2016年7月6日。
話題作りは、上手い。というよりも、誰もがやりそうで、やりたくて、だけど、めんどくさそうなことを、真正面からやっているだけ、ということなのだろう。オウム真理教の内部に入って撮影した「A」という映画について、その頃は予告編は見たものの、見る気がなかったのだけど、それについて書かれた本を読み、取材をしたい、こういう理由で取材をしたい、と何度も手紙を出し、そのことでオウム真理教の内部の取材が出来た、という内容を読んで、ものすごい愚直さが、奇跡的なことを呼び、だけど、それは「人からどう思われるだろうか」の前に、「それは本当はどういうことなのだろう」という目的そのものへ向かって、ただ走れるすごさと、勇気と集中力というものかもしれず、今からでも見習うべきことだと思うが、この人は経験によって、「凄玉」(村松友視)になってしまった、というような一種のモンスター感が全編にわたって、映像の中から伝わって来た。
ただほとんど部屋の中の映像が続く。カーテンを締め切っている部屋。その中での佐村河内氏のしぐさや言動は、ナルシシストであるのは伝わってくるし、その一方で撮影している森氏もただものでないのは分るし、くせ者であるのも良くわかるが、何かしらの揺るがなさがすごくて、その安定感があるから、全体的にあいまいさに満たされた映像も見ていられるのかもしれない。テレビ関係者が訪ねて来て、ものすごく真面目な顔で、いじりません、と言っていたが、そのしごとは断ったものの、かわりに出ていて新垣氏が、すごくいじられていて、テレビの怖さみたいなものも改めて感じたし、アメリカの記者の、普通に冷静に出来ることを求める感じもすごく、そこで明らかに困惑している佐村河内氏の表情をずっとただ、映している残酷さみたいなものも感じたが、でも、それは撮ったぞ、というような力みが少なく、世界の像として冷静に撮っている感じもした。
ただ、部屋の中の映像が続き、それは退屈といっていいものかもしれないが、たとえば、佐村河内氏の奥様の手話が、その発話のタイミングなどが、なんだか不自然に見えて、ずっと気にかかりつづけ、映画の中で、唯一、この人は本当のことだけを言っているのだろうな、と安心感すら覚えたのが、自らも聴覚障害者でありながらも聴覚障害者へのメンタルトレーナー的な仕事をしているという人の存在で、そこだけ、輪郭がすっきりして見えた気がしたのは、見ている側の気持ちの問題なのだろうなとも思う。
報道の恐さ、みたいなものも改めて感じたが、見る側の未熟さが、それを作っているのも事実だから、なんだか微妙な絶望感もあるものの、それでも、見ていて、最後のところで、あそこで終らせるのか、というようなあざとさもあったが、それは、本当にだめ押し、ということかもしれず、何が本当なのか、といったことが、そう簡単に分るわけもなく、ということを、改めて、身体で分らせてくれる映画でもあるのだと思った。
でもそれが面白いと思えるのは、あの騒ぎがあったからで、ある意味では、あの騒動の続編でもあるのだけど、ただ、すっきりとした続編ではない。
今は有名であることのリスクがメリットを上回った時代なのかもしれない、ということもあるけど、やっぱり、こういう映画を作れるのは、すごい。