アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

2009年 「美術手帖」第14回「芸術評論」落選原稿。『村上隆 無視される熱』

美術手帖」サイト

 

 1996年に急にアートに興味を持ち、美術手帖』という専門誌も時々買うようになり、そこで「芸術評論」を募集しているのを知り、初めて応募したのが、第12回の2003年だった。まるで、村上隆奈良美智への「ファンレター」のようになった自覚もあったのだけど、当然のように落選した。その後、2年後の2005年にも応募があり、次は、村上隆の日本国内の評価が低いと勝手に思い込み、だから、村上隆中心の「評論」にしようと思った。

 

 さらに、2003年の落選を顧みて、自分だけの考えでなく、他の人の視点を入れないとダメなのだろうと勝手に思い、さまざまなものを読み、その引用もするようにしたが、また、当然のように落選した。

 

 そして、その4年後、2009年。不定期に開催される「芸術評論」に、3度目も応募した。これまで、2回、応募して、賞に選ばれた作品を読んだら、それは、自分には書けない「論文」といっていいもので、正直、全部理解できたか分からないくらいだった。

 

 それでも、また、懲りずに応募したのは、本人には迷惑かもしれないのに、村上隆というアーティストの日本国内での一般的な評価が、不当に低いと思っていたからだった。

 

 そして、応募して、ただ、また、ただ落選した。

 

美術手帖」第14回「芸術評論」募集

https://www.cinra.net/news/2008-12-02-190710-php

 

 

 

 

(ここから先が、応募した文章です)。

 

 

 

 

 

村上隆 無視される熱』

 

 

 

 村上隆が「リトルボーイ」展をニューヨークで開き、その後アメリカでも日本でも評価され、賞をもらった同じ頃、2つの出来事があった。

 一つは、「欧米か!」という言葉が笑いと共に、日本では広く受け入れられていた事。

 そして、もう一つは、日本の洋画家が文部科学省からの賞を、盗作を理由に取り消されるという事。

 

「美術手帳」では、村上隆の大きい特集を、2001年、そして2003年に組んでいるが、リトルボーイ展を終えた後には、インタビューという形で対応している。この時の大きな特集は「日本近現代美術史」だった。それが、おそらく日本の美術業界の一般的な見方、という印象だった。

 広告批評が、2005年7月号で「村上隆リトルボーイ」という特集を組んだのが、私が知っている範囲に過ぎないが、もっとも大きい扱いのように思う。

 

 無視というのが言い過ぎならば、美術業界の村上隆への不思議な距離の取り方と、「リトルボーイ」展の頃に起こった2つの出来事には、偶然だけとは思えないようなつながりがあると、今も改めて思える。

 

 

『日本の美術関係者は欧米の流行の解釈に集中してきました。

 公募展も現代芸術も、いつも、西洋のお手本には表層的に忠実でした。

 欧米の芸術の世界の課題は、日本で行われている真似とは正反対の「独創性」でした。手本の模倣は芸術と認定されることはありません』(注1)。

 

 明治時代以来、日本の最大の目標の一つは、「西洋化」だったはずだ。その後に生まれた人間は、程度の差こそあれ「西洋人化」した部分が必ずある。

 だが、もし「独創性」が何よりも重視される美術界であったら、盗作をするような画家が誕生し、それだけならまだしもいったんは賞を受賞する、という事が起こったのだろうか、と疑問は起こる。ただ、この洋画家は、「西洋化」に忠実で、そのため「西洋人化」が、かなり高かっただけなのかもしれない、とその言動をテレビなどで見て思った。そして、もしかしたら技術的にはオリジナルの画家より上手かった可能性も本当にある。それに、別の「西洋人化」の高い人から見たら、オリジナルより、その洋画家の絵の方が「いいもの」に感じたのは本気だったのかもしれないのだ。(もちろん、この「西洋人化」というのは、いくら進めても本当の西洋人にはなれないが)。

 だが「欧米か!」という言葉がギャグとして流通する時代になったという事は、「欧米の流行の解釈に集中し」たり、「西洋のお手本には表層的に忠実」だったりするような「西洋人化」は何だかおかしい、という気持ちが広く共有されてきたと言えるのではないだろうか。この時期に「洋画家の盗作問題」が浮上したのは、偶然とはいえ、象徴的な出来事でもあった。

 

 そして、では村上隆は、どの程度の「西洋人化」なのだろうか。

『自分が常に愚痴をこぼしていた「日本の美術の世界のこと」なんて、誰も知らないのです。

「世界の美術の本場のニューヨークにおいては何の意味もないもの」 

が、日本の戦後芸術でした(中略)

 ぼくはずっと日本の美術界には腹を立ててばかりでした。

 仮想敵だと想定して活動をしてきました。

 しかし日本の美術界にこだわる自体の意味のなさに気づいて、何もかも新しく始めることにしたのです』(注2)。

 それが村上隆の最初に本格的にアメリカに渡った時の気持ちだった。

『ぼくの等身大の感情は、ニューヨークの町角で日本のアニメを見かけると「お!」と思うというものだということがはっきりしました。

 差別されたオタク文化から距離を取っていたはずの自分は、絵が動いている姿を見たり考えたりすることが好きでしかたがないのだとわかったのです。 

 また、現代美術の勉強をすればするほど、オタクの差別された社会的状況や情報のドグマぶりこそが、自分のリアルな表現にはなくてはならないように思えたのです』(注3)。

 そして、1998年。

 『「My Lonsome Cowboy」を作る。この作品でアメリカ1回目のブレイク』(注4)を果たした。

 日本で認められず、アメリカに渡ってから、最初の成功までに約4年をかけている。人によって様々な見方があるのだろうが、その後の「スーパーフラット3部作」の終了まででも約10年という事を考え合わせると、異例の早い成功といっていいのではないだろうか。

 そして、それが可能だったのは、村上隆の「西洋人化」が日本の美術界の中では、かなり低い方だったため、と考えるのは無謀だろうか。

 

「僕自身は、貧乏な家の出身でした。絵しか描けないから、生業を立てるにはこれしかなくって、この世界に入りましたけど。まず、東京藝術大学へ入って驚いたのは、同級生っていうかみんなの家がリッチだったってこと。で、その後、ニューヨークへ行ったら、アーティストで生き残っている人間は貧乏出身が多いんだけど、美術業界自体は、ほとんどがリッチピープルだった。そのギャップには今だに悩まされています」。(注5)

 

 アメリカの例は、微妙に別の話になると思えるので、まずは日本の話に限って考えるとすると、個人的な事に過ぎないのだけれど、私(筆者)は1961年生まれで村上隆と同世代であるので、子供時代の印象は少しは共通する部分があるように思う。高度経済成長の時代までは特に、「西洋化」が今よりも偉かった。現在では考えられないかもしれないが、コーヒーメーカーが家にあったり、弁当がサンドイッチだったり、居間にはシャンデリアらしき照明があったりするだけで、あこがれの目で見られた。子供にピアノを習わせる習慣が根付いたのもその頃だと思う。そして、単純にいえば、リッチな家の方が「西洋人化」が高かった。西洋の教養の身につき方も強かったはずだ。そして、美術学校に行くような人達の家は、一般から見たらそれだけでリッチだった。卒業したら就職しやすいために、法学部や経済学部を選ぶ場合も、まだ少なくなかったからだ。それは数字としてはっきり出ていないかもしれないが、ある時代までは「真実」の一つだったと思う。

 

 村上隆は自身では「貧乏」だと表現し、それは日本の美術界の中でいえば、本当のことだったのだろう。リッチな家では「テレビなど見せません」という言葉がそろそろ出だした頃だったから、マンガやアニメにハマる事もできなかったかもしれない。そして、相対的に「貧乏」だったせいで、おそらく村上の「西洋人化」の度合いは、美術界では低かったはずだ。

 だからアメリカに行き、ショックを受けながらも、そういう「衣」が薄いせいで、そこの状況を肌で感じる事ができ、「西洋人化」を捨てる事も出来、成功へ進み始めるまでが早かったのではないだろうか。「西洋人化」が高かったら、日本の美術界に居場所があり、そこへ戻ってきてしまっただけで、今の成功もなかったのではないだろうか。

 

『「おい、ムラカミ、抽象表現主義をパロディするんじゃねえ!

 ターナーの国のイギリスがそんなに薄いはずがないだろう?もっと勉強してこいや」

 ターナーの国?うちも北斎の国じゃん、とぼくなんかは思うんです。

(中略)

 保守本流の西欧の絵画の宗派と相対化した時、ぼくは新興宗教を作ったようなものです。叩かれるのも目立つのも当たり前、です。

「ムラカミ、ちょっとイイ?あのさ、俺、おまえと絶交させてもらうわ。

 絵画をバカにすんのもいいかげんにしろよ。

 キャラを大きく描いて、ペインティングでございなんて。

 安易すぎるというか、アートをバカにしてるっていうか。

 おまえには、何を言ってもわかんねえだろうな……という意味で絶交」

 まあ、身も蓋もないことをしていますから、展覧会場で絶交されたりするのですけど』。(注6)

 

 ここに国籍の事は書いていないが、まっさきに日本人のイメージが浮かんだ。そして、実際はつらい出来ごとだったはずで、こう書くのは村上にも、ここに登場する人にも失礼かもしれないが、こうした対立は、美術に対する考え方の違いだけ、には思えなかった。ここに出て来る、特にイギリスの話を出す人は、おそらく村上よりリッチな環境にいたのではないだろうか。

 今もある村上への美術業界の不思議な距離の理由の一つは、村上が最初から「リッチな西洋人化のサロン」にいなかったから、というのは言い過ぎだろうか。

 そして、日本の中でその特殊な「西洋人化」の度合いがもっとも高い業界の一つが美術業界で、その「西洋人化」がいよいよ無効になりつつあるのが現在だと証明するかのように「盗作問題」が起こり、「欧米か!」がギャグになり、そんな時代の象徴として「西洋人化」が低い村上隆が成功をおさめてきた、というのは、さらに暴論だろうか。

 

 

 2009年1月。「GEISAI 12」を2ヶ月後に控え、銀座のアップルストアでのイベントで村上隆は、こんな言い方をしていた。

 

 ゲイサイ出身のアーティストは、もう30人くらい出ている、そのことはもっと評価されていいのに無視されているようで、寂しいです……。

 

 聞いてすぐ、それは「GEISAI」そのものの評価や村上自身の見られ方に大きく関係しているような気がした。美術業界と何の関わりもないただの観客から見ると、いわゆる日本の美術界からの「GEISAI」の見られ方、というのは微妙な印象だった。美大の若い人の不思議な距離感。美術関係者の人の複雑な評価…。

 

 たとえば、「GEISAI」出身のアーティストの一人に、松井えり菜(1984年生まれ)がいる。「エビチリ大好き」という絵で「GEISAI 6」で金賞をとり、翌2005年にはフランスでの展覧会に出品し、収蔵され、2006年には日本での「カルティエ現代美術財団コレクション展」にも展示される、というアーティストになった。

 つい2ヶ月前まで普通の主婦だった女性が、モデルとしてパリコレデビューみたいなエピソードはいろいろな場所で飛びつかれやすい話だろう。これもそれに近いと思われるし、もちろん村上隆のコネクションがなくては成立しない話なのかもしれないが、でも、美術業界の盛り上がりを考えたら、こういう話をアピールすれば、観客の動員数にまで影響を与えそうなのに、村上隆以外の美術業界で、そういう盛り上がりを作ったという印象はなかった。

 

 逆に今までの日本のステップを無視するみたいな見られ方をされているのかもしれない。現代美術、というジャンルであっても貸画廊で個展を何度か開いて少しずつ認められて、もしくは、日本の中の例えばVOCA展などで賞をとって知名度も上がっていく、という方法がもしかしたら、今だに王道というような意識がたとえば関係者ほど強いのかもしれない。

 

 「GEISAI」は、その出身を問われない。美大を出ていなくてもいい。力があれば、中学生でもスカウトされる(注7)。そしてプロとしてデビューできる。

『年に二回、コンベンションセンターで開催されるこの「GEISAI」は、まだどこにも所属しない若手アーティストを対象に「プロへの登竜門コンペ」、「アートフリーマーケット」、そして「芸術のお祭り」を同時に行うイベントとしてやっています』(注8)

 その姿勢の一つは、ゲイサイのスタッフが着ているハッピの襟のところの「死ぬまで芸術やりますか」という文字に象徴されているように思える。この言葉は精神論みたいに見られることもあるかもしれないけれど、プロの原則だと思う。芸術しか出来ない体質にしていく、という事だろう。それはある種のアンバランスでもあるし、微妙に東洋の価値観かもしれないので、そこがまた混乱を招くところかもしれないが。

「まぁ、ぼくは、ふんばっている人の生き方を見たいんだと思います。分野は違っていても何かに賭けている生き方を見たいのですね」(注9)

 

 そして、その発想は(注10)村上の言う、日本美術界の学校の論理、みたいなものとは真っ向から対立するのが当然かもしれない。

 

『美術雑誌の最近数十年の最大のクライアントは美術大学受験予備校、そして美術系の学校です。

 大学や専門学校や予備校という「学校」が、美術雑誌を支えているわけです。金銭を調達する作品を純粋に販売して生業とする芸術家は、ここでは尊敬されるはずがありません。これは日本の美術の主流の構造でもあるのです。

「勤め人の美術大学教授」が「生活の心配のない学生」にものを教え続ける構造からは、モラトリアム期間を過ごし続けるタイプの自由しか生まれてこないのも当然でしょう』(注11)

 

 個人的な話に過ぎないが、私は1980年代に、ゴルフの世界を取材して書くことをしていた。ある専門誌の編集長に聞かれた。アマとプロ、どっちが好きか?と。私はスポーツ新聞社に就職して、すぐにプロゴルフの世界を毎週のように取材していて、そのすべてをかけている感じが好きだったので、そのように答えたら、珍しいね、的な事を言われた。トップアマチュアはもっと教養もあるし、ゴルフをよく知っているし…だから、アマチュアが好きな人は多いけど、みたいな話になった。

 確かにプロは、生活だけでなく、おそらくは自分の存在をかけてやっているところがあるから、取材していてやりにくい、というか、話を聞くのが恐いという部分はあったし、雲泥をくもどろ、と読んだり…といった知識のなさみたいなところはあった。でも、ゴルフにすべてかけているから、何か今までにないものを見せてくれるんじゃないか、と思っていたし、その凄みに魅力を感じていた。ただ、教養があって……など、ある意味で穏やかさみたいなものが好まれる風土が日本にはあるのかもしれない、と今、振り返っても思ったりもする。こんな場違いな話題を出したのは、徹底したプロよりも、プロであったとしてもアマチュアの優雅さを持つような人の方が好まれる傾向が、美術業界だけでなく、もしかしたら現在でも、かなり一般的なのかも、と改めて思ったからだ。

 

 そして、村上の「言葉」が微妙に敬遠されているのも、理由はそこにありそうだ。

 作品についても、かなり直接的に書いている印象があるのに、それほど様々な場所で引用されない気もする。(注12)それは身もフタもない表現、という事なのだろうか。優雅さや余裕がない、ということなのだろうか。

 でも、村上本人に文章や言葉で伝えるプロではない「分相応的な発想」があり、その上で必要な事は伝える実戦的な文章だから「伝えようとする力」という視点から見たら、かなり力がある「言葉」にも思える。おそらく「考え抜いた」結果の形なのだろう。それもあって、この文章では意識的に多くの村上自身の「言葉」の引用も続けているのだが…。

 

『作品を意味づけるために芸術の世界でやることは、決まっています。

 世界共通のルールというものがあるのです。

「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」

 これだけです。

 簡単に見えるかもしれませんが、正直な自分をさらけだしてその核心を作品化するには厳しい心の鍛錬が必要です。

 日本国内の生活習慣からは出てきづらい方法でもあります。

 芸術は「強烈な独創」が基準点で、前人未到の新しさを世界に提案できるかどうかの勝負だから「唯一の自分」の発見は欠かせません』。(注13)

 

 おそらく、こうした事は美術関係者であれば、誰もが知っているのに違いない。表現に、新しさも、華麗さも、余裕もないのだと思う。関係者であればあるほど、そんな印象なのかもしれない。または、今だにごく一部では、ある意味であこがれのように語られそうな、破滅型なり、無頼派なりの、形を変えた才能絶対主義のような見方からも、ヤボだと否定されそうな言動でもある。

 

 村上の文章の印象と、予想される、それへの反応で思い出すのは、また、まったく違うジャンルの話になってしまうのだが、15年以上前の日本のサッカー界での出来事と似ている。1992年に初めての外国人代表監督になったハンス・オフトは、それから約1年で、それまで不可能と思われていたワールドカップ出場まで、本当にあと1歩と迫り、その軌跡は「オフトマジック」などと言われたこともあった。当時を知る関係者が後に、オフトについて、こんな事を語った。…オフトが言っていた戦術的な話はサッカーに関わる者なら誰でも知っているようなことばかりだった。

 だけど、それをここまで徹底して実行させる、という事を見た事がなかった、と。

 それは実戦的なプロの論理であり、村上の方法と近い気がする。

 

 あまりにも露骨にプロフェッショナルだから、というのを、村上隆が距離を置かれる2つめの理由にあげたい。さらに、それは「ただお金を稼ぐ」というだけでなく、『僕が赤字まみれになりながらも「GEISAI」を続けているのは、とりあえず教育の基盤を作っている、というつもりでもあるんですけどね』(注14)と、環境まで何とかしよう、とする本気のプロフェッショナルだから、これまで目をそむけてきた事まで見せつけられているような気がして、よけいに敬遠されてしまうのかもしれない。

 

 

 そして、村上が日本の美術業界から距離を置かれているように見える3つめで、最大の理由は、これではないだろうか。

 つまり、考えている事が、実はなんだか分からない、からだ。

 

『フィギュアプロジェクトが結果的にどれも過酷を極めることになる理由は、ひとえに村上が取る制作スタイルの特殊性によるところが大きい。村上の頭のなかにはプロジェクトのゴール、すなわち作品完成時のヴィジョンが存在するにはするのだが、ただし困ったことに、村上にはそのヴィジョンを見つけ出す能力がない。自分で描いたはずのヴィジョンなのに、村上の目にはそれが見えないらしいのだ。(中略)村上が描くデザインスケッチそっくりそのままに造形してもNGが出るのでその理由を尋ねてみると、「ぼくは画が下手だからぼくの画のとおりに造形してもダメなんです」という、ある意味とんでもない返答が飛び出す始末だ。

 ただし、要所要所で村上に対し”正解“を提示することができれば「あっ、そうそう、これが正解です!」という反応が生じる』(INOCHI 展 リーフレット あさのまさひこ氏の言葉 より)。

 

 村上はトークショー(注15)でも、その事を取り上げていた。そして、こんな風に話した。

 やることが明確に分かっているのだったら、いつものスタッフといっしょにやります。でも、今までなかったようなものを作ろうとするのだったら、そして才能のある人と組むのだったら、その人のマックスを越えたモノを狙うのだったら、そういうやりかたしかない、と思います。そうなると、現場は悲惨になるのですが……。

 

 これは、もし自分自身が関わったら、本当に辞めたくなったり、村上が嫌いになったりするような事なのだろう。だけど、もしかしたら、村上隆のここまでのアーティストとしての活動が、基本的には、すべてこうではなかったのだろうか。

 

『「日本固有の文化からにじみでた作品」を解説することに際して、ぼくは長く苦渋をなめてきました。

 どうしたらいいのかを、考えに考えました。

 そして、文化を相対化して見せたり芸術の背景の説明をしたり、欧米の美術史の中で意味づけをしたり、理解の構造を作って提示すれば、アメリカでも日本の芸術がわかってもらえるのではないか、という結論に至ります。

 その答えが、二〇〇一年にぼくがアメリカ各地の美術館でキュレーションした展覧会、『スーパーフラット』展です』(注16)。

 

 「考えに考え」ていく途中で様々な人の思惑とぶつかったり、吸収していったのだろう。(注17)

 そして、出展した各アーティストとの関わりや、「スーパーフラット3部作」を展開する中では、さらに各国での関係者との様々な種類のコミュニケーションもあっただろう。

 その中で村上隆が、「制作スタイルの特殊性」を発揮している可能性は低くないのではないか、と今から振り返ると思えてくる。

 そして、その「作りながら考える」方法は、どこか「前近代」にも通じるというのは言い過ぎだろうか。

 

 さらには、発言そのものにも、混乱を招く要素はある。

 これからの作品に関して、完璧にプランされているような話をする一方で(注 18)、「その時々の自分の欲求に忠実になれば、ちゃんと仕事がくっついてくるんじゃないかと思うのです」(注19)という発言もあったりするので、訳の分からなさは増すのかもしれない。

 さらに、村上を戦略という枠の中で評価する人にとっては矛盾するような部分なのかもしれないが、高度経済成長の時に見えたはずの、豊かさの向こうの希望……を思わせるような発言もあるので混乱は増すのだろう。

 

『本場のアートシーンでスポットライトを浴びるようになった今も、違和感はあるのです。

「本来の意味の芸術は、ルールの中におさまるはずがないのではないか」。

「芸術は、一般社会にビジネスとして着地なんてしないものではないか」

 幼少の頃からの直感が頭をもたげるのですが、理解不能の突飛な芸術ならば西洋に受けいれられないことは事実として横たわっている。』(注20)。

 

 ただ、こじつけかもしれないが、訳の分からないように見えているのは、ゴールへ向かっての過程に過ぎないからで、村上の活動すべてが、目的を見失わないためのひたすらな変更と思ったら、実は、とても分かりやすいのかもしれない。過程の美学が大事、という考え方もあるのだろうけれど、どんなジャンルのプロも「目的のためには常に変化する」という原則もあるのだから。

 そして、その目的を、村上は明言している。

 

『「私は『美』のために働いて行きたい。

 そして日本、世界のどこにおいても『美』を創造し、その名の下に喜びを分かち合いたい。そのために土壌造りから始めなければならないなら喜んで泥まみれになる。

 なぜなら『美』の前に立つ時だけは、みなが平等になれる、というファンタジーを一瞬、実現してくれるから。分かり合おうとする人の欲望の果てを、手に入れられる希望があるから。

 そのために働き続けたい。死ぬ時までこの気持ちが続くよう毎日祈るような気持ちで嫌がる体をひきずって、『美』の従者たり得るよう、ひたすら生きてゆければ、そう思っています」(中略)

 二〇〇一年に東京都現代美術館で行った個展「召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」のカタログで、私はこう書きました。(中略)私としては日本の、否、おこがましいのですが、世界のアート業界への業界改革宣言的な気持ちがありました。そして今現在もその気持ち、文言に曇りはありません』(注20) 

 

 著書の、あと書きのほぼ最後に、この文章を持って来ている。おそらくセンチメンタルすぎるなどと批判をうけるか、もっとも無視されやすい部分なのかもしれない。でも、これを真に受けると、訳の分からなさは、かなり解消するのではないだろうか。そして、この村上の文章は「西洋人化」した発想では訳が分からなくても、明治時代よりも前の「日本の思考」に思いを伸ばせば理解しやすいかも、と考えるのは飛躍し過ぎだろうか。

 さらには、おそらく様々な意味でもっともハードな5年を過ごしたのち、この決意の変わらなさが、もっとも「分からない」部分であり、そして、それこそが村上の「才能」なのかもしれない、と思うのは、ナイーブな感想に過ぎないのだろうか。

 

 

 2006年の4月に「新日曜美術館」というテレビ番組で、藤田嗣治の特集をやっていて、そこに村上隆もゲストの一人としてコメントを出していた。そのしゃべる姿は、これまでのテレビ画面で見たどの村上隆よりも重く、藤田の生涯と自分とを重ね合わせ、そして視聴者としては、村上隆は日本を捨てて、「アメリカ人アーティスト」になってしまうのではないか、とも思えるような暗さまであった。それに、その年の秋で「GEISAI」も10回目を迎え、やめるかもしれない、という動きも出て来ていたようだった。

 

「僕ね、可士和さんところにインタビューに行ったとき、実は自分自身がターニングポイントを迎えていたんです。それは、どういうものかというと、やっぱり僕、外国ではスーパースター扱いなんですけど、日本へ戻って来るとヘンな戦略家みたいに言われてね(笑)、意外と評判よくないんですよ。」(注21)。

 

 2006年には、約半年の間、「床の間プロジェクト」としてアートディレクター・佐藤可士和氏の事務所に作品を飾り続けることを行った。その中で、これまでとは方向性の違うように見える『達磨』も生まれた。(注22)

 

「これでアーチストとしての僕の方向性が変わったんですよ。やっぱりコミュニケーションだと思ったんですよね。可士和さんに喜んでもらう、その一点のみにすべてをかけてこのプロジェクトをやってたわけですから」(注23)。

 

 ただ、この「コミュニケーション」も、佐藤氏に『達磨』の「目入れをしろと」(注24)言うくらいだから、和気あいあいとは全く違うものなのだろう。やはり、相手にマックスを超える力を出させたり、その中で村上自身も、自分の力を想像以上に出していく、という「訳の分からない」種類のものなのかもしれない。

 

「いやだって、これコミニュケーションの最後の瞬間じゃないですか」(注25)

 

 村上隆がどう変わったのか。その具体的な部分は、ただの観客には、はっきりとは分からない。村上は、成功を重ねた、といっていい状態になったのだから、好き嫌いはあるにしても、毎月のように美術専門誌などが大きく扱ってもおかしくないし、そうなれば、今後、江戸時代から辿り直すような活動をするかもしれない村上の思考が(注26)もっと分かるのに、などと思うが、今も日本の美術業界と村上隆との不思議な距離感はあまり変わらないのだろうし、そんないろいろを思うのは事情を知らない観客の勝手な思い込みなのかもしれない、とも考える。ただ、これだけ西洋の真ん中で成功をおさめている人間は数少なく、さらには、その上でこれだけ情報公開をするアーティストはもっと少ないだろうから、なんだかもったいない気がしてくるのだった。

 

 2008年、「GEISAI」は、1年間の休みをはさんで復活した。

 同じ年、ミスターの「誰も死なない」をスタートとして映画製作にも乗り出した。

 2009年には、3ヶ月で3本のトークショー(注27)を行うなど、それこそコミュニケーションの機会を増やしているようにも見える。

「カーサ ブルータス」5月号では表紙も付録のフラワープレートもデザインし、誌面ではデザインに乗り出すことについても語っている。

 

「僕が考えているのはイソップの『北風と太陽』の太陽的なプレゼンで、社会の中の本質的な友愛、助け合い、人間関係のあり方を美意識としてビジュアル化し、デザインしていくことで、NASA的な科学ブランドを超える“かっこよさ”を創造できるのではないか。友愛がかっこよくデザインされる一〇年先、ここに射程を絞り込みたいと思います」(注28)。

 

 4月8日。INOCHI展のトークショーには、予定を大幅に超えた観客が来たようだった。確かに会場のイスは50もなかったようだったし、ギャラリーは立ち見の人でいっぱいだった。その誤算の大きさは、村上隆の日本での評価の変化の予兆のようにも思えた。日本美術業界との微妙な距離が縮まるのは難しいかもしれないが、日本の社会構造全体の変化のため、村上の受け入れられ方が大きく変わっていくのかもしれない。

 

 

 

(注1) 『芸術起業論』 村上隆著 幻冬社 111ページより

(注2) 『芸術起業論』 84ページより

(注3) 『芸術起業論』 116ページより

(注4) 「ブルータス」 2001年9月1日号より

(注5) 『ツーアート』 ビートたけし 村上隆 光文社 80ページより

(注6) 『芸術起業論』 33ページより

(注7)  小出茜 現在、カイカイキキ所属アーティスト

(注8) 『ツーアート』 121ページより

(注9) 「芸術起業論」 212ページより

(注10) この考えは、「ニューヨークへ行ったら、アーティストで生き残

      っている人間は貧乏出身が多いんだけど」(1 より)と、関係

      が強いかもしれない。つまり、徹底したプロだけが生き残る、と

      いうことにつながるように思う。

(注11) 『芸術起業論』 30ページ

(注12) たとえば、うまくいかなかったプロジェクトについての書き方

      も率直で、実戦的で、後の時代の人間の参考にもなるように思え

      る。

     『(DOB君がデビューした時に凄く冷たい反応だったことの後)

      自信がなくなって来て、ポップアイコンは人間じゃないとダメな

      のかもって思って、「加勢大周宇Zプロジェクト」のような、も

      どき芸能人製作のプロジェクトをDOBプロジェクトの直後にや

      ってました。ウォーホルのイーディみたいにならないものか。そうい

      う韻を踏めばアートシーンの人間も分ってくれるのではないか?

      という発想からでしたが、これが完全に裏目に出てしまい、日本

      のアートシーンから完全に無視され始めてしまいました。ですか

      らアイコン創造プロジェクトは出だしは最低でした。でも初めの

      確信に忠実に、その後も考え方も変わらずにやり続けて、形にな

      ってきた』(「村上隆 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅

      するか」展覧会カタログ「美術家として生きる」133ページよ

      り)

(注13) 『芸術起業論』 140ページより

(注14) 『ツーアート』 188ページより

(注15) 2009年4月8日。午後7時から午後8時30分。カイカイキ 

      キギャラリー。出席者は村上隆。水口克夫(アートディレクター)。                

      権八成裕(CMプランナー)

(注16) 『芸術起業論』 86ページより

(注17) 一例として「原宿フラット」という2000年11月末の原宿で

      行われたトークイベント。村上隆浅田彰岡崎乾二郎。椹木野

      衣の4人が3時間の徹底討論をした。(『美術手帳』2001年2

      月号より)。

(注18) 「 “村上隆 ”が何をやるといまのアートシーンにのるかとか、

                五十年後のアートヒストリーが何を求めているかまでを考えて、

       一個一個テーマを決めて作っているので」(広告批評 2009   

       年4月号 20ページ)。

(注19) 『芸術起業論』 117ページ

(注20) 『芸術起業論』 246ページ

(注21) 『広告批評』 2009年4月号 16ページ アートディレク

       ター 佐藤可士和氏とのトークショーの記録より。

(注22) 『広告批評』 2009年4月号 24ページから27ページよ     

      り。『このプロジェクトをやらせていただいて(中略)可士和さ

      んに一太刀浴びせたかったわけですよ。“サムライ”ですからね。

      侍って人を殺すか殺さないかという秀麗に人生のすべてをかけて

      た人種ですよね。(中略)その時代の美意識や芸術とはなんなのか

      と考えたら、“禅”だったわけです。で、死をも恐れない哲学を編

      み出したものをここに持ってくるべきだと思ったんです。

      ちょうど偶然ですけど、この最中に「ブライスコレクション」展

      というのをやってて、その中に河鍋暁斎さんの達磨の絵があった

      んですけど、それに僕、釘付けになったんです。若沖の絵にはお

      ばちゃんどもがたかってるんだけど、その達磨さんにはだれ一人

      いなかった。で、この絵は僕の絵だと思ったんですよ。つまり、

      アメリカ人にはウケるけど、日本人にはウケない。この姿は僕だ

      なと思ったのと、サムライ、床の間プロジェクト……全部が合体

      したんですね』(村上の発言。サムライ、は佐藤氏の会社名でもあ

      る)

(注23) 『広告批評』 2009年4月号 26ページより。

(注24) 同『広告批評』27ページより。

(注25) 村上の言葉。佐藤氏に「達磨」の目入れをしてもらっている時に、

      村上自身は、後ろで見ていて、それがすごく疲れた、という佐藤

      氏の発言を受けて。『広告批評』 2009年4月号。27ページ。

(注26) 「村上さんは伝統の中にヒントがあると言いますが、江戸時代に

      はデザインと絵画の間に垣根がなく、尾形光琳は、茶碗の絵付

      けも、蒔絵や呉服のデザインも手がけ、後に光琳模様は世間に

      広まりました。まさに村上さんの先駆け」(辻惟夫氏の発言。『カ

      ーサブルータス』2009年5月号)。そして『達磨』の流れは江

      戸時代以前と関係が出てくるような印象もある。

(注27) 3月に佐藤可士和氏と。4月に「INOCHI」展のトークショー

      5月には、長濱博史氏と。

(注28) 『カーサ ブルータス』2009年5月号。122ページより。