめて見たのは初めてだ。アートに興味を持ったのが、ここ3年だから余計にそうかもしれないけど。

 違和感を感じたのは、自分の娘を描いた絵を見た時だ。その絵は1930年代。ピカソキュビズムで衝撃を与えたのが、その20年ぐらい前らしいと、カタログで調べて自分の違和感に勝手に納得がいく。たぶんピカソはその娘が可愛くて仕方なかったのだと思う。そうしたら、その可愛さを素直に描けばいいのに、無理矢理ピカソ風に描きました。そういう不自然さが、その絵にあったように見えた。

 

 さらに絵は並ぶ。

 最後の方に最晩年の作品がある。80をこえた頃のものだろう。また凄くなっている。解説に「自由すぎて、展示できないものが多くここにあるのは抑制が効いた作品」と描いてあるのを見て、また凄いと思う。

 

 生命力。自由さ。ピカソの写真を見て、ただの下品な落書きのようなものがかき込んであるだけなのに、やっぱりうまいと感じた時以来の感想。

 

 歳をとって、すごくなっていかないとダメだ。

 改めてそう思う。

 それにしても、自由すぎて展示できないと解説してあった作品を見れないだろうか?その時こそ、天才だ!と、もっと素直に感動できるかもしれない。それにしても、例えば「ゲルニカ」といった傑作といわれる作品を見ていないのに、こんなことをよく書くな、と自分のことながら少し思うがこんなことを書きたくなってしまうのは、ピカソのパワーのせいかもしれない。やっぱりすごいんだ。ただの絵なのに。でも、絵を描く人間なんて物凄く多いのにこんなに差が、それも露骨に出てしまうのも、やはり不思議だったりする。

 

 

(1999年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

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