アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

『111年目の中原淳一展』。2024.6.29~9.1。渋谷区立松濤美術館

 

111年目の中原淳一

https://nakahara111.exhibit.jp

 

2024年8月29日。

 館内には、平日なのに、思ったよりも人がいた。

 展示は2階の会場からだった。

 

 中原淳一は、1913年生まれ。

 10代で自作の人形で注目を浴びて、活躍を始めたらしい。そういうことも、今回の展覧会を見なければ知らないままだった。

 若い頃から、才能を発揮していた人のようだった。それは、中原が影響を受けたという竹久夢二も同様に、独学で若い時から活躍していたことと重なるものの、それができる人はごく限られているのもわかる。

 私が知っている中原淳一は、戦後の「ソレイユ」の表紙絵に代表される、オードリー・ヘップバーンにも似ている女性だった。それは、戦後により西洋化が進んだ証のように思っていた。

 だけど、初めて見たはずの戦前の中原淳一の描いていた女性は、不思議なたたずまいだった。竹久夢二の影響も受けているのだろうけれど、でも、それとは違って、竹久夢二が、あくまで大人の女性を描いていたとしたら、中原は明らかにもっと若い女性、少女といっていい年齢の人物を描いていたし、それは、不思議な不安定さもあったから、どちらかといえばホラーの登場人物のようにも見えた。

 ただ、それが思春期なのだろうし、だから、戦前といっても、魅力的で、鮮やかで、ただ男性に依存するような姿には見えなかったから、10代の女性に人気があったのだろうと想像ができた。

 カルタや、ノートなど、そのデザインされたものも、手に入れて、そばに置いておくと、自分の毎日の暮らしが変わるような、ただピカピカに明るいわけではないのだけど、やはり希望を持たせてくれるような光を感じさせるものだった。

 あの時代に、こんな美しいものを享受していた人たちはいるはずで、それは、やはり豊かな層が中心だったのかもしれないが、雑誌などを通して、こうした作品を発表し続けたということは、より広く届けようとしていたような気がする。

 戦争とは縁遠く見える作品で、気持ちが浮き立ち、そこに魅入られてしまうような魅力もあるから、観客の想像通り、太平洋戦争が開戦する前年の1940年からは、軍部の圧力があったせいか、表立って仕事をしなくなったらしい。

 この作品が目に触れなくなったら、それは、ある種の豊かさを排除した、ということにはなるのだろうけれど、毎日が暗くなってしまうのに、とは思った。

 それでも、その時代のことは知らないし、中原は1933年に20代を迎え、そこからの10年以上を戦争が激しくなってくる時代になるから、早くに才能を認められ発揮し始めたのにやっぱり残念というような言葉で表現できないくらい、無念さは深かったのだろうと、想像するしかない。

 こんな歴史を持つ作家であることを、恥ずかしながら、これまで全く知らなかった。

 

戦後の太陽

今出来る事、今着られる服だけをのせていたら、

この『ソレイユ』の存在価値はない。

こんな本はくだらないと言われるかも知れない。

お腹の空いている犬に薔薇の花が 

何も食欲をそそらない様に。

然し私達は人間である!!

窓辺に一輪の花を飾る様な心で、

この『ソレイユ』を見ていただきたい。

 

 展覧会の第1会場に入る前の壁面には、『ソレイユ』創刊号の中原淳一による編集後記の、こうした言葉↑が掲げられている。

 

 ただきれいとか、可愛いとか、少し心が浮き立つようなことなどを、こうやって主張したのが、1946年に『ソレイユ』という女性誌を創刊した時だったのを知ると、その信念は本物だと改めて気づかされる。

 今まで知らなかった人間が言う資格はないのだけど、1945年が終戦だから、まだ1年後、多くの人がまだ飢えていたような時代に美しい暮らしを主張することが、どれだけ覚悟がいることだったのかを想像すると、それはすごいことだと思う。

 それも、これまで『ソレイユ』は、私にとっては、戦後にいち早くおしゃれな女性誌として創刊された、というような知識しかなかったし、確かに、そのような側面は間違いなくあったのは、今回の表紙に中原によって描かれた女性は、あこがれを集められる存在なのを見ると、わかる。

 ただ、今回、私にとっては初めて知ったことだけど、1948年頃の『ソレイユ』には、まだ生活が貧しいことを前提にした記事も少なくなかったようだ。

 空いたビール箱(当時は木製)を使って、塗装することによって、かわいく使える。押入れも、工夫しだいではおしゃれな勉強空間にできる。掘りごたつでその熱源はまだ木炭を使っていたとしても美しい部屋にするのは可能。洋服も古くなった服の生地をアップリケのように使えば、すてきになる。

 そんな、いろいろなことがまだ不自由なはずの時代に、その中でも、生活の中の美しさを諦めてほしくない、といったメッセージが、そうした記事の中にこめられているようだった。そうした暮らしの中にいるのは中原淳一の描くような女性だったから、魅力的な人がいたら、それだけで生活は明らかに輝くのだけど、それだけでなく、あこがれの暮らしは、知恵と工夫と美意識で可能になるとも伝えているようでもあった。

 そういう信念の人であったのを知らなかった。

 

 生活を照らす戦後の太陽として『ソレイユ』は存在し続けたのだろうし、会場には、『ソレイユ』を若い時に読んで、その光を浴び、あこがれていたと思われる女性も多くいたようだった。

 地下1階の第2会場には、中原淳一がデザインしたファッションも並んでいた。生活すべてに関わるすべてのことに美しさを持ち込もうとしていた人なのだと思った。

 中原淳一は、会場の説明によると、過労によって心臓の発作を起こし、その時期は、40代の半ば。今の40代よりは年齢的には晩年に近いとも言えそうだけど、とはいっても、まだ活躍できそうな時に病いに倒れ、その後も、療養生活が長くなったりしてしまい。バブル前夜の1983年に70歳で亡くなった。

 自分が美しいものが好きなのは前提としても、そのことを戦後直後から、まるで使命感のように社会を美しくすることを続けてきて、それを達成した人なのは、この展覧会だけで分かったようなことを言うのもちょっと恥ずかしいのだけど、そんな人間にも伝わってきた。

 来てよかった。

 本当に知らないことばかりだった。

 

 

 

『111年目の中原淳一』 

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