
2025年3月20日。
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mot-annual-2024/
(「こうふくのしま」東京都現代美術館)
もうすぐ展覧会が終わってしまう時期に、東京都現代美術館に行けた。
細いエスカレレーターに乗って、3階まで上っていく。
さっきまで、坂本龍一展のために、大勢の人がいた場所とは違って、人も少なく、静かな空間になっていく。
美術館側としては、もちろん大勢の人に来てもらいたいだろうし、その方が運営にとってもプラスなのはわかってもいるのだけど、ここに来る鑑賞者の一人としては、こうしてあまり人がいない静かな空間で作品を見られるのが、失礼かもしれないけれど、東京都現代美術館だとも思っている。
そして、現代美術だから、グループ展であれば、そのテーマや開催の理由も大事になってくるはずだ。
近年、「今ここに立っている」という身体感覚を持つことがますます困難になりつつあります。通信技術や交通手段の発達により、日々膨大な情報に否応なくさらされ、どこへでも移動しやすくなったことで、その傾向はさらに顕著になっています。こうしたなかで、自分自身の足元が何によって形をなし、どこにつながっているのかをあらためて問う行為は、私たちの身体が置かれる場への気づきを引き出し、進むべき方向を探るひとつの手だてとなるでしょう。
副題にある「しま」は、4名の作家が拠点を置く「日本」の地理的条件に対する再定義を含んでいます。この太平洋北西部の島々を、他の陸地から切り離されて海に浮かぶ「閉じられた地形」ではなく、地殻変動を経て海上に現れた地表の起伏であり、海底では他の大陸や島と地続きに連なる「開かれた地形」として捉え直すことは、水面下での見えざるつながりを確かめるための別の視座を提示します。それは、従来の枠組みや境界を超え、あらゆるものが複雑に相作用する世界を見つめ、深く思いをめぐらせることでもあるのです。
本展の作家の仕事もまた、自身の足元を起点にしながら、より大きな文脈や関係へと開かれています。彼ら/彼女らは多様なアプローチを通じて、現実の世界を視覚的に置き換え、描き出すことにより、身のまわりや自己の多義性や重層性と対峙します。これらの作品は、作者の解釈や意図を超え、見る者がそれぞれの視点や感覚、経験を通して主体的に意味を見出すための装置として働き、それぞれに異なる見かたや感じかたを促します。
日本の社会は、戦後その大半を失ったところから再建を始め、経済発展を根拠とする幸福と繁栄への道を歩み、1990年代以降は低迷と停滞が続いていると言われます。しかしながら、こうしたリニアな語りにおいて、複数の要因が絡み合う対立や葛藤は、しばしば解消されないまま見落されてきました。そこで本展では、身辺の汲みつくせない出来事や状況を個々の視点から見直し、形を与えようとする作家たちとともに、もつれ合う世界の複雑さをいかに引き受けるのかという問いに向き合います。(『東京都現代美術』ホームページより)
とはいっても、このステートメントを読んでも、全部を理解できるわけではない。ただ、身近なものと、違う場所をつなぐような作品が並ぶと思うし、こうしてきっちり言葉にする行為は重要だとも思うが、同時に、もう少し分かりやすく書いてもらうバージョンのステートメントもあるとうれしいかも、という気持ちはある。
清水裕貴
今回、出展作家は4人。
最初の展示室は、清水裕貴。
写真と、スライドと、朗読する声と、床や布に映る文字や文章。
さまざまな要素が並行して存在している空間。
だから、どこか別の場所に行ったような気持ちになるし、もっと時間をかけて、ここにいて、その聞こえてくる物語とともにいられれば、さらに作品に没入できるかもと思った。もし、この展示室に座れる場所があれば、とも思ったが、この作品が東京湾と中国の大連をつなごうとしているような作品なのは伝わってきたし、そうなれば戦争の歴史も関係してくるのもわかる。
そして、作家は大連にも訪れて写真などを撮影してきているらしいが、そのインタビューによると、日本の昔を残している感じも強調できるような場所でもあるようだけど、そうしたことはしたくないし、と思っていたら、日本の植民地時代のものも残っているけれど、遺産のようにあるわけでもなく、時間の飲み込まれる一つとして、いろいろなことと一緒にある、といった姿を作家は見ていて、それも作品に反映されているようだ。
それも、水にまつわることを、ずっとテーマにしてきた作家なので、大連の海岸と、東京湾を巡る歴史も感じられる写真も並んでいる。
地理的にも遠いけれど、時間的な遠さのようなものや、どうしようもない時間の流れ、のようなものも、その空間にいると感じられるようだった。
川田知志
作品のために薄暗くなっていて、だから、どこか内省的な気持ちの姿勢になっていたのだけど、次の川田知志の作品が展示されている部屋に入った瞬間に、気持ちの中で「わー」という声が出ていたし、もしかしたら、少し言葉でも出ていたかもしれない。
その展示室の壁が全て、大きな壁画で埋められていた。
それは、完全に絵画で囲まれていて、違う世界に入った感じがしたのだけど、絵の明るさや、大きな作品なのに、描くときのスピード感のようなものが伝わってくるし、フレスコ画の手法を使っているらしく、しっくいも使用して、少し立体感と、建築的な要素があるので、なんだか、この展示室が居場所のような心地よさがあった。
外から緩やかに遮断されて、だから守られているような、だけど、広いから開放感もあるようなところ。
作家のインタビューによると、抽象的な表現でもあるけれど、これは日本のどこにでもあるような郊外を描いたらしく、それは、作家自身の子どもの頃の河川敷の記憶とも関係があるらしい。
確かに、そういうなつかしさや親しみやすさのような気配もあったから、安心感もあったみたいで、できたら、この展示室の真ん中に、床に座るような形のカフェとかがあったら、かなり気持ちいいのに、などと思ってしまった。
川田知志が制作したのは大きな作品だから、見上げるし、見渡すし、体を動かさないと、全体が把握できないという点もすごく良かったように思う。
しばらくいたい場所だった。
さらにその制作過程も、映像で流されている。それは、壁の塗装をしているような大がかりな作業だった。
臼井良平
次の展示室には、ブルーシートや、フェンスなど、郊外というよりは、街の隅っこのような光景になっていた。
そして、そのあちこちにペットボトルがある。それも、フェンスに突っ込まれるように捨てられるようにあったり、ブルーシートの上に忘れられたのか、それとも飲み残しのまま放置されたのかはわからないのだけど、そのまま存在している。
ただ、違和感があるのは、あまりにもしっかりしているし、とても美しく見えることだったが、それはガラスで作られているせいだろう。
どこにでもあって、誰でも一度は見たことがあるようなことが、違う素材で製作されていることで、少し違った印象になる。
そういえば、実際の暮らしの中でも、同じようなことを数限りなく見てきた記憶が微妙に重なっていく。
展示室のあちこちには、写真もある。それはあちこちに忘れられたような、中身も残されているようなベットボトルだったけれど、これはどうやら作家が撮影してきた、実際にあったものらしい。
偶然のものには、意図しない不思議な感じがあって、それは発見するものだし、見つけてくれる人がいないと、そのままで、今も、そういうことやものがたくさんあるのでは、といった気持ちにもなる。
ここだけではなく、世の中につながる想像もできた。
庄司朝美
21世紀の現代でも、絵画を描き続けている作家は少なくない。
それは映像が主体と言われるような現代美術の世界でも、今も、絵画を制作しているアーティストはいる。
だけど、人類の歴史の中で、かなり昔から絵画は描かれてきて、膨大な分量になっているし、その中には傑作も多いし、具象画から抽象画まで出揃っているのだから、それ以上、何かを付け加えることは難しいので、絵画を描いているときに、すでに誰かがおこなっているような疑念のようなものが起こってしまうと、作品として絵を描くことにためらいなどが起こらないだろうか、といった鑑賞者としての疑問がある。
それでも、絵画は制作され続け、そして、現在、描かれているものは、不思議と新しい感じがする。
庄司朝美の絵画も、どこかで見たようで、見たことがないようなものに感じた。
それは、人が描いたもの、という感じと、そして、新しいもの、という印象と、そして、正面に立って、隅々まで視線を走らせたくなるような魅力があった。
何が描いてあるのか、といえば、人はいる。山があったりもする。そして、透明に見えたり、バラバラになっていたり、とはっきりとはわからないものの、全体を見ていると、気持ちが動く。
しばらく見ていたくなる。
そんな作品が並んでいた。
しかも、展示室の椅子には双眼鏡が置かれていた。それで少し遠くの絵画を見るのもいいのだけど、天井付近に描かれたカラスの絵を見てもいい。そうした作品があるだけで、絵画のキャンバスだけではなく、外の世界への広がりも感じる。
庄司は、アクリルにずっと作品を描いてきて、昨年からキャンバスを使うようになった、というようなことがパンプレットにも書いてあったのが意外だったし、描き終わった日付が作品のタイトルになっている絵画を見て、いろいろな思いが起こったから、いい作品なのだと思う。
さらには、1階のエントランスのガラス窓にも作品がある。
それは、見上げて、少し注意深さをもたないと見逃してしまうような絵画だったのだけど、こうして色々な場所に描くことで、他の作品までもが、どこかへ広がっていくような感覚になる。
作家が積極的に世の中に作品を関わらせて行く、という意志の現れにも思えた。
幸福の島
展示の最後の部屋には、国吉康雄の絵画が一点だけ、スポットライトを浴びるように、設置されている。
タイトルは「幸福の島」。
この美術館の所蔵品で、今回のこの展覧会の「こうふくのしま」のタイトルを誘導した作品のようだ。
それは、100年前の絵画であり、だけど、こうして「幸福の島」というタイトルなだけに、この作品と、ここまでの展示のことを考え合わせたりもしていた。
それは長い時間も展示に加えたということだと思った。
2度目の鑑賞
全ての展示を見終えて、2階に降りて、そこに作家のインタビューの映像が流れていて、そこには、座る場所もあるので、ゆっくり見られた。
そこで、作品を見たときには気がつかなかったことがわかったり、インタビューの言葉も過不足ない感じもあったので、また作品を見たくなって、また3階に戻って、展示室を回った。
見たいものを見て、情報が加わったから、印象が変わってくる作品もあって、また見て良かったと思った。
『Casa BRUTUS特別編集 日本の現代アート名鑑100』