アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「ユトリロとヴァラドン」展。2000.5.17~6.18。小田急美術館。

2000年6月14日

 ユトリロとその母親・ヴァラドンの展覧会。

 日本ではほとんど初めてらしいヴァラドンの絵は、でもそれほど凄いと思わなかった。いろいろな画家と付き合い、誰の子供か分からないままに、ユトリロを生んだらしい。そういうエネルギーは感じるものの、それならゴッホの方が、それならゴーギャンの方が、それならマチスの方が、といったことばかりを考えさせてしまうような作品だった。もちろん、人によって感じ方が違うから、会場のノートにもヴァラドンの方が素晴らしいと書く人もいるのだから、自分だけけが正しいわけでもない。

 

 でも、会場で、ユトリロの絵を見たら、初めて見たような気がした。

 こういう絵は、カレンダーで、それもトイレにかかっているような印象が強かった。何か、おとなしいというか、無難というか。それが、初めて実物を見たら、何しろ、キレイだった。街角が哀愁とか何とかの前に、何も知らずに見ても、たぶん素直にキレイといえるようなものだった。

 

 街角の店や道路がきっちりと、それも静かに、というだけでなく、何か他のことまでも描いてあるような感じ。何かが、過剰というか。

 

 白の時代。と言われるものの後に、色彩の時代と言われる絵が並ぶ。それを見てしまうと、さっきはキレイと感じた白の時代の絵が何か物足りないものに思えてしまう。それだけ、凄みさえ感じる華やかさがあった。

 

 ただ、その街を描く視点もよく見ていくと何か、変だった。

 立っている高さにしては少し低いような。それで座っているかといえば、少しそれでは高いような。それでいて、中には伏せて描いてるのでは。と思えるような作品もある。

 

 白の時代と名付けられた後にユトリロは、精神病院へ入ったり出たりの時期があると言う。それも今回、初めて知った。

 それが、どこかリアルに感じられるのは、その人物だった。

 どの時代を見ても、そんなに人間が描かれているわけでもないが、描いてある作品は、どれも人物がひどい。何か、小学生の絵日記のただ正面か、後ろを向いてるような人間が並んでいる。それも記憶をたどってみれば、ほとんどが女性だったような気がする。印象派の人達が非難を受けたような、ただ簡単に描いてあるというのとは違う。もっと明らかに下手だと思う。それが悪いというのではなく、言えるわけもないが、でも、建物や街並にくらべると、あまりにも差があり過ぎるからだ。投げやりな感じ。描く気がない。誰かに、言われたんではないか。人も描いた方がいいよ。とか。そんな感じで、明らかに描きたくて描いた訳ではないのだけは、分かるような絵だった。

 

 あ、何だか、人間が嫌いなんだな。と思った。街並の丹念さや集中力と全く違うからだ。そのために病気になったのか。それとも、病気がそのことに拍車をかけたのかは、よく分からないけれど。

 

 何で、全部を人間を全く描かないで、暮らせなかったのだろうか?

 それは分かるわけもないけれど、ユトリロが有名になってからも母親は若い恋人と暮らし、子供の収入を使っていたかどうか分からないけれど、その母の妙な影響か何かで、むりやりにでも人物を描いていたのかもしれない。

 

 そんなことを考えさせるほど、その人間の絵は、妙な印象を残した。でもそうしたことを含んでも、キレイな絵だった。それは、その後に街の風景画といえば、ユトリロもどきが物凄く多くなったらしいが、それも何だかよく分かるほどの絵だった。

 

 でも、建築のコルビジェとたぶん同じで、すごいと思って、それを模倣しようとする人間を数多く生みやすく、でも、その模倣が、その最初のものとは、似ているけれど、その事が余計に気持ち悪くなってしまうような気もした。真似したいと思わせ、真似しやすそうに見えて、実は真似するのが、かなり難しいもの。

 それが、ユトリロの街の絵、だと思った。

 

 

(2000年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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