アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

目黒区美術館コレクション展「わたしの言葉をあなたに届ける 日々の喜び2024」。2024.10.12~11.17。目黒区美術館。

2024年11月4日。

 コレクション展だから、勝手ながら、それほど刺激的な作品がないのかもしれなくて、だけど、関連の企画の中に「大人のための美術カフェ」というのを発見する。

 学芸員が、展覧会の見どころやエピソードなど、いろいろと話をしてくれる。こうした企画は、人によって、かなりの当たり外れがあるのだけど、それでもコレクション展で、こうした試みをしてくれるのは、なんだかありがたい気持ちもした。

 

目黒区美術館コレクション展「わたしの言葉をあなたに届ける 日々の喜び2024」)

https://mmat.jp/exhibition/archive/2024/20241012-430.html

 

 このコレクション展のタイトルは、魅力的に思えたのは、こちらを向いているせいだと思った。難しい言葉で、先を切り開くというよりも、一人で勝手に進んでいっているタイトルも記憶になる中で、だけど、こちらにわかりやすく差し出す、という、実は上からの姿勢でもなく感じたせいだった。

 さらには、日々のよろこび、というのも自分にとっては、興味が持てるテーマだった。

 

 当館のコレクションより、作家がそれぞれの「日々」つまり「日常」に目を向けて表現している作品を選定し、展示をとおして美術館で作品を見ることを柔らかく考え直してみたいと思います。  

 制作されてから何十年、何百年と後の時代に生きる私達に、当時の日常はどのように映るでしょうか。今とそれほど変わらないと感じるものもあれば、新鮮で、どこか特別な風景に思える場合もあるだろうと思います。それらは、日々刻々と変化していく現実のありのままの姿というよりも、作家の目によって捉えられたその瞬間の世界であり、多くのことを語っているのです。 鑑賞する私達は、そうした作品を前に何を思うでしょうか。

                   (『目黒区美術館』サイトより)

 

 これが実現できれば、一見、派手さのない地味に見えるコレクション展が、違った視点を獲得できるような鑑賞になるはずだった。だから、「美術カフェ」に参加して、その言葉を聞きながら、作品を見たいとも思った。そして、当日、午後3時になって、目黒区美術館で、「大人のための美術カフェ」が始まる。

 

 最初に、立ち止まったのは須山計一の作品の前だった。すでに100年前のこと。

 昭和初期の頃の雑司ヶ谷の風景を、スケッチしたもの。それは、自分が住んでいる場所のそばを、さらっと描いているように思え、小さめで柔らかない印象の作品になっている。

 学芸員は、かわいい、という表現を使っていたが、本当にその通りで、すごく昔の風景を描いていて、それはすでに存在しない場所なのだけど、そのときには目の前に広がっていた日常を、写し取っただけだと思うと、今とつながっているような気にもなる。

 ただ、こうした日本の近代以降の画家に関しても、本当に無知だと思うのは、須山も含めて、自分にとっては知らない人ばかりだった。だけど、自分の身近な題材を描いている海岸などが多いせいか、遠くの出来事ではなく、見たはずもないのに、見たような気がしてくるのは、スタッフの語り方が、この美術館の収蔵品だけあって、とても親しみを込めているせいだと思う。

 

独特の工夫

 

 さらに今回は、コレクション展だけに、そして、鑑賞者と作品との距離を近づけるために、工夫がされているらしい。

 一つは、見にきた観客の作品に対しての感想が小さな紙に書かれ、それがその作品のそばに置かれていることだ。だから、壁に薄い棚のようなものが設置され、そこに何枚も紙が置かれ、思い思いの言葉がそこに書かれていて、それを読むだけで、ここに訪れた、知らない人の気持ちまで、自分の心に影響を与えるのが、わかる。

 さらには、特定の作品の前には足形がシールで示されていて、そこに立つと、センサーが反応して、そうした鑑賞者の感想を朗読した声が3分ほど流れる。それを聞きながら、作品を見ていると、その言葉につられて、さらにまた画面を見続けることになり、こんなに長い時間、作品を見るのは珍しいかもしれない。

 そのセンサーをセッティングするのも、微妙な調整が必要で、かなり大変だったことも、この「美術カフェ」に参加したから知ることができた。

 

 そのあとも、大勢で同じ作品を見て、それに対して、スタッフのかたが話をしてくれる。そのことで、最初に見た時から、何十秒か経っているだけに微妙に見方が変わる。

 

    赤穴宏 『新宿副都心遠望』。

  どこからの視点かは、よく分からないが、ちょうどバブル絶頂期の頃の新宿のはずで、そうした妙に浮かれた空気まであるように思ったが、スタッフの方の話によると、上京してきた時の東京を作者はあまりよく印象がなかったようで、そんなエピソードを聞くと、この距離の遠さが、長く経っても完全になじめない感じが出ているように思えてくる。

 結果として、作品をよく見ることになる。

 

 他にも、個人的には知らない作者の絵画が多かったものの、この作品は好きです、どうして、ここを描いたのだろう、などと考えてしまいます、といったガイドを続けてくれる学芸員のスタッフの言葉で、普段なら通り過ぎてしまいそうな風景画の前で、確かに、わかりやすい絶景でもなく、かなり日常的なのだけど、この道路と橋の関係は?などと考えると、思ったよりも複雑な場所なのでは、という発見ができたりする。

 

 武内鶴之助。小さめのパステル画が何点か並んでいる。制作年は、1910年から1912年ごろらしいが学芸員の話によって、最初は油彩画を描こうと、海外に行き、そこでパステルに出会って、結果として日本にパステル画を広めることになったらしい、ということを知り、100年以上前の、まだ当たり前でないものを描く、ということをしている結果かと思うと、その小さい画面に、勝手に微妙な重みのようなものまで感じてしまう。

 

 他にも肖像画について、そのモデルになった人が寄贈してくれたこともあって、その描かれた時の、ちょっとしたエピソードや、池田満寿夫の名前を出してくれて、久しぶりにその顔まで思い出したり、藤田嗣治静物画を見て、そこに描かれている物体にツヤを感じて魅力的に見えることに気がついたり、一つの作品について、草間彌生の大きな画面の作品を見て、そのプロフィールだけでなく、技法についても教えてもらい新鮮に見ることができたり、、いろいろなことを考えることができた。

 

 そして「日常」をテーマにしているから、かなり昔で、自分に縁がない土地であっても、その作家にとっては「日常」だから、どの作品にも、どこか親密さのようなものが込められているように思え、穏やかな気持ちになれた。

 それは、「大人の美術館カフェ」という企画を立てて、作品や、今回の展覧会について、さまざまな視点からのエピソードを、自分の感覚をベースにしながら、話をし続けてくれた学芸員の方のおかげだと思った。

 予定の40分よりも長くなり、1時間ほどになったが、いい時間だった。

 それだけを話を続けるのは疲れると思うし、学芸員の方も緊張もしたらしいのだけど、でもおかげで楽しい時間だった。

 

一人での鑑賞

 

 それから、また一人で最初の展示室から作品を鑑賞する。

 時間もあるし、人もほとんどいなくなって、ゆっくりと見ることができる。

 

 メインのビジュアルになっている 青山美雄『母と子』。1926年作。

 もう100年ほど前。昭和が始まったばかりの頃。ずっと見ていると、母親がとても大きく見えてきて、その手に持った人形も、ちょっと人間に見える瞬間もあって、だから、平和な母と子というような言葉が、センサーによって入ったスイッチによってスピーカーから流れてくるものの、私にとっては、ただ穏やかな絵には見えなかった。

 

 相笠昌義。銅版画集『女・時のすぐゆくままに』。

 そこには、幼い女の子から、晩年まで、8枚の銅版画が並んでいる。

 どうやら、女の一生のようなことらしいけれど、どれも生々しくやや不気味で、こんなふうに描けることに凄さを感じた。

 その制作年が、古いのか新しいのか分からなかったが、1979年とあるから、戦前の作品も少なくない今回のコレクション展の中では、新しい方だったが、それを知っても、その年代の作品であることが、なんだかしっくりこなかった。

 

 池田永二。『蛍』。1906年の作品。

 浴衣の女性が縁側に座り、夜の風景を眺めている。

 ほぼ黒い背景に見えるが、これも音声付きの作品になっていて、スピーカーから流れる言葉を聞くことによって、少しずつ樹木が見えてきたり、蛍がカゴに入っているのがわかってきたり、とても控えめに書かれている自分の雅号のようなものに気がつけたり、でも、何よりの意外性は、これを16歳で描いたということだった。

 小さい頃から、絵を描く仕事についた、ということなのだろうか、と思うような完成度で、すでに熟練といった表現が似合うような絵画だった。

 

 池田満寿夫の作品は、今回出展されている油彩画の『黒い女』や『ベッドに横たわる女』の制作年を見ると、本人が30歳くらいの時だから、まだ若く、なんというかバリバリの緊張感のようなものもあった。

 さらに有名になった晩年の作品を病院で見たことがあったが、それはまるで別人のように、こうした張り詰めたものを感じなかったから、やはり作家にもアスリートと同様にピークがあるのかもしれないとも感じたが、ここにある作品は、ずっとちょっとひりつくような感じのまま、ここに収蔵されているのかと思うと、作品によって時間まで閉じ込められているのだと改めて思った。

 

 作品は永遠という言い方も、保存の状況にもよるし、人類が滅亡するかもしれないけれど、それでも、納得がいく表現なのだとも思う。

 

 吉村弘。音楽家でもあるから、音にこだわった作品を、これだけ制作しているのは知らなかった。スイッチを押すと動いて、波の音がする作品。おそらくは扇風機の頭の部分を使って、その首振り機能を生かしたものだと分かり、そういう工夫のようなものまで、身近で親密性を感じさせる作品だった。

 

 菅井汲。『風景』。1953年作。

 これも、音声が流れる作品だった。私には、壁がそそり立っているが、その壁はグレーで、だけど、さまざまな色があちこちにあり、そのグレーのトーンも画面の場所によって変わっているし、何しろ、その荒み具合いがかっこよかった。私にとっては、この壁の向こうに風景が広がっているのだと思ったが、このほぼ一面を占める灰色は、とても気持ちがいいものだった。

 

 2度目なのに、ゆっくり見ていたら、また1時間くらいが過ぎていた。

 コメントを書ける作品には、全部、感想を書いて、作品のそばに紙を立てた。そんなささやかな行為だけど、作品との距離はもう少し近くなったし、参加している気持ちにもなれた。

 午後6時に閉館ということを聞き、まだ5時過ぎなので、アンケートにも答えて、ショップで、今日見た作品などのポストカードを何枚か購入し、気温が低そうなので、薄めのコートを着て、美術館を出る。

 静かで、穏やかで、でも、確かに多様なことを考えて、どんな時代でも、作品は心を込めて、全力で制作しているのは伝わってきたような気がして、ほとんど知らない人(それは自分の無知もあるけれど)の作品だったけれど、充実した気持ちにはなれた。

 この美術館を壊して、新しくする、といった話が出ているのも、恥ずかしながら最近知ったものの、こうした静かな佇まいはそのまま残して欲しいと思う。すでに長い時間が経って、そこで蓄積されたさまざまなことがそのまま美術館の気配に、分かりにくいけれど、溶け込んでいると思うし、それを壊したら、また一から蓄積しないといけないことは、とてももったいないことなのも明らかだとも考えているからだ。

 

 

 

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