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1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

NO MUSUEM , NO LIFE? これからの美術館事典 国立美術館コレクションによる展覧会。2015.6.16~9.13。東京国立近代美術館(竹橋)

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NO MUSUEM , NO LIFE? これからの美術館事典 国立美術館コレクションによる展覧会。2015.6.16~9.13。東京国立近代美術館(竹橋)

 

2015年9月12日

 最初は「お勉強」みたいなイメージで気持ちが敬遠していたけれど、雑誌に載る展覧会風景を見て、勘違いだったのではないか、と思うようになり、最初はただコレクション展かも、と思っていたが、日本にある東京・京都・国立国際(大阪)・国立西洋・国立新、という5つの美術館が主催だと知り、ただ、この中で、国立新美術館は収蔵品がないはずだから、それで美術館かどうか?というような論争が起きたらしいのだから、ここにいる意味がないか、もしくは、そういう事そのものもテーマにしなければウソなのに、とあとになって思うようにはなったが、それでも、貴重な機会かもとは思うようになり、妻と相談して、一緒に出かけた。

 

 Aから、Zまで、アルファベットにそって、テーマが作られ、そして、美術品だけでなく、美術館というものまでを展示しようとしているのは分るが、そういうメタ視点を取り入れているおもしろさもあるにしても、そういえば、この美術館で「プロジェクト・フォー・サバイバル」で、キュレーションのおもしろさに気がつかせてくれたのだから、ここの美術館は、そういう場所なのだろう、ということなのだろう。土曜日だけど、それにしても、思った以上にたくさんの人が来ていた。

 

 作品は、オリジナル、のところにウォーホールの花の絵があったりして、的確というか、それにそこにはデュシャンの作品もあって、どちらも国立国際美術館所蔵だと書いてあったので、そこにはおもしろい作品が多そうだった。

 

 アルファベットで、Hで、ハンギング、吊るす事とか、少し強引だったりもしていたりもするが、どれも、美術館のことを考えさせられるようなテーマもけっこうあって、それでいて、作品も豊富で、藤田嗣治の作品のきれいさが改めて伝わって来て、そして、会場構成も考えられていて、時々、壁に四角い穴があいているが、そこから眺められる光景は、美術館、という構造そのもので、作品が並んでいて、そこに人が通って、黙って見ている、というような動きがあって、それは改めて考えると、ちょっと不思議な事でもあると、少し気がついたりもする。

 

 おそらく中東の兵士をリアルに人形に作り、その兵士が壁に目をあてていたら、その向かいに穴があり、スタッフに登って大丈夫です、と促されてのぞくと、その作品を忘れた頃に、その兵士の目があった。作品が、美術館があって、見せる場所として機能していること。その準備の映像とかも、田中功起の準備をしているふりのパフォーマンスの映像と並んで映っていて、さらには照明も、ただ光だけをあてている壁面があって、そこにあるモネの絵が柔らかくて、なんだかよかったりもした。

 

 最後はYがYOU .そして、ZがZEROで終っている。

 Yには、鏡がって、見る人がいないと成り立たないこと。

 ゼロは、美術館にあるのか、というような言葉と共に、前回の展覧会の終わりと、今回の始まりの部屋の再現みたいなことをしていて、すごく決まった終わり方だとは思った。

 

 そのあと、常設展は、部屋がきれいになっていたり、藤田の作品がけっこうあって、その中でもアッツ島玉砕は、野火の映画を思い出した。イケムラレイコの作品があったり、思った以上にいろいろとあったが、全部、見るとかなりの分量があり、けっこう疲れる。とはいっても、300年間の作品から、つい最近の作品まで、そして、その製作にかかった時間などを考えると、そして、その才能とか運とか命とかを考えると、ものすごく膨大すぎるものがあるのだと思う。小林秀雄の言葉に、芸術は、道楽みたいなものじゃない、ということを言っていて、なんだか納得もした。

 

 今回の共催は、朝日新聞東京新聞日本経済新聞毎日新聞・読売新聞・NHKで、これだけ揃うと何だかすごいが、規模からいったら、東京新聞が少し仲間はずれになるのだろうか。うちは、安いという理由で、この新聞をとっているが。

 

 

(2015年の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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