アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「リアルのためのフィクション」。2007.3.10~5.27。東京国立近代美術館。

「リアルのためのフィクション」。2007.3.10~5.27。東京国立近代美術館

 

2007年5月5日。

 すでに、母の具合は、悪くなってきていた。

 でも、今日は、弟が見舞いに行ってくれるというので、少し休むことにした。

 

 前から行きたかった「リアルのためのフィクション」というテーマの展覧会。妻の好きなイケムラレイコの作品もあるというし、ソフィ・カルのもあるしやなぎみわのもあるし、と思っていたら、これは、展覧会というよりは、コレクションを、少し違う角度で見せる、といったものらしいと知ったが、おそらく、これが、この企画を見に行く最後のチャンスだと思い、とにかく行くことにした。

 

 最初は今までと同じような近代の作品を見ていった。妻が好きなクレーがあって、やっぱり「あ、クレーだ」と言ってしまうような感じがした。岸田劉生の坂道の絵があったり、他にも「美の巨人」などで見た作品が、けっこうあったり、藤田の戦争画がドーンと大きくあった。

 

 1階に来て、かなり現代に近いところに来たら、フランシスベーコンの作品があった。きっちりとして、どこか品がよくさえ、見えた。妻は、これを見て、すごいと言った。表わしにくい事をここまで形にしているのは、やっぱり凄いんじゃないか、というような言い方にこちらの方が感心してしまう。

 

 そして、40代くらいの、日本画家といわれるような人の「さくら」の絵に、妻は、こういうのが見たかった、と喜こんでいて、それだけで、来てよかった、と思えた。

 

 リアルのためのフィクション展。

 かなり大きな部屋を使った塩田千春の作品。テレビがポツンと置いてあって、そこにひたすら泥をかぶり続ける、たぶん作者の姿があって、体というものの生々しさみたいな事まで思ったりしているが、不思議と見ているのは、こういう感覚は、見ているだけで、やっぱりなにか、いろいろな気持ちが刺激されるのかもしれない。

 

 ソフィ・カルは、もっと説明がないと面白さは分らない作品なのだろう、と思い、イケムラレイコの作品は、前も何度も見た、横たわるのか、これから立ち上がろうとしているか、倒れたのか、というように、いろいろに見え、でも、全体的な暗さに目がいくような、不思議な濃さがある作品で、そして、全体的には、こういう風に絞った作品だけで構成されていて、ゆったりと見れて、そして、それなのに、ただ調和しているだけでない妙なザラザラ感は、どれからも漂っているような気がして、よかった。

 

 近代というよりは現代という作品だったが、こういう工夫で、おそらく印象には残りやすいものになった、と思う。何度も、そして簡単に決めゼリフのように使うと、自分自身でさえ白けてしまうけれど、でも「リアル」を求める姿勢のようなものは共通しているのは間違いないようにも思えた。

 

 

 

(2007年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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