
2025年4月30日。
https://www.tomokazu-matsuyama-firstlast.jp
(「松山智一」展)
入り口を入ると、立体作品がある。
ツヤがあって、完成度が高く、東洋風でもあり、色は鮮やかで色数も多く、サイボーグ感のある女性像が立っている。
シンプルにカッコよく思える。
そこには、意味も重なっているはずで、それがなければ現代美術として評価されないはずだけど、何しろ鮮やかさと形の魅力のようなものがある。
そして絵画作品は、狩野派からの引用だけではなく、まるでサンプリングでできた楽曲のように、それまでの美術史からの素材が散りばめられているのが、よく見ると、分かったり、もしくは自分の知識では理解できないけれど、おそらくは何かの作品が参照されているのだろう、といったことを、少し立ち止まって、時間をかけるほど見えてくる。
ただ、それは前もっての知識のようなものがあるから、そこを意識してしまうのだけど、その大きな絵画の画面は、目に入ってくると、鮮やかで、隅々まで色があふれていて、単純に目が気持ちいい感覚になる。
それで、そこに登場する若い男性は、人種的にはよく分からないけれど、元々にアメリカという国にいた白人種や、または黒人種といった人ではなく、おそらくは東洋の、整っているような感じでもあるのだけど、なんとなく孤独感があるような、寂しそうな感じもある。
画面全体でも、どこか寂しげな感じもするけれど、さまざまな美術史からの引用だけではなく、21世紀の現代のどこにでもあるようなスナック菓子なども画面に共存していて、それは、こうした作品が美術の世界に、これからも残るとすれば、さらに引用されそうな作品でもあると思えた。
それは、どちらかというと、東京ビッグサイトなどで見られる「2次創作」を想像させるものでもあったのだけど、ただ、全体から受ける印象は、目も脳も飽きさせないぎっしりとした密度の高い作品だった。
だから、古さもあるような、新しさも含まれているような、そして、部分は引用だけど、全体の印象は、見たことがあるようで、見たことがないような、だから、やはりオリジナリティがあるような感覚になる。
過剰な意味とサービス
そんな作品が並んだあと、次の展示室は、おそらくは大きな陶器の立体が展示されている。それは、アリスの世界のようなことが表現されているらしいが、床だけではなく、同じ立体が、天井から逆さまにぶら下がっている。
それが比較的、狭く感じるように、ぎっしりと並んでいると、上下逆に何かがあって、そうした空間に足を踏み入れるだけで、ちょっとした違和感が気持ちに起こって、そういうことが、少し新鮮だったし、次の展示室には、大きい立体が並ぶ。
金属でできていて、これだけピカピカしているから、それだけでちょっと目をひく。
見たことがあるようで、見たことがない。個人的な印象だと、それは燃えないゴミが捨てられているような場所にあるような、不規則な形と、ゆがんだ曲線のようなものに思えた。
それは、歴史的には、いわゆる立派な人が像になってきたし、もしくは神話的な場面が作品になってきたのは、それほど詳しくなくても知っているし、そのあとは、とても抽象的であるけれど、美しい形の作品が登場したり、ジャコメッティのように作者自身の独特の視点を形にしたような作品も登場したのは知っている。
その美術史の流れの中に、村上隆のアニメの登場人物を、そのまま人間の大きさにした立体作品が並ぶのだろうけれど、そこからさらに、現代でしかないような、金属のゴミといった、なんでもないように見えるものを、大きくし、美しく思えるような、そして目をひくほどの作品にしていて、このさらに大きなものが新宿の駅にあるのだと思った。
その展示室には鏡も多用されて、さらには、コロナ禍でリモートでの作業も含めてで制作された鮮やかな抽象画のようで、そこにはツルがやたらと多くあって、そうしたら、そうした厄災と思える状況の中で千羽鶴をモチーフにしていると、展示室内のパネルで知って、とにかくあらゆる意味が重層的に作品にあって、ここまで見てきたけれど、見逃している意味や自分の知識量や情報量では理解できてないことも多いのだろうと改めて思う。
展示室のあちこちに、作品を制作するためのパレットや、絵の具や、作者の腕を立体化したような造形物が散りばめられていて、展示室自体も意味で埋め尽くそうとしているような過剰なサービスも感じていた。
歴史と作者自身
次の展示室には、再び、大きな絵画作品が並ぶ。
そこには、受胎告知など、キリスト教という西洋の文化を形成していて、それ以外の文明に暮らす人間には想像もできないような重要さがあるテーマが中心に描かれているのがわかる作品もある。
それが、ただ、再現されているのではなく、そこに東洋系の青年と思われる人物が登場していたり、現代文明の日常に欠かせないものがあったり、やはり、今の時代で、それも、アメリカという国で、そこに元から暮らしていたり、さらには、これまでの日本のアーティストのように、日本という国をルーツとしたアニメなどの文化を前面に押し出すことは、すでに先人もいるから難しいのだろうけれど、どうやらそうした外側からの視線というのではなく、この展覧会を見るまでに接したインタビューなどの作者の言葉にあるように「移民」としての視点が意識されているらしい。
https://goetheweb.jp/lifestyle/art/20250225-artshopping70
(『GOEHTE』松山智一インタビュー)
それは、こうしたインタビューによっても、松山智一のこれまでの生きてきたことと、関係があり、キリスト教の見え方も、父親が牧師であるから、東洋の国でキリスト教の布教者になっているという複雑さも含めて、そういう家庭に生まれなかった人間とは全く違ってくるのが想像できるし、20代でアメリカに渡ってから美術を身につけ始めた自分自身の在り方があってこその作品であるというのは、その過剰な意味の重なりのようなものに、切実さのようなものまであるから、やはり、これだけ密度が高いのに、どこか切ない、というか、寂しさを感じさせるのも、作者の意図でもあるのだろうけれど、だから、その人自身しか出せないオリジナリティがないと、おそらくは評価されない現代美術の世界で、生き残っているのかもしれない。
作品を見て、作者の言葉にも触れて、いろいろと考えて、自分では、それが正しいとも感じられないけれど、これだけ感覚を使わせてもらったのだから、それはやはりアートなのだと思っていた。
さらに、松山が現代美術の世界で名前をあげた(こういう平凡な表現になってしまうが)時代には、ここ数年なのだけど生成AIの実用化が進み、そうした時代の変化があるから、絵画作品を見ると、自分で活用したこともないのに、見る側にとっても、この作品は、生成AIでもできるのでは、と思うようになった。
そして、今回、展覧会で見た松山の作品群も、生成AIが制作した隅々まで色で埋められている、という意味では似た印象があるのだけれど、無数というのは言い過ぎとしても、でも、見る側にとっては、そんなことを感じさせるくらいの大量の引用と、そのサンプリングの方法も、ただ、画面に貼り付けるのではなく、全体に溶け込むように繊細な濃淡をつけたりしているから、そこまでの作業が生成AIには、もしかしたらまだできないかもしれない。
ただ、遅咲きとはいえ、これからも現役の現代美術家として作品を発表していくからには、そこにも視点を向けたような作品も発表していくだろうし、といったことまで想像させてくれたほど、実際に、すでに構想にも入れていそうだと感じさせるのが、現代の美術家なのだと思った。
今後は、本当に日本国内での展覧会はおこなわれない可能性もあるけれど、それでも、今回、見に行けてよかった。
第二会場では、10万円のうまい棒を見たり、ゆずが、村上隆だけではなく、松山智一ともコラボレーションしているのを恥ずかしながら初めて知って、ゆずもすごいと改めて思ったりもした。
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