アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

映画「ちづる」。赤崎正和 監督。2012.1.26。東中野ポレポレ座。

映画「ちづる」公式サイト

https://chizuru-movie.com/

 

2012年1月26日。
 どこで知ったかもう覚えていないけど、たぶん、「エンディングノート」の事を知ったホームページか何かだったのかもしれないが、見てみたいと思った映画が「ちづる」だった。それは、立教の大学生が、卒業制作で作ったドキュメンタリーで、一般公開とかを最初は考えていない作品だった。自閉症の妹がいて、その存在自体を周りに言うことが出来なくて、そういう説明をするより映像にしようと思って、という動機で始めたものだったと言うことを知った。
 
 時間的には、平日の夕方、始まる15分くらい前に映画館に着いた。学生証を出したら、割り引いてくれた。始まるまでに、軽食をとって、映画の始まりを待った。淡々とした映像で、だけど、ナレーションもなく、それが好感が持てた。こうした映像で、優しげな話し方の説明はちょっと違うのではないか、というような事をよく思ったのを思い出す。距離感が近い。妹という家族だから、当然かもしれないが、監督である兄にとっては日常で、という感じが出ていた。
 
 途中で、監督本人が出て来た。母親に、この映像を撮っていい、と言ってくれた理由を聞いている。それはさ、あなたが興味を持ってくれたことがなかったでしょ。これを機会に持ってくれたら、いいな、と思って、という普通の言葉が返されていて、映っている監督は繊細そうな今の青年で、実は、自分が出るのがとても嫌なんだろうな、というような事を思いながら、この事で、この映像が違うものになっているような、フェアなものになっているような感じがした。
 
 それからも、母親と娘のもめごとや、ケンカや、施設に行く妹の姿や、妹の行動のことを説明する母親や、そんな映像が流れて行って、考えたら、兄が妹を撮って、母親も撮影して、というような閉じた、というか限られたものなのに、そういう閉じた感じがしなかった。そして、途中で、将来のことに悩んで、悩みながらも、その悩みを素直に母親に言えずに、口げんかみたいになっている映像が映ったりと、この撮影している本人が出ていることで、逆にこの映像が開かれたものになっているのかもしれない、と思った。
 

 だから、映像がある意味では容赦がなかった。それは、当事者が撮影したことが、やっぱり、すごくプラスになっている。だけど、それは、自分、自分という主張をしなくなった、いや、しているのだろうけど、そのありかたが、非難されるようになった今の時代だから、そして、カメラを回して家族を撮る、というのが構えたものでなく、日常的になった今だから、この距離感の映像が撮れた、ということかもしれない、とも思った。

 

 最後は、急に九州にひっこす、という事になり、それがどうなるか全く分からないまま、妹をアップで映して終った。途中で少し音楽が入っただけで、他にはいっさいそういうものがなかった映画が見終わった後、とても気持ちがよかった。この監督の父親は、何年も前に、酒酔い運転のクルマが、乗っていたタクシーと事故を起こして亡くなっている、という理不尽な出来事で、だったということも知った。どれだけ怒りを抱えていても、おかしくないが、映像作品を完成させたのは、ホントにすごいと思うし、当事者であることの可能性も示してくれた、という意味でも、ありがたかった。