2021年10月14日。
コロナ禍になり、今年の夏は感染者数が増大し、東京都内に住んでいると、とても怖くなり、外出を控える日々が続いた。
これまで、2018年末まで、19年間、介護をしていて、気持ち的に辛い時には、アートを見に行って、それ以上、気持ちが沈み込むことを避けられてきた。今回は、見に行きたい展覧会や企画や作品があっても、毎日の新規感染者数の数を見て、家族には気管支の持病があるので、とにかく感染しないことを優先する毎日だった。
外へ出ないで、やろうとしていることも増やせず、経済的には厳しくて、ただ不安が増える時間が長くなり、それで、思った以上に気持ちが萎縮したせいか、なんだか外を見て、小雨が降っていたりすると、「何をやっているのだろう」と、生きている意味みたいなものを考えることも多くなっていた。気持ちは沈み気味なのが日常になっていた。その一方で、何かしらの努力や工夫も、それが足りないせいか成果が上がらず、無力感だけが強くなっていた。
そんな時に、テレビを見ていて、展覧会の情報に触れた。
これまで何度も個展を見てきたし、随分と長い年月、第一線で作品を作り続けて、発表してきたから、こちらで勝手にある程度のイメージが出来ていたのだけど、最も新しい作品群が、今までとはまた違った印象なのが、テレビ画面を通じても分かった。
それで、それまで全く行く気がなかったのに、行こうと思ったのは、85歳になって、また違う作品を生み出す凄さを確かめたかったのと、大規模な個展は最後になるのではないか、とも思ってしまい、ここを逃してはいけないと思ってしまったからだ。
85歳の今でも新作を描き続けていた。
それも、突発性難聴になり、あまり聞こえず、腱鞘炎で手首が痛み、その上、絵には飽きてる、と言いながらも、その条件を含んだ上での作品を制作し続けていた。
それほどの強い主張というのではなく、生きていることには意味がない。だから、いかに遊ぶか、みたいなことを、静かに語っていた。
どこかで「意味はない」と思いきれないような自分の気持ちもあったが、その一方で、意味はないと思えたほうが、楽かもしれないと思った。その上で、思うように生きる、といったことを見せてくれているように思えた。
妻と相談して、一緒に行くことになった。
二人で、アートを見に行くのは、本当に久しぶりだった。
コロナ禍のために、入場制限の可能性もあるので、サイトから予約をした。
やっぱり楽しみだった。
会期終了の週に、電車に乗って、東京都現代美術館に向かう。
地下鉄を乗り換えようとして、座席に座って、そこの窓も開ける。
妻は、電車に乗ること自体が、久しぶりで、二人で一緒に出かけるのは、本当に何ヶ月ぶりかで、それは、やっぱり少しずつうれしくもなってくる。
美術館は、チケット販売の場所はそれほど人がいなくて、予約して、プリントアウトして持ってきた紙を渡したら、入場券を渡された。
横尾忠則の個展は、1階から始まっていた。
昔の作品から、並んでいる。それは、50年以上前のものからで、まだ画家と宣言する前のデザイナーの頃のポスターは、今もかっこよく見える。そして、画家になってからも、その時に描きたいものを書いているらしく、同じ傾向の作品が集中的に並ぶ。
だから、何度か横尾忠則の個展を見ているが、その時によって、確かに横尾作品の共通点はあるけれど、かなり印象が違う。
会場には思ったより人がいて、この美術館で見てきた展覧会は、基本的にはゆったりと見
られることが多かったので、意外だったし、人が来ていることがちょっとうれしかったかけれど、時々、「密」になりそうで、ちょっと怖かった。
1階の会場にたくさんの作品が並び、さらに3階にも続く。
個人的に「Y字路」シリーズを描き始めた時は、とても身近な感じもしたし、こういう場所を描き始めるのは、すごいと思ったが、考えたら、このシリーズを描き始めた時には、横尾忠則は、60歳を超えていたはずだ。それも、最初は写実的だったのが、横尾の幻想が混じり始めるのだけど、どちらもよかった。
最後の会場には、現在の作品が並ぶ。
明るい色調。大きな絵画。画面には人がたくさんいる。何かにぎやかな感じがする。
ここまでもそうだけど、いつも生者と死者が、あまり区別されずに、作品には登場していて、だから、この世だけでなく、あの世のことまで感じたり、考えたりしていたことに、改めて気づく。
最後の部屋には、自画像と、突発性難聴になった時も作品になっていた。自分にはない経験なのに、すごくリアルに感じた。
どこまで理解しているのか分からないけれど、今も新作で、しかもこれまでとはまた違った新しさもあるけれど、それは、作者本人にとっては、さまざまな不自由なことも含めての条件を生かしていて、そして、同じ時代に生きている人が描いていると思えた。
生きていることに意味はない。だから、生きたいように生きればいい。そんなことを、いつの間にか少し思っていた。
来てよかった。大御所でもなく、古い作家でもなく、今も現役の人だった。
(2021年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。