
2025年10月25日。
馬喰町にあった頃に何度か行った記憶があるが、市ヶ谷に移転してからは初めてだった。
武蔵野美術大学・市ヶ谷キャンパスの中の2階。それも1階には無印良品のショップもある。
整備された空間で、ゆっくりと映像作品を見る。
3人の女性が話をしている。同時に、CGによる映像も映される。3面の大きいスクリーンを使って、そして、人が真剣に話をしていると、言葉は字幕でしか分からなくても、つい見てしまう。
その上で、自分が読んだこともある書籍の中の言葉が出てきて、そのことを思い出しながら、映像の中の女性が、また違う視点を提供してくれることで、自分の思考が反応している。言葉と映像で、しかも、次を急かされているような時間の流れ方ではないので、そこにある映像と、言葉と、音—声の響きも含めて、影響を受けていることがわかる。
日常とは流れ方が少し違う、不思議な時間だった。
https://gallery-alpham.com/exhibition/project_2025-2026/vol3/
(「ギャラリーαM」サイト)
しばしば神話の中で、女神は子どもを産み育て、自然と一体化した「豊かさの象徴」とされて語られることがある。
かつてエコフェミニズムは、人間による自然の搾取が引き起こす環境破壊と、男性優位の社会で女性が見舞われる不平等の根本の構造は同じであると主張した。しかしその中からは、「女性は新たな命を生み出すことができる敬うべき存在だ」と、女性の生殖機能と自然の生産性の関係性をたたえる傾向も生まれ、一つの本質主義的なステレオタイプを生み出す要因にもなった。
ギリシャ神話に登場する、強くて慈しみ深いガイアのことをいったん忘れてみたい。そしてガイアという名前の、あるいはわたしだったかもしれなかった、どこにでもいる一人の女性のことを想像してみたいと思う。
ガイアは普段何も語ることはない。
それは彼女自身がもう生産性を求められることに疲弊し、何も語る力も残っていなければ、動くこともできないというだけなのかもしれない。そしてそれは身体、もしくは大地に刻まれたトラウマの問題と大きくかかわることでもあるだろう。
女性に与えられる暴力と、大地に与えられる暴力のつながりについて想像するとき、わたしは常に自分自身が、女性でありながら征服者としての人間でもあることの二重性に引き裂かれる。
大地に突き刺さる白旗は、ガイアに祈りを捧げる降伏の旗にも、同時にこの土地の所有権を主張する入植者の旗にも見える。
百瀬文 (作家テキスト)
『百瀬文 口を寄せる』
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