2016年12月10日。
一度、見に行ったアトリエ。そんなに広くないのに、いろいろな作品があって、そして、そういう場所があるというのが何だかうらやましいというか、そこにいたアーティストらしき人たちは、そこで集まって、作品を作ったり、話をしたり、張り合ったりしたり、そんなことで一人では出来ないような作品が出来るのだろう、と思ったりもした。
今回は、カオスラウンジがあちこちで企画した地域でのアート、その結果を作品化したらしい、というような情報で、評判もいい、ということだったので、行きたいと思った。
ドアをあけたら、もう違う空間になっていて、今年、あちこちで使った作品がかなりアトランダムにつなぎ合わされるようになっていて、この前見たアトリエ、という部屋が、本当にどうくつみたいになっていた。梅沢和木の作品は、そういう中でも、うもれずに目立っているように思えたのは、自分の好みだけかもしれないが、奥に進むと、映像作品があって、それはあちこちの土地の意味を強く反映しているのだろうな、とも思えた。しばらく見ていて、先に一人、静かにじっとたたずむ若い女性の観客がいた。
いつのまに、カオスラウンジは、これだけ重要なアートとして復帰したのだろう、そして、去年、見たいわきの作品群は、あとになって、その意味がずっと分かってきて、その土地でやる意味があるんだ、と思えたので、長く興味が持てて、印象がまた深くもなったが、その土地、(土地という言い方ではなくて、土着みたいな言葉の方がおそらくは近いのだろうけど)その場所に特有な意味を、それこそ観光で訪れた人にも、気がつかせてくれるような、そんな印象があった。
ただ、それはその土地にある様々な記憶を蘇らせる、といった力も持つので、それがその場所から切り離されて、五反田に、それも別の土地のための作品も集められているだろうから、などと思うが、その意味は当事者が一番感じていて、と思った。
もしかして、今年、その土地で作品を見ていたら、これを見て、全然違う印象かもしれない、と思って、それでも、こうした展覧会をきちんと年末にする、形にしてもらって、見せてもらえるのは、やっぱりうれしい、というか、有り難い気持ちにもなった。
中には、おそらくアーティストがいて、狭いので、作品を見る時に道をあけてもらったりもして、帰りも、ドアをあけて、出て、中に入ってこようとする人に、一応、あいさつもしたが、とても暗くてまっすぐな視線を向けられて、それは、先が分からないが、死ぬことが実感できない若さを持っていたと思った。
(2016年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。