2017年8月25日。
たぶん、この2人は対談もしたことがないと思ったので、行きたいと思って、妻に相談して、行かせてもらった。今回の企画でもう二度目のトークショーに来た。
日比野克彦と、ギャラリーの前の階段ですれ違う。スタッフと一緒で、相変わらず守りの気配が濃い。そして、トークが始まると、その守りが固い日比野を見越してないのか、これまでの日比野の活動をスライドにしたものが100枚くらいあるというので、この時点で、この解説で終わってしまうのか、というガッカリ感はあったものの、80年代は特に有名人の固有名詞だけで時間がたつほどで、日比野本人の言葉も、その時の事実を淡々と話をしていて、この人は本当に華やかなスターだったんだな、という気持ちにはなれるが、そのときの本人の感想や印象などは語られないまま、時間がたつ。
この前の村上隆のトークショーでは、日比野の作品は今でも瑞々しい上に、このときのリアリティがあって、素晴らしい、というような村上の言葉を思い出し、こうしてこれだけ慎重な人から、どうしてああいう作品が出てくるのかは、ちょっと不思議でもあったけど、それは現在の日比野であって、若い時は違うような人で、有名という中で生きてきたなかで、今の分厚い守りがないと大変だったのかもしれない、と思ったりもした。そのあと、村上隆が、言葉をはさむ。
すごく当時のそうそうたるひとたちと一緒に仕事をして、そして、いつもコマーシャルな仕事をしていて、それは、日比野さんが、その役割を果たしきれる、というようなことなのでしょうね、というようなことを言って、そのあと、もう少し個人的な感情をともなった話を日比野は少し話し始める。
大学院一年になったら、すぐに個展をしようと思って、7月に予約した。そして、そのあとは順調に仕事が来るのだが、それは淡々と語っていて、普通に考えたら、とんでもないスピード出世という下世話な話になるのだけど、日比野克彦の話は、そういうニュアンスではなく、ダンボールも特に意識した、というよりは、美大の課題で初めて使って、それから使い始めて、それでも、身の回りのものは何でもダンボールでできるような気がしていた、といった話をしていたが、何しろ、ずっとスターだった、というのは分かった。
途中から、ブルータスの元副編集長の鈴木氏も話に加わった。ブルータスがアートの特集をやるようになって、その時は必ず買っていたし、複数買って、人にあげていたりしたのだが、その姿は、いかにもバブル期のマスコミの人が歳をとった、という感じで、つまりは有名人固有名詞を、ちょっと得意げに語るような人で、最後は2人には共通点があるんです。名前が韻をふんでいる、と得意気に言ったときは、本当にがっかりした。
そのあと、村上隆がブルータスでの特集を組まれた2000年頃、日本を捨てた、と強い感情がまだ残っている言い方で語り、それは奈良美智と同じ年に個展をやって、圧倒的に入場者数で負けて、小山登美夫ギャラリーでも完全に二番目になってしまったらしく、その話を今の話のように語った。まだ何か心のキズのような出来事だったのかもしれない。それだけでなく、周囲のいろいろなことを含めて。
質問が誰からもでなくて、アート関係者ばかりに思える、こういう中で質問をするのは、勇気もいるけど、日比野さんは、いつ頃から村上さんを意識し始めたのですか?そして、どんな風に思っていたのですか、みたいなことを聞けばよかった、と後悔した。