アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

平田オリザ×佐々木敦 ニッポンの演劇4「現代口語演劇はいかにして更新されたか」。2016.6.28。ゲンロンカフェ。

平田オリザ×佐々木敦 ニッポンの演劇4「現代口語演劇はいかにして更新されたか」。

https://genron-cafe.jp/event/20160628/ 

 

2016年6月28日。

 

 この前、「ニッポンサポートセンター」を見て、何が面白いのか分らないのか分らないまま時間が過ぎて、気がついたら見終わっていた。最後、歌になってそれはどうなんだろう、などと、すごく昔の小劇場っぽいなどと思っていて、だけど、何も解決しないまま、とか、相談だから、ある種のまだるっこしさとか、相談空間に気をつかってますよ、というようなアピールに近い装置とか、いろいろな工夫が確かにあって、面白かったが、それは、今日の対談のため、ということもあって、ただ、出かける前よりも、出かけた後の方が、行ってよかった、というような気持ちにはなれた。

 

 ほぼ時間通りに平田オリザが来て、話し始めた。マイクを持っていないほうの手は、体に巻き付くようなポーズになり、中指が緊張しているのが分るから、この人でも緊張するんだ、というのは伝わってきたようにも思えた。すごく頭がいい人という印象は、話を聞いても、変わらない。

 

 とても断片的になってしまうけれど、聞き取れたことだけを、書き残そうと思う。

 

 

 高橋和巳の作品のこと。

 今は、中間層を意識して、言葉や声を伝えたいと思っている、という言葉。

 

 ケラリーノ・サンドロビッチ。

 分りやすいものを作るのは、芸術家の役割ではない。

 

 瀬戸内国際芸術祭が、これだけ成功しているのに、北川フロムが香川県議会に呼び出されて、香川県出身の作家が少ないのでは、と言われる。それは、レイシズムだ、と言っても、おそらくは伝わらない。だけど、芸術の公共性に対して無知すぎる。

 

 そして、議論を起こすのが芸術のミッション。答えを出すものではない。

 

 ニッポンサポートセンター。演劇は観客が知っていて、登場人物が知らない、といったことは、演劇だけができる。3つの部屋があって、そこでの同時多発を想像してもらう。観客の想像力を信頼する。全部、未解決だと決めていた。それに対して、観客のNPOの人とか、校長がリアルだと、ああなんだ、という感想を述べていた。プロットは決まっている。64プロット。それは起承転結で、4部構成で、それぞれがまた4つに分れている。さらに4つ。だから、3−1−1だと転だから、事件が起きる。

 

 

 現代口語演劇に至るまでの話も、当然ある。

 

 影響を受けたのが、「ことばと文化」鈴木孝夫。そして、「繰り返しの文法」牧野成一。

 二人の言語学者に影響を受けて、元々、演劇は西洋の影響で、それを直訳して、そのまま受け入れようとしすぎていて、だから、文法を考えないと。そして、日本語を相対化しようとして、近い言語を学ぼうとして韓国に留学した。いろいろな意味で、80年代は、日本語演劇は転機になっていた。

 

 つかこうへいは、見た。中学一年のころ、東大生の演劇で見て、こんなに自由でいいんだ、と思えたし、野田英樹にも影響を受けたし、それから、アングラ的なものはアンチ近代だけど、それは近代でもあるのだから、もっと日本語へ落とし込むことをしないと、と思っていた。
 
 現代口語演劇から、様々な人が出てきて、その多様性はありがたい。
 

 青年団の演出部は、演出家を育てる目的。ないので、作った。

 そして、無隣館は、養成のための学校。本来は、公的機関がやることをやろう。そして、養成にお金をとるのはおかしいとおもっているので、無料。ただ、無料にすることによって、優秀な人が集まってきてくれている。演出家を育てる所が他にない。

 

 

佐々木 養成期間があって、そこでお金を集めて、運営資金にあてる、というようなシステムがあって、それは一つの方法だった。

 

平田 確かにそうかもしれない。ただ、ヨーロッパで仕事をするようになって、自分もそして俳優も負けてないと思うのだけど、2点だけ、どうしても勝てない、と思えることがある。それは、1つは、劇場のプロディース能力。もう1つは、教育のレベル。こうしたことは、発展途上だったら関係ないのかもしれないが、社会が成熟してくると、それ以上先に行くには、どうしても必要なものになる。

 そのためか、一度も「劇場代」を払うことなく、岸田国士賞まで行けた演出家が出てきた。だいたい、「劇場代」なんて、ヨーロッパでは意味が分らないものだし。

 演劇以外の仕事は依頼があるからしているだけ。ただ、制度設計の能力があるから、何かやっているように見えるだけで、でも、芸大に演劇学部が出来るとすれば、それは100年に一度の仕事になりますから、できるだけやりたいですが。

 

 そして、フランスの話。 

 演劇もものすごくエリート主義で、少数に予算をかけている。でも、それは「才能の元に平等」ということで支持されている。

 今までの日本の演劇界は、演劇界だけでなく、ジャポニズムを押し出すしかなかったが、それは今は先人達のおかげで、必要なくなった。ただ、今は、たとえば移民問題にしても、日本というアジアの国からどう見えるのか、それを独自な視点を提供できれば評価される、ということになっていると思う。あとは、たとえば西洋では当たり前すぎて気がつかないようなことを提示できれば、僕は分りやすく説明ができるので、

 それから、経済はフローとストックというので回っているはずだが、日本の文化はフローばかりだから、いつも自転車操業になってしまっていると思う。

 

質問のコーナー

Q 世界のことを、どれくらい言語化できるのか?

平田 佐々木正人 さんが言うには、例えば 天才のやることは、1パーセントしか言語化できない。ということだったけど、その1パーセントできることで、ものすごく作業の質が上がっていく。

 

Q いい演劇とは?みんながいいというものがいい、ということについて。

平田 いい演劇とは、世界感や人間感を刷新してくれるようなもの。こんな風にみることができるんだ、と思えるようなもの。

 みんながいいと思うものは、いい、というだけではなくて、自分の基準としては「100年、世界中、それで多数決だったら勝てる」と思って作っています。

 

Q 日常は、この20年で?自分としての刷新は?

平田 日常は、この20年でそんなに変わってないと思っています。

 やっていることもそんなに変わっていない。小津安二郎が、豆腐屋は、できたとしても、がんもどきくらい。自分の、その時の最高のものを作っていく、というのが刷新だと思っています。そして、先人がいない仕事をやっているので、常に更新していると思っていて、誰もやっていないことがやりたい。

佐々木 非日常と言うのは、日常が脅かされると言われるようになると思う。そして、オリザさんの演劇の日常は、日常そのままでなく、すごく人工的なのだけど、見ていると、日常に見えるというものだと思う。

 

平田 今後は、今年はオペラ、バレエ、演劇だから、まるで「ひとり新国立劇場」(笑)。本も書きました。来年は、横浜美術館で、台北ノートをやる予定です。少ないので、プレミアムになりそうですが。

 

 とても部分的に過ぎないけれど、それでも、ここだけでも伝わるものがあると思う。

 

 

 

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