
2025年10月25日。
雨が降っている午後遅くに、そのギャラリーに初めて行った。
神楽坂のにぎわいからは距離があって、それこそ静かな住宅街の中に、小さな美術館のような場所があった。
こんなに立派な施設があったことを、これまで知らなかった。
https://root-k.jp/exhibitions/mikami-meme-2025/
(『√K Contemporary』サイト)
アーティストの三上晴子が2015年に急逝して、今年で10年を迎えます。三上は、1980年代半ばに鉄のジャンクによる作品で一躍脚光を浴びたのち、脳とコンピュータ、身体と免疫などへとテーマを展開、90年代前半のニューヨーク滞在を経てインタラクティブアートへと表現を移行しました。その後20年間、国内外のメディアアート・シーンで活躍するとともに、多摩美術大学で多くの学生を育てました。三上の作品そして人となりは、現在も人々の記憶に鮮明にとどまり、思考を触発し続けています。三上が追求し続けた問題系は、ここ10年で加速化したデータ監視や生成AI技術、近年のパンデミック禍や継続する戦争の時代において、かつてなく切実になっており、その先見性をまさに確認する時機といえます。(『√K Contemporary』)
そうした作品も活動も、これまでほとんど知らなかった。
しかし三上の活動は長年、知る人ぞ知るものにとどまっていました。80-90年代のインスタレーションは再現不可能であり、多くの作品を本人が廃棄したこと、活動の前半期が主にアンダーグランド、後半期がメディアアート・シーンであったことがその一因といえます。そのような中、現代美術での注目が、近年東京都現代美術館に90年代の作品が収蔵されて以降、高まっています。
(『√K Contemporary』)
多くの作品を本人が破棄した、といった部分を読むと、何があったのだろうと思ったりもするけれど、自分が知らないのも、それほど詳しくなくても仕方がないのと同時に、自分が東京都現代美術館で見た常設展で、三上晴子の名前を知ったのは、流れに沿ったことのようだし、同じような興味の動き方をした人が多そうだった。そして、今回は、その三上晴子から続くアーティストたちの作品が展示されている、ということだった。
MIKAMI MEME|三上晴子をめぐる創造的ミーム」展は、三上と出会い対話をするなかで、彼女からミーム(文化的遺伝子)を受け継ぎながら、独自の世界を生み出したアーティストたちによる作品を紹介するものです。80年代後半に三上と共作を発表した飴屋法水、00年代前半に多摩美術大学情報デザイン学科で三上の助手を務めた山川冬樹、同学科のスタジオ5に所属した平川紀道、三原聡一郎、毛利悠子、やんツー。本展の作品そして彼女彼らの内部には、意識・無意識的に関わらずMIKAMI MEMEが流れているといえるでしょう。
(『√K Contemporary』サイト)
意志の伝わり方
ホワイトキューブのギャラリーは、展示室が1階、2階、そして地下1階で展示されていて、その順番で鑑賞してください、といったことを入り口の受付で言われる。
1階は、広めのスペースで、作品はゆったりと並べられていて、静かな空間が広がる。
入り口付近には、空き缶を圧縮した立体があった。
その上にタンバリンがある。
毛利悠子の作品。
“女性アーティスト”という、ダサい枠組みや偏見がまだまだあった20年以上前、三上さんから「女だからと考える必要はない。モーリが好きな素材で、やりたい表現をつきつめればいい」と言ってくれたことは、とても大きかった。それから私は自分に正直になれたと思う。
(「展覧会ハンドアウト」より)
左側の壁には、淡々と機械が動き続けて、ドローイングを描いている。
やんツーの作品
ハンドアウトの中で、やんツーは、三上との関係はそれほど長くもないし、深くもないし、と前置きをしながら、そのやりとりも含めて正直に書いているように思えた文章が続く。
今回展示する作品は、そんな三上さんがテーマにしていた「知覚」を、この世界と関係を結ぶインターフェイスとして機械に取り入れ、振る舞いを有機的で複雑にしようと試みた、2014年に制作した作品の改変版です。
(「展覧会ハンドアウト」より)
その正面になる右側の壁には、何かを映しているようで、映していなくて、動き続けている機械がある。
平川紀道の作品。(どうやら三上の作品を念頭に置いた習作のようだ)
ビデオフィードバックの間にコンピュータを挟むことで、機械自身が「視ること自体を視る」、つまり体験者のいない自走する三上晴子《Eye-Tracking Informatics(ETI)》(2011)のような状態を提示する。
平川のコメントも、ハンドアウトにある。
2019年1月8日。多摩川美術大学アートテークギャラリーでのこと。修復後初の公開を翌日に控え、調整済みの照明の下、無人の《ETI》の椅子を眺めていた。ステンレスの部品が見慣れた金属光沢を放つ中、突然、三上さんがそこにいるかのような感覚に襲われた。目に見えないだけで、本人がそこに立っているような、尋常ではない感じがして鳥肌が立った。しばらく続いたその感覚を、展示空間を見渡す一番後ろで、地べたに座って味わった。何が引き金だったのかは分からない。「体験者がいなければただの機械の塊でしかない」という本人の言葉を否定するかのような出来事で、強く記憶に残っている。
ギャラリーの奥には、水の循環を可視化する、という三原聡一郎の作品がある。しばらく見ていたのだけど、水の循環のことは分からなかったけれど、これも、「三上晴子が行った免疫やウイルスというテーマの先駆性が意識されている」ということのようだ。
そこまでが一階に展示されていた。
それぞれが関係がないようだったけれど、静かな中で、機械が動いている音が響いて、なんだか関係のあるような気もしたのは、ハンドアウトにある、それぞれの作家のコメントなどを読んでいたせいもあるのだろう。
ルーツの証明
さらに、光っている階段を上って、2階の展示室へ向かう。
そこもゆったりとしたスペースに、作品があった。
山川冬樹の作品。
東日本大震災の時の原発事故で帰宅困難地域で企画された見に行くことができない展覧会に展示された作品の中に、三上晴子から譲り受けたものを組み込んで、それを、今回、「サルベージ」した、ということだった。
それに関係すると思われる映像と、一見、何かわからない物体が床に散らばっている。
ハンドアウトの山川のコメントは、今回の作品とは直接、関係のない内容だった。
あるキュレーターから、私の十八番となっている心臓の鼓動と電球を使ったパフォーマンスについてボルタンスキーからの影響を指摘され、呆れてしまったことがある。歴史を軽んじてはいけない。調べればすぐにわかることだが、心臓の鼓動を電球の明滅にシンクロさせたのは、私の方がずっと先である。この際、はっきりと言っておこう。私の心臓ルーツはボルタンスキーなんかではなく、三上晴子にある。多摩美術大学で三上の助手を務めていた頃、彼女の《存在、皮膜、分断された身体》(1977)に触発されて電子聴診器を手に入れた私は、夜な夜な研究室で実験を繰り返し、遂に心臓の鼓動を制御する術を習得するに至ったのだ。大事なことなのでもう一度言っておく。私の心臓のルーツは三上春子にある。
これまでこの作家の映像作品を見たことはあったのだけど、こうした熱気を感じさせる文章を書く人だとは思わなかった。
その2階の展示室には、三上晴子の作品もあった。
それは、三上にとってはキャリアの初期、1980年代の作品に関係ある立体だった。
活動の歴史
それから地下1階の展示室へ。
そこだけは撮影禁止と言われていた場所で、、三上晴子の「歴史」とも言えるような資料や映像があった。飴屋法水の作品。
1961年生まれで、1980年代から美術界で活躍を始め、その後、美大で教授も勤めた、ということもあるのだけど、ここには、作品やパフォーマンスを中心に並んでいて、こうした活動をしていた人だということを知らなかったし、それほど広く知られていなかった、ということも意外に思えるような印象だった。
そこにしばらくいて、そこに展示してあった作品や、映像も見たりしていると、かなり以前のことでもあるのだけど、初めて見たこともあり、現在のことのようにも感じられた。
そこから、また1階に戻る。
ギャラリーとしては、とても広く、ほとんど人がいないせいもあって、ゆっくりと見られた。
静かだけど、雄弁な印象も受けたのは、作品の幅の広さだけではなく、ハンドアウトを読みながらだと、それぞれの作家が、三上晴子からの影響を想像以上にコメントしていたからだった、と思う。
アートを見に行く観客が知らないとしても、そういう時間の中でもアーティストは作品を作り続け、そして、亡くなった後でも、その意志が強い場合は、それが伝わって、別の人の作品にもつながっていくこともあると、この展覧会で見せてくれたようにも思えた。