アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

アート観客のはじまり

 このところ、アートを見る機会が、ほぼなくなってしまいました。

 今の状況では、仕方がないとも思いますが、この20年以上、特に辛い時など、気持ちを支えてもらってきた事実も変わらないと思っています。そして、今振り返ると、ありがたい気持ちにもなります。

 実際に、直接、アートに触れることがほぼできなくなってしまった、この機会に、ここまで見てきた展覧会、個展、本、作品などのことを、少しずつ、書いて、伝えてみたいと、思うようにもなりました。

 最初は、それまでアートにほぼ興味がなかった人間が、どうやってアートを見るようになった話から書いてみたいと思います。

 

 

 昔は、美術やアートと呼ばれるものに、ほぼ興味が持てなかった。

 学生の授業の時も面倒くさくて、美術が好きではなかった。

 美術にまつわることも、好きではなかったと思う。

 

 高校の時、隣のバス停から乗ってくる女子が、肩かけのカバンを頭にかけて後へたなびかせていた。頭にみぞがある、といわれるくらい、そのカバンはズレなかった。その子は演劇部だった。美術とは違うのだろうけど、自分の中では一緒で、バスの窓から走る姿が見えるたびに、不思議な気持ちになっていた。

 

 大学の時、美大系のサッカー部と試合をしたことがある。約30年前なのに11人の選手のうち、2人もモヒカン刈り(ハードバージョン)だった。あまり近くに寄りたくないのに、マークすべき選手がそのうちの一人だった。彼はチームの中では上手いのにヘディングをしない。そのぶん守っていて楽だった。

 

 社会人になって、スポーツのことを書く仕事を始めた。

「芸術的なプレー」という表現に、「なんで、芸術の方が上みたいな書き方をするんだ?」などと軽い反感を憶えていた。

 

 1990年代「トゥナイト2」という深夜番組があった。とても軽いタッチの深夜番組。そこで、イベント紹介があった。「TOKYO  POP」。その展覧会は神奈川県の平塚でやっていることを知った。わずかに映る場面はちょっと魅力的だけど、都内からは遠い。でも、妻が行きたがった。

 

 出かけて、良かった。

 身近な印象の作品も多かったが、それが逆にリアルで、いいと思えた。

 これまで、ひたすら自分と関係ないと思っていたアートの方から、初めてこちらに近づいてきたように思った。

 30代になって、初めて、アートが面白いと思った。

 

 それまでの遠ざける感じから見たら、調子がいいとは思うのだけど、それから、アートは自分にとって必要なものの一つになった。

 それが1996年のことだった。

 

 気がついたら、美術館やギャラリーに、作品を見るために、出かけるようになっていった。自分にとって、ウソのない作品が見たいと思っていた。辛い時ほど、触れたくなった。気持ちを支えてくるものになっていた。週1レベルだから、たいした数ではないかもしれないけれど、気がついたら、20年以上の時間がたち、何百カ所は行ったと思う。

 

 今回の機会に、これまでの記録を少しずつ、お伝えしていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

(右側のカテゴリーは、

 「展覧会の開催年」

 「作家名」

 「展覧会名」

 「会場名」

 「イベントの種類」

 「書籍」

 

 の順番で並んでいます。

 縦に長くなり、お手数ですが、

 そうした項目の中で、ご興味があることを

 探していただけると、ありがたく思います)。

 

 

サエボーグ 「I WAS MADE FOR LOVING YOU」  津田直子「人生はちょっと遅れてくる」。2024.3.30~7.7。東京都現代美術館。

サエボーグ 「I WAS MADE FOR LOVING YOU」
津田直子「人生はちょっと遅れてくる」。2024.3.30~7.7。
東京都現代美術館

2024年7月4日。

 自分が知らない間に、さまざまな賞ができている。

 東京都とトーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)は2018年から、中堅アーティストを対象とした現代美術の賞が実施され、その受賞者が、東京現代美術館で受賞記念展を開催していたことを、初めて知った。

 

https://www.tokyocontemporaryartaward.jp

(『TCAA』サイト)

 

 こうした賞を知るたびに、特にこうして公共の機関が関係してくると、その意図のようなものを考えてもしまうのだけど、でも、今回の受賞者の一人のサエボーグを、以前から作品を見ていて、知っていたし、興味を持てたし、どこかすごいと思っていたせいもあって、展覧会も見たいと思った。

 

 二人のアーティストの個展を同時開催にすることに関しては、不安もあるが、どうやら無料らしいので、行こうとは思えた。

 

サエボーグ 「I WAS MADE  FOR LOVING YOU

 展示室の中には、犬がいるらしかった。

 それも、いる時間が限られているらしいのだけど、それでも、自分がその展覧会場に入った時には、犬がいた。

 その周囲も含めて、大きめのバルーンアートの作品で、囲まれているが、犬がいる場所に行くまでには、大便があってハエがたかっているのもビニールの膨らみで表現されているから、全部がフィクション感が強い。

 全体は薄暗くて、でも、かなり広いスペースの真ん中に丸いステージのような場所がある。そこに犬のボディースーツを着たアーティスト本人がいる、と思う。その中に人が入っているとはすぐには信じ難いくらいの造形。本当に大きいバルーンアートに見える。

 そして、その「犬」の表情は涙を流している。そして、周囲を取り囲む観客に向かって、動きは速くはないのだけど、切実に媚びを売るような動きを繰り返している。それは、普段、目にしているペットとしてのあり方の一部を切り取って大きくしているように思える。

 そのステージのようなそばで鑑賞していると、順々にそばにきて、そういう動きと、表情をされると、なんともいたたまれないような気持ちにもなる。

 実際に生きた人間が、そうした作品にして、そこにいる人間とのコミュニーケーションをすることでしか、こういう感覚にはならないと思うから、貴重な時間を制作してくれたとも思った。

 とても居心地の悪い空間だった。

 すごいことだと思った。

 

津田直子 「人生はちょっと遅れてくる」

 もしかしたら、これまで展覧会などで見てきたかもしれないけれど、失礼ながら、津田直子の名前を知らなかった。

 映像の作品が並ぶ。

 作家の家族の昔のある日の光景を、他の人たちに演じてもらっている。

 それは、初めてビデオを購入した、なんでもない会話などが再現されている。それは、おそらくは、同じようにホームビデオを買った家が、「映っているかな」みたいな言葉ばかりが飛び交っていたのだろうと思って、自分はそうした経験がないものの、似た時間があったような記憶が蘇ってきて、気恥ずかしい気持ちになった。

 それは、誰もが記録しないような、あえて記憶に残さないような場面だった。

 それも、その光景を演じている人は、次々と変わって、それは年齢も性別もバラバラで、でも、その不自然さのようなものも含めて、印象が広がることによって、刺激される感情が変わってくるような気持ちになった。

 展示会場には、その場面にあるテーブルセットがあって、そこに鑑賞者が座ると、その映像の一部になったりもしている。

 

 別の展示室では、とても日常的な動作を再現されて、さらには、鑑賞者が、その映像に参加するような作品もあった。

 

 2人の作家は作品のあり方も、作風も違うのだけど、あまり注目しないような、できたら忘れたいような、そうした記憶や感情に焦点を当てたような、そういう共通点はあるように思えた。

 

 

 

 

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(『いとをかしき20世紀美術』 筧 菜奈子) 

 

 

 

森村泰昌 楽しい五重人格。2024.4.19~6.1。Shugo Art。

2024年6月1日。

 久しぶりに森村泰昌の個展に行った。

 

 やはり、いろいろな人に扮している。今回は、人だけでなく、「ミロの絵」にまでなっているので、それは抽象画になる、ということもしているので、また可能性を広げたようにも思える。

 

 ただ、そうした試みも、いつもと同じ森村泰昌に見えるのは、やはりすごいのだとも思う。

 

(「Shugo Art」サイト)

https://shugoarts.com/news/71005/

今展に出品される、森村の最新作、未発表作、近作は、相互に関係性を持たない五つのセクション(=五重人格)を構成し、各種各様に自在な展開をみせてくれる。登場するのは、森村扮する「甲斐庄楠音」、「ナポレオン」、「ミロの絵画」、「カフカ」、そして「魯迅」。計14点の出品作が奏でる不協和音とともに、「森村泰昌」の多重人格性が、静かにそして楽しく炸裂する。

「わたし」を何かと同一化したとき、私たちの思考はそこで固定されてしまう。自己とは主観的な経験が繋ぎ合わさったものであり、絶え間なく変化し続けるものと捉えれば、あえて散乱された「わたし」の状態こそが創造の源泉となりえるのではないだろうか。森村泰昌「楽しい五重人格」をどうぞご期待下さい。

                    (「Shugo Art」サイトより)

 

 

 

 

 

(『生き延びるために芸術は必要か』 森村泰昌

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『梅津庸一 エキシビジョンメーカー』。2024.5.12~8.4。ワタリウム美術館。

2024年6月22日。

http://www.watarium.co.jp/jp/exhibition/202405/

(「ワタリウム美術館」サイト)

 

日々、おびただしい数の展覧会が開催され続けている。即時性と話題性が常に求められ、みな自らの「独自性」を主張し差異化を図ることに必死だ。しかし、残念ながらその多くの営みは既存のインフラの上で平準化されたコンテンツとして消費され忘れ去られていく。そんなサイクルが固定化しつつある。無論、美術家である僕もその渦中でもがき続けてきた。
 
身もふたもない話で恐縮だが、この悪循環から脱するためには「作品をつくる」あるいは「展覧会をつくる」とは何か?そんな素朴で単純すぎるかもしれない問いから再出発するほかないのではないか。


本展はワタリウム美術館の前身であるギャルリー・ワタリ時代の「知られざるコレクション」を軸とした展覧会だ。ワタリウム美術館にはいつも制度化される以前のアートの気配が漂っている。それは「未然のアート」と言い換えることもできるだろう。
 
ところで、展覧会を企画することを「キュレーション」と呼ぶようになって久しい。けれども、昨今の「キュレーション」の流行により展覧会づくりの方法や落とし所はあらかじめ規定・拘束されるようになった。
 
そこで、本展ではアーティストキュレーターとして振る舞うのではなく「エキシビションメーカー」の

精神に立ち返りたいと思う。いま一度、美術のいち観客でもある自分が見たいと思える展覧会と出会い直したい。

作品同士が、そしてなによりも「あなた」とこの展覧会が良い出会いとなれば嬉しい。

梅津庸一

                     (「ワタリウム美術館」サイトより)

 

 これが梅津陽一のステートメントとして美術館のホームページにも、展覧会の告知のためのチラシにも書かれている。

 こうしたどこか青臭いような文章は美術関係のメディアではよく見かけるような気もするが、そうした表現とは少し違って、自分をすごく見せようという意識は薄く、伝えたいことに対して、もっと真面目で本気で切実な気がするのは、その作品や、個展や、トークショーなどで、梅津の作品や言葉に接してきたから、観客として勝手にそう思い込んでいただけかもしれない。

 だから、やっぱり行きたくなった。

 

 美術館やギャラリーは、基本的には白い壁で囲まれているところが多く、それは作品に対して何かしらの影響を与えないためで、ホワイトキューブと言われていることは知るようになったけれど、今回の展示では、絵の具が、それも手作業の跡がわかるように垂らされていることで、客観的に作品を並べました、というよりは、誰かが選んでいる、といった意図がより伝わりやすいように思う。

「第1章 カスケードシャワー」。

 2階の展示室には、パッと見ると、どの時代に制作されたのかはわからない作品が並ぶ。

 そして、自分がそれほど知らないだけなのだろうけれど、初めて目にするアーティストの作品も多い、

 版画作品も目につくし、多くは平面の作品が並んでいるが、中にはかなり昔の作品では、と感じるものもあって、だけど、逆に今の作品に見える時代的にはかなり前の作品もある。

 どこで読んだか忘れてしまったのだけど、梅津は、今回の展覧会で、ワタリウム美術館になってからは展示されたことのない収蔵作品を中心にしている、と言っていたような気がしていて、だから、それ以前のギャラリーのときには訪れたことがない私のような人間にとっては初めて目にする作品も少なくないはずだ。

 ただ、そのときに、その時代の新しさ、というか、まだ見たことがないものを表現しようとしているのは、おそらくいつも同じだから、古い作品といっても、そこにあれば、その時間的な遠さとは関係なく、いろいろなことが伝わってくる。

 収蔵されているけれど、ずっと人の目に触れていない作品。さらに、最近の作品。もっと新しい作品。

 考えたら、時代が違ったといっても、同じような場所を目指していたかもしれない、などと思ったりもする。それは、前もっての情報として、どんな作品が今回展示されているかをある程度知っているから、より感じられたのだと思う。久しぶりに人の目に触れる、ということはどういうことなんだろう、とさらに考えさせられたりもした。

 

 次の「2章 眠れる実存たち」また周囲の壁の色をかえている。確かにそれだけで、なんとなく気持ちも変わる。

 そこで印象に残ったのは、今回は少なかった立体というか、インスタレーションだった。大きいベッドの上に人形や、アルコール飲料の空き缶や、食べ物の袋が散乱している星川あさこの作品で、ここに横たわっているのは、「アルコール中毒の入院患者」と作家が表現しているらしいが、こうして立体作品は、あるだけで存在が確かに強いと思う。

 

 ワタリウム美術館の特徴というか、ロフトのように少し狭めのスペースが3階の展示室になる。そこからは、天井の高い2階の展示室も見えて、角度や高さが違うと作品の印象が微妙に変わったりもする。

 そこには「3章 あたらしい風」というタイトルの元に並べられている作品がある。

 知っている名前、知らない人、どれも感情移入のようなものができそうな作品が多くて、だから「キャラクター」のようなことがテーマになっているのだろう。

 その中で、「息継ぎ」という作家を全く知らなかったけれど、とても魅力的に見えた。まったく関係がないのに、自分が見たような気がする光景に思え、さらに、すごく風通しがいいように思えたのは、本当に今の時代の人の作品のせいだろうか。今から、年月が経ったら、また違って見えるのだろうか。

 時代によって、観客の見る目そのものが違ってくる。それで作品は一緒でも変化することはあるのかもしれない。

 

 4階に上がる。

 そこには版画が中心に展示されているようだ。

 ただ、その作品のキャプションなどを読むと、それぞれの作家の影響や、中には梅沢和木と、その父親・梅沢和雄の作品までがあり、梅沢の作品は、父の作品も含めての新作が展示されている。

 ただ、血縁関係、というだけではなく、先行する世代が、そのあとに続く世代に影響を与える、のは当たり前のようで、不思議なつながりでもあるのだけど、それで、作品はだんだん豊かになっていくのだと思った。

 梅沢和木の作品は、やはりシンプルに美しいと思うし、デジタル時代のイメージをかなり明確に伝えてくれているように思ったし、もう10年以上前に本格的にデビューしていて、その頃は、もっと梅沢のフォロワーのような作家が増えると思っていたけれど、でも、梅沢以外に、梅沢らしいアーティストは出現しなかった、と感じている。

 それでも、梅沢の作品を引き継ぐ次の世代が、自分が知らないだけで出てきているのだろうと思った。

そんなようなことをあれこれ考えながら、作品を見ることもできて、穏やかだけではない、刺激的だけでもない、充実した時間だった。

 

 

 

 

(梅津庸一  作品集『ポリネーター』)

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菅木志雄展「あるというものはなく、ないというものもない」。2024.4.27~6.8。小山登美夫ギャラリー。

 

2024年6月1日。

 久しぶりの小山登美夫ギャラリー。 

 六本木のギャラリーが固まっている場所にある。

 ここは、ギャラリーの中でも広い気がする。というよりも、展示室が一つ多いように思って、その広さが気持ちいい。

 

 菅木志雄は、1944年生まれ。今年で80歳のはずだ。

 1960年代から70年代に「モノ派」の主要メンバーとして活躍しているから、いわゆる伝説的な存在でもありながら、今でも新作を発表し続けている。

 今回の作品も、確かに新しく見えた。

 やっぱりすごいと思った。

 

http://tomiokoyamagallery.com/exhibitions/kishiosuga2024/

(「小山登美夫ギャラリー」)

 

 菅は、アーティストとは人に「ある視点」を与える先導者のようなものだと述べています。

「アートというのは、あるものを認める。それだけのことなんだと、ずっと言ってます。でもいっぽうで、自分の『ちょぼっ』とした行為が、とてつもないものを引きずり出す可能性はあると信じている。素材となる自然のほうは、膨大なバックグラウンドを背負っていますからね。その大きなものに働きかけていれば、何かを引き起こせるかもしれない。」
「『ものは、あるようにある』。存在をあるがままに認めること、つたなくとも自分で語ることが大事だと思う。それはその人がどう生きるか、ということだから。」*1

 見えない繋がりを感知しないと世界は見えない。菅は、私たちに新たな気づきをあたえ、アートを通じて世界とどう豊かに向き合っていくかを指し示しています。

             (「小山登美夫ギャラリー」サイトより)

 

 

 

(「世界を〈放置〉する: ものと場の思考集成」 菅木志雄)

https://amzn.to/3RS0IQA

 

 

 

 

 

「私が死ななければならないのなら、あなたは必ず生きなくてはならない」。2024.5.17~6.29。ワコウ・ワークス・オブ・アート(六本木)。

2024年6月1日。

 この「私が死ななければならないのなら、あなたは必ず生きなくてはならない」という、とても強くて、しばらく忘れられないような言葉は詩の冒頭だった。
 

https://www.wako-art.jp/exhibitions/ifimustdieyoumustlive/

ワコウ・ワークス・オブ・アート

 

 そういう詩が存在することを、この展覧会で初めて知った。

 

 こんな直接的で強い言葉のタイトルの展覧会は珍しく、だけど、とても印象に残るから、さまざまな展覧会を紹介するサイトでも目にとまる。内容を知ると、何も知らないような自分が行ってもいいのだろうかといった気持ちにもなる。
 

https://bijutsutecho.com/exhibitions/13615

(「美術手帖」サイト)

 

本展のタイトルは、パレスチナの詩人、リフアト・アルアライール(1979〜2023)が最後にSNSに投稿した詩の冒頭部分である。この詩を投稿した翌月、アルアライールイスラエル軍空爆により絶命した。アルアライールが最後に残したこの詩が、本展全体に通底するメッセージとなっている。

                            (『美術手帖』サイトより)

 

 だけど、やはり行こうと考え直し、六本木に向かい、ビルの階段を上がり会場に入ると、思った以上に人が多く、だけど、静かな空間だった。

 

 本展では、フィシュの新作を含む彫刻作品やドローイング、ムスアブ・アブートーハ(1992〜)の詩、画家 スライマーン・マンスール(1947〜)の版画、ガザのためにアーティストたちが制作したポスター(Posters for Gaza)を中心に紹介。 また、長年フィシュと親交があり、今回の企画の意図に賛同した奈良美智(1959〜)の新作も展示される。

                           (『美術手帖』サイトより)

 

 どうしても奈良美智の作品がすぐに目に入ってしまうのは、これまで見てきた作家だから、というのもあるけれど、このギャラリーのそれほど広くない空間には、ポスターがあり、版画があり、ドローイングも、絵画もある。

 パレスチナ出身のアーティストや詩人に関しては、失礼かもしれないけれど、ほぼ知らなかった。もしかしたら、ガザ侵攻がなければ、こうした作品に触れることもなかったかもしれない。

 作品も、静かで、でも力も感じて、さらにいろいろなことを思ったのは、その背景を考えてしまうからで、こうした大きな出来事に対して、自分は何もできないし、していない、といった後ろめたさもあったけれど、その会場にある詩や言葉は、ただ、他の場所で読むよりも、こうして作品に囲まれている中で接したことで、知らない人であるのに、そこで話されているように感じるから、しばらく自分の中に残るような気がする。

 何かを言えない。

 そんな気持ちになるが、いったん出て、他のギャラリーを見てから、再び、この空間に来る。少しとどまる。

 整えられたハンドアウトもありがたくいただく。そこには言葉があった。

 ギャラリーにあった本も読んでみようと思った。自分は、本当に何も知らないことを知る。

 

 

 

 

(『ホロコーストからガザへ』 サラ・ロイ)

https://amzn.to/3Vrb5f8

「陸路」(スピルオーバー#1)。2024.5.8~6.16。BUG。

「陸路」(スピルオーバー#1)。2024.5.8~6.16。BUG。

2024年5月25日

 大型連休が明けた5月8日から、6月16日まで「BUG」では、「スピルオーバー#1」という展示が行われた。

 

https://bug.art/exhibition/spillover-2024/

『「陸路」(スピルオーバー#1)』

いわゆる「電波漏れ」を意味するスピルオーバーは、その性質上、本来届けるはずの範囲を越境して、別の土地、地域、国家、人へと電波が届く現象を指す言葉です。行政権力や企業がどれほど労力を費やしても、電波は意に介さず国境を超え、地方区分を逸脱し、「受益者」の範囲を広げ続けます。 想定されていなかった情報を受け取ってしまった者たちがこの世界にはそれなりにたくさんいるはずです。

                          (『BUG』サイトより)

 こうしたテーマを扱うキュレーターの意欲に興味が持てた。

 どれだけコントロールされても、マネージメントされても、その通りにいかないのが、おそらくは人間という動物がつくる社会で、しかも、どれだけテクノロジーが発達しても、そうした誤差のようなものはできるはずで、それは、そのシステムに関わる専門家にとっては許せないことだとも想像できるけれど、そうしたことが、実は人間にとっては理不尽な部分もありながら、欠かせないことだと思っているからだった。

 何しろ、このギャラリーの名前が「BUG」なのだから、そういう意味でも、ここで開催する必然性はあるようにも感じてから、そのキュレーターも、参加するアーティストも、自分が無知のせいもあって、まったく知らない人ばかりだったけれど、それだけにちょっと楽しみになっている部分もあった。

 

知らなかった出来事

 東京駅八重洲南口で降りて、高速バスの停留所にさまざまな場所の名前を見ると、ここが駅だということを一瞬でも強目に意識して、遠いところにつながっているようなイメージがぼんやりとわくのだけど、一度来ているから、スムーズにビルの一階まで行けた。

 カフェは満席です。という表示が今日も出ている。

 それを見ながら歩くと、ギャラリーがあるけれど、今回は前回と違っていた。それは、ギャラリーのスペースがさらに壁で囲われ、しかも暗くなっているせいだった。そこに入るときに、スタッフに声をかけられ、作品にもみがらを使用していますので、お米のアレルギーはありますか?と聞かれた。

 今はそうした配慮が必要になっているが、渡された説明がラミネート加工されたものだったので、紙のハンドアウトはありますか?と聞いたのは、できたら持ち帰りたかったのだけど、そうした要望にまで応えて持ってきてくれた。

 ここはギャラリーだけど、入場者に対して、スタッフから声をかけてくれる、という意味では珍しい場所かもしれない。私が知っているギャラリーは、自分が作品を購入できるようなコレクターでないせいもあって、作品を見せていただく、といった気持ちで、ちょっと猫背気味で、そっと入って、受付に座っている人と目が合うかどうか分からない微妙な感じの時でも、会釈だけはして静かに鑑賞する、という印象だったから、それで、ここのスタッフの対応はありがたいけれど、自分が、まだ慣れていないのだろう。

 バン。という大きい音。

 壁の機械のようなところから、もみがらが吐き出されるように空中から、床に落ちていく。そこにもみがらがたまっている。そして、大きい音量での言葉。色が強くきれいに見える映像が壁に投影される。

 床には、ミキサー車の回る部分だけのような、おそらくは畜産の飼料などに使われる機械が設置されていて、その中に音響機器が設置されているから、そこから大きい音が出てくる。

 それは、どうやら東日本大震災の時、家畜である豚のエサがなくなったとき、このもみがらに関係あるようなことで、その豚が生き延びた、といったようなことと関係があるストーリーがそこで語られているようだった。そうした出来事があったことも初めて知ったし、ここでの音響と映像のおかげで印象に残った。意味が分からなくても、急に大きい音が出ると驚くし、その反応も含めて、ちょっと違う感覚になれる。

 だから、そこにいる人にだけ伝えられるものはあるのだろうとも思った。

 MESの作品。

 

映像と音響

 その映像が消えて、ギャラリー内が暗くなって、それで作品が終わったと思った。

 壁には、大きな画面のようなものがあって、それはずっと沈黙するように暗いままだったから、故障していて、もう見られないかと思ったので、スタッフに尋ねたら「あと5分後に、この映像は始まります」と言われて、それなら見ようと思って、薄暗いギャラリーの壁際に立っていた。

 他には、中年男性が1人、若年女性が一人で、私も含めて3人で静かに開始を待っている。

 大きい画面と、床に置かれた大きいスピーカーから音が響く。それは、ライブなどで使われそうな機械ではないかと思われるようなもので、ギャラリーなどではあまり聞かれないような巨大な音で、それは体に響くのだけど、おそらくは性能がいいせいか、きれいな音に感じる。

 映像は、人の顔が加工されている。それが、いかにもデジタル的な動きと輝きがあって、基本的には気持ちがいい。それで言葉も発しているのだけど、何を言っているかは分からない。

 ミュージックビデオを見ているような気持ちになってくる。そして、ずっと加工された顔が映っていて何か変化があるのだろうか。最後に無加工の顔が急に出てくるとか、あるのだろうか。そんなことを思っていたが、約7分、ほとんど映像の変化はなくて、終わった。

 映像と音響の質の良さがあると、実際に作品を展覧会で見る意味があると確かに思った。だけど、これだけの技術があるのだから、もうちょっとなんとかならないだろうか、と勝手なことを思っていた。林修平の作品。

 ハンドアウトには、『動物の「駆除」に端を発する言説に関して、デスボイスによるレクチャーパフォーマンス形式の作品を発表しています』とあったのだけど、こちらの聞き取る能力の問題もあるとは思うのだけど、そうした内容だったことに全く気が付かなかった。

 そうであったら、もう少し伝わるようにしてほしいと望むのは観客の未熟さなのだろうか、とも思いながら、やっぱりもう少しその言葉を知りたかった気持ちはあった。

 

 さらには、もう一組の作家FAQ?は、ZINEを作ってそれを販売するというものだったというのだけど、最初は、その媒体が、この展示に関する図録のようなものだと思って、それほどちゃんと見なくて、しかも3組目の作品展示者とは思わなかったので、購入もしないで帰ってきた。

 それでも、「スピルオーバー」をテーマに、もしかしたら今後も展示をしてくれるのならば、その時は、また行きたいとは思った。

 

 

(『現代アート、超入門!』 藤田令伊

https://amzn.to/3XwnBNm

 

千賀健史個展 「まず、自分でやってみる」。2024.3.6~4.14。BUG

 

2024年4月13日

 リクルートがギャラリーを運営していて、そこには何度も行ったことがある。そして、その2つのギャラリーが閉じ、次は東京駅のそばにギャラリーができた、と知ったのは、すでに開廊してから、何ヶ月も経ったときだった。

 それは、自分が情報に弱いだけだけど、八重洲のビルの1階と知って、そんなに便利な場所にあるのはありがたいとも思っていた。

 八重洲南口で降りる。そこは、高速バスを利用するときに利用することが多い改札で、そこを降りてから、そのことに気づき、その並んでいる停留所を見ながら歩くと、大きなビルの一階にギャラリーはあった。

 都心部でも、ひっそりと佇んでいることも少なくない画廊やギャラリーのことを思ったら、こんなに目立つ場所にギャラリーを設置すること自体が思い切ったことのようにも思えた。

 入り口を入ると、まずカフェがある。

 自分とは縁が遠そうなオシャレな空気と、そこにフィットしているお客さんで、満席のようだった。

 その奥にギャラリーがある。

 シンプルにひらけた直方体の天井が高い空間だった。

 

千賀健史個展「まず、自分でやってみる」

https://bug.art/exhibition/chiga-2023/

(「BUG」サイト)

 

 その空間は、何かわからないもので埋められていた。

 顔は並んでいるが、どれも誰か分からないようになっている。「特殊詐欺」に関わる犯罪の「道具」のようなものもある。机、メモ、筆記用具などしかない。あとは映像だけど、人に関することばかりだ。

 考えたら、「特殊詐欺」は、電話をし、話をし、被害者に信じ込ませ、お金を振り込ませる。そのお金を引き出して回収する。現代では、現金もしくはクレジットカードや銀行のキャッシュカードなどを盗んだりすることもあるようだ。

 とてもシンプルな道具や、さらには考え抜かれているとはいえ、人が話をする、という単純なことで、加害者が体を張ったりしなくても、犯罪が成立する。

 そして、被害者に振り込ませた銀行の口座からお金を下ろす、という日常的な行為を担当するのは「受け子」などと言われているようだけど、この犯罪が長く続いて、そうした犯罪用語まで一般的になってしまった。

 そんなことを考えていた。

 

 そして、「特殊詐欺」は、その犯罪に加担する人間がかなりの人数が必要になるはずなのに、そして、そこに関わった人たちはかなり日常的に聞くのに、その犯罪が今も行われているのは、そこに関わる人たちが、今も「闇バイト」などと言われてリスクがあるのはわかっているのに、絶えないことが、おそらくはこの犯罪がなくならない一つの理由なのだろう、といったことを思っていた。

 千賀健史が、作品制作のためにリサーチをはじめた2019年には、約16000件の「特殊詐欺」の被害があった。2003年には6000件を超えていた、と伝えられていたから、それから2倍以上の犯罪件数が増加している。

 普段は意識しないが、これは、かなり深刻なことではないだろうか。

 

本展では、2019年から約3年間にわたり千賀がリサーチしてきた特殊詐欺を取り巻く社会構造や個々人をテーマとし、写真、映像を含むインスタレーション作品を展示します。展覧会名と同名である「まず、自分でやってみる。」の作品シリーズは、千賀が詐欺犯や被害者などに扮して撮影したポートレートを水溶紙に印刷し、そこに水を吹きかけ、紙を溶かして作られています。この水溶紙は、実際に詐欺グループが証拠隠滅のためによく用いるもので、ほとんど原形を留めない紙からは顔貌が判別できず、そこに居た人/消えた人を想像することしかできないでしょう。特殊詐欺の被害額が最大となった2014年から、千賀が初めてこのテーマで作品を発表した2021年まで被害は減少傾向にありましたが、コロナ禍を経て2022年には8年ぶりに増加しました。本展では、被害が増加した背景にある社会や時代の変遷から影響を受けた個々の生活の変化に焦点を当てます。

                           (「BUG」サイトより)

 

 ギャラリーに入って、ふわっと全体を見ていたら、スタッフの人が、「ハンドアウトがあります」と渡してくれた。最近は、QRコードでの「ハンドアウト」が多く、スマホも携帯も持っていない人間にとっては、とてもありがたいことだった。

 そこには「アーティストステートメント」があり、それを読むことで、今回の展示のことが、より深く理解できるように思った。それは、そこまで説明してはいけないのではないか、といった意見も出てきそうなのだけど、ただ、鑑賞者としては、やはりありがたいことだった。アーティスト自身の親戚が、「特殊詐欺」に遭ったという経験も書かれていて、それもここにある作品を制作した動機の一つになるだろう。

 

2019年以降、個々の経済的困難が社会全体に広がった。「国は助けてくれないし、自分でなんとかするしかない」という絶望的な声が、社会の中でささやかれる。経済的困窮が続く中で、人々は限られた選択肢しか持たず、その結果、特殊詐欺が社会に蔓延する土壌が整っていった。私自身、また友人の中にも生活に苦しんでいた人は多く、中には最後の手段として闇バイトが頭をよぎったという話も聞いた。

 

実際、詐欺被害は2022年に8年ぶりに増加し、その後も増え続けている。そして、2023年までに約25万人の高齢者が被害に遭い、約2万5000人の若年層が犯罪者になった。

 

2020年9月、「まず、自分でやってみる」という言葉には国の顔がついていた。そしてそれは背景から切り離され、自己責任の記号として最も強く私たちに刻まれた。元保育士の人物は「1ヶ月以上仕事がなかったので、闇バイトを探した」と語った。画面のこちら側にいる私と向こう側にいる人物は一体何が違うのか、そこに引かれた境界線は明確なものではないかもしれない。

                       (ハンドアウトより)

 

 この展覧会のタイトルの「まず、自分でやってみる」という言葉が、最初はなんだか分からなかったのだけど、ハンドアウトを読んで、はっきりと思い出した。

 それは、2020年、コロナ禍で誰もが不安で、同時に経済的にも厳しい状態の人が少なくない中での、当時の首相の言葉だった。

 

私が目指す社会像は、「自助・共助・公助」そして「絆」です。自分でできることは、まず、自分でやってみる。そして、家族、地域で互いに助け合う。その上で、政府がセーフティネットでお守りする。

                      (『首相官邸』ホームページより)

 個人的に印象に強かったのは、「自助・共助・公助」だったけれど、そのあとに「まず、自分でやってみる」が続いていたのは忘れていたが、それが、今回の個展のタイトルになっていた。

 この言葉は、コロナ禍というほとんど「天災」のような過酷な状況の中にあって、「行きすぎた自己責任論」を象徴する言葉だと改めて思った。そして、今回のメインビジュアルにもなったコラージュされた顔には、もしかしたら当時の首相の顔も入っているのかもしれないと感じ、そうであったら、作品の強度も増すのではとも思った。

 

スゴロク

 私は携帯もスマホも持っていないので、きちんと参加できなかったが、床面を使った双六のような作品があって、それぞれのコマには、言葉があった。

 それをスマホを使って、サイコロのようにして、進んでいくというゲームのようだ。

 自分は経済的に豊かになって、間接的に関わっている人。実際に特殊詐欺の被害に遭った人。さらには、特殊詐欺の闇バイトに手を出しそうになっている人。といった立場の違う人それぞれのコースがあって、ところどころで接していた。

 そこに並んでいた言葉がリアルに感じ、個人的には今回の個展で、最も印象に残った。

 

利回りのいい投資先を紹介してもらう

1ヶ月で500万儲かる

投資先は特殊詐欺グループらしいが

自分は投資しているだけなので関係ない

 

 あの日、お金をとられた事を思い出すと

 亡くなったお父さんに申し訳なくて

 悲しいし、辛い

 私もボケちゃったのかしらね

 

 ステートメントの中に「特殊詐欺は社会を映し出す鏡」とあったが、本当にその通りだと思った。犯罪としての摘発は、もちろん必要だけど、「特殊詐欺」に手を貸す人間を減らすには、先進国の中では特殊に相対的貧困率が高いような状況が続く限りは難しいのだろう。