アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

アート観客のはじまり

 このところ、アートを見る機会が、ほぼなくなってしまいました。

 今の状況では、仕方がないとも思いますが、この20年以上、特に辛い時など、気持ちを支えてもらってきた事実も変わらないと思っています。そして、今振り返ると、ありがたい気持ちにもなります。

 実際に、直接、アートに触れることがほぼできなくなってしまった、この機会に、ここまで見てきた展覧会、個展、本、作品などのことを、少しずつ、書いて、伝えてみたいと、思うようにもなりました。

 最初は、それまでアートにほぼ興味がなかった人間が、どうやってアートを見るようになった話から書いてみたいと思います。

 

 

 昔は、美術やアートと呼ばれるものに、ほぼ興味が持てなかった。

 学生の授業の時も面倒くさくて、美術が好きではなかった。

 美術にまつわることも、好きではなかったと思う。

 

 高校の時、隣のバス停から乗ってくる女子が、肩かけのカバンを頭にかけて後へたなびかせていた。頭にみぞがある、といわれるくらい、そのカバンはズレなかった。その子は演劇部だった。美術とは違うのだろうけど、自分の中では一緒で、バスの窓から走る姿が見えるたびに、不思議な気持ちになっていた。

 

 大学の時、美大系のサッカー部と試合をしたことがある。約30年前なのに11人の選手のうち、2人もモヒカン刈り(ハードバージョン)だった。あまり近くに寄りたくないのに、マークすべき選手がそのうちの一人だった。彼はチームの中では上手いのにヘディングをしない。そのぶん守っていて楽だった。

 

 社会人になって、スポーツのことを書く仕事を始めた。

「芸術的なプレー」という表現に、「なんで、芸術の方が上みたいな書き方をするんだ?」などと軽い反感を憶えていた。

 

 1990年代「トゥナイト2」という深夜番組があった。とても軽いタッチの深夜番組。そこで、イベント紹介があった。「TOKYO  POP」。その展覧会は神奈川県の平塚でやっていることを知った。わずかに映る場面はちょっと魅力的だけど、都内からは遠い。でも、妻が行きたがった。

 

 出かけて、良かった。

 身近な印象の作品も多かったが、それが逆にリアルで、いいと思えた。

 これまで、ひたすら自分と関係ないと思っていたアートの方から、初めてこちらに近づいてきたように思った。

 30代になって、初めて、アートが面白いと思った。

 

 それまでの遠ざける感じから見たら、調子がいいとは思うのだけど、それから、アートは自分にとって必要なものの一つになった。

 それが1996年のことだった。

 

 気がついたら、美術館やギャラリーに、作品を見るために、出かけるようになっていった。自分にとって、ウソのない作品が見たいと思っていた。辛い時ほど、触れたくなった。気持ちを支えてくるものになっていた。週1レベルだから、たいした数ではないかもしれないけれど、気がついたら、20年以上の時間がたち、何百カ所は行ったと思う。

 

 今回の機会に、これまでの記録を少しずつ、お伝えしていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

(右側のカテゴリーは、

 「展覧会の開催年」

 「作家名」

 「展覧会名」

 「会場名」

 「イベントの種類」

 「書籍」

 

 の順番で並んでいます。

 縦に長くなり、お手数ですが、

 そうした項目の中で、ご興味があることを

 探していただけると、ありがたく思います)。

 

 

書籍   『生き延びるために芸術は必要か』 森村泰昌

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『生き延びるために芸術は必要か』 森村泰昌

 

 最初、著者の今は誰も住まなくなった実家の話から始まる。

 そして、その実家は、このままだと朽ちていくしかないけれど、ではどうするか?といった話になり、でも、それは空き家問題といった社会的なことではなく、もっとプライベートな方向に向かっていく。

 

これは終活問題ではなく、ある種の介護のエピソードではないのかと。しだいにこわれゆく私の実家、それは第三者には寿命がつきかけたありふれたボロ家に過ぎない。しかし私はこの家とだれよりもながくつきあってきたわけである。

 

       (『生き延びるために芸術は必要か』より。以下、引用部分は、同著より)

 

 そして、その実家とどうやって付き合っていくかについては、最後になって、また登場するのだけど、そこに至るまでは、これまで行ってきた大学での講義の内容を中心に進むことになり、それは後から振り返れば、「生き延びる」ことが話の中心になっていたことに、著者自身が気づいたようだ。

 

役に立つということと生き延びることは、まったく別問題である。役に立つから生き延びるのではない。役に立つかどうかとは無関係に、生き延びたい、生き延びてほしいとねがう気持ちが、なにものかを生き延びさせるのである。

 そして、その話題は、意外というか、だけど、森村泰昌にとっては必然の選択なのかもしれないが、「フランシスコ・デ・ゴヤ」そして「ディエゴ・ベラスケス」という、どちらも西洋の、今からいえば何百年も前の西洋美術史の「巨匠」が、どうやって生き延びたのか、という話になっていく。

 

雇われた画家として生き延びること

 フランシスコ・デ・ゴヤ

 「カルロス四世の家族」の肖像画

 1800年から1801年にかけて描かれたとされる傑作。

 

 私も実際にこの作品を見たことはないし、図版などで見かけただけでも、隙のない大作、という印象しかない。

 だが、同じ実作者である森村だからこそ、ゴヤの思惑まで、その作品からかなり踏み込んで推測をしている。

 それは、職業画家としてのとんでもなく高い技術は前提として、同時に芸術家として、どうやって生き延びたのか、という想像以上に緻密で大胆で考え抜かれた戦略があることに、読者にも気がつかせてくれる。

 この作品には、実はやや不自然なスペースがある。まるで、本当はもう一人、そこに主役級がいるようだ。そのことによって、隠された王女の不倫のことを密かに描き込んでいる。王よりも、不倫相手との子供を中心にしている、らしい。

 

 作品から読み取れることを述べている森村の推測は、とても説得力があった。

 

 ただ、さらに謎とも思えるのは、このときの最大の権力者の一人でもある王女の表情を強かに描いたことだ。それが、この人物の本質であったとしても、どれだけ優れた画家であったとしても宮廷に雇われている身としては、こうしたやり方は、画家自身の身の危険さえ及ぼしかねない行為のはずだった。

 そのことに関して、森村は、子どもたちを、とても輝かしく描き、そのことで、王女にも、それならば仕方がないと思わせたのではないか、という読みを展開させている。

集団肖像画『カルロス四世の家族』とは、権力者マリア・ルイーサの政治的思惑と、一介のお雇い画家にすぎなかったゴヤの芸術的価値との
あいだでくりひろげられた、熾烈な格闘技のようにすら感じます。
 そして、森村は、この作品について、ここから、さらに豊かな視点を提示してくれている。
もしマリア・ルイーサがゴヤの絵の価値に無知蒙昧の人物であったとしたら、今日こうして私たちが『カルロス四世の家族』という問題作を目にすることもかなわなかったはずです。ゴヤにとってもっともてごわい鑑賞者はおそらくマリア・ルイーサだった。この人物を納得させられる強度を持つものでなければ、それは風雪にたえうる「
いい絵」かつ「すごい絵」とはなりえない。作品を制作する側と作品を鑑賞する側のあいだにおける、人生を賭したといってもいいようなあのはりつめた応酬、あれがなければ傑作は生まれない。『カルロス四世の家族』はゴヤ作というより、ゴヤとマリア・ルイーサという立場も価値観も真逆であった両者による、みごとなコラボレーションであったというべきなのかもしれません。

 

 次に、森村が論じているのは、ディエゴ・ベラスケスラス・メニーナス』。

 おそらく、少しでも美術に興味があれば、誰もが一度は図版などで見たことがある傑作。私は実物は見たことがないが、この作品は、鑑賞した人も少なくないと思う。

 そして、『ラス・メニーナス』を過激だと見立てる森村の推察は、少なくとも私は聞いたことがないような、画家と王との「高度なゲーム」だったが、そこにとどまらないのが、現役で、ベラスケスと同じ芸術家である森村の見方なのだとも思わされた。

 

ラス・メニーナス』をはじめとするこの画家の画業のすべてが濃厚におびているのは、ほろびゆく歴史にさしむけられたわけへだてのない哀悼の感情です。(中略)

ラス・メニーナス』とは、去来する歴史へのレクイエム(鎮魂歌)です。終わりゆくものへのせつなる愛です。我をわすれて熱狂的に前進するだけでは、〝生き延びる〟ことの真意はなかなか読みとれないのかもしれませんね。

作品と商品。

 森村の講義は、コロナ禍が厳しい頃でもあったので、大学でオンラインで期間限定での配信だったようだ。第六話は「生き延びるために芸術は必要か」という本のタイトル通りのテーマだった。

 コロナのときに、「不要不急」という言葉が随分と聞かれたし、「不要不急」以外のことは、糾弾されるような目で見られていたから、当然、美術や芸術もそのように扱われ、一斉に学校が休校になったときも、当然のように図書館も、美術館も閉まっていて、個人的には、悔しい思いをした。

 30歳を過ぎてから、急に美術やアートに急に興味を持って、自分でも意外だったのだけど、特に現代美術の作品を見るようになり、さらに意外なことに、自分が気持ちが追い込まれるほど、美術作品に触れたくなり、そのことで、心が底の底まで落ちる前に支えられた。

 だから、それ以来、美術やアートや、その作品を制作するアーティストにも、とても勝手で一方的な思いだけど、どこか感謝するような気持ちがあった。

 そんなことを、森村の書籍を読んで、思い出した。

 この「第六話」のテーマは、『作品、商品、エンタメ、芸能、そして「名人伝」』だけれども、かなり鮮やかに、こうしたことに関して語っていると思った。

 

「商品」とは、「あったらいいな」の世界である

「作品」とは、「ありえへん」の世界である。

 

 本当にそうだと思った。だから、「美術」に限らず「作品」は「不要不急」に一見、思えない。だけど、「作品」がなかったら、分かりにくいけれど、いつの間にか「生き延びること」ができなくなりそうだと、自分が思っていることを、再確認させられた。

 

エンターテイメントとは、あらかじめわかっていることの再確認である。

 エンターテイメントと、芸術の違いも、はっきりと分かれるものではないにしても、やはり違いがあると感じ、それは、どこかで「商業や経済との関係の濃度の違い」みたいな差ではないかと思っていたが、その感覚が浅はかであることも改めて気がつかされた。

美術館は、よくわからない

「作品」ばかりが並んでいる場所は、確かにそうかもしれない。

芸術は不親切きわまりないスフィンクススフィンクスからの謎かけに、こちらからまえのめりになってつきあわなければ答えは得られないし、さきにもすすめない。このスフィンクスの「わからなさ」にむきあってみることが「おもしろさ」だと感じられてくるとき、芸術はエンタメ世界とは異なる、別種のちょっと目がはなせないワンダーランドにみえてくる。

 最初は戸惑っていたのだけど、なんだか自分に問いかけられているような気がして、そのことで、これまであまり使わなかった感覚が動くような気がして、それで、急に興味を持ったことを思い出した。

 確かに、こんな気持ちの動きがあって、20年以上、「作品」を見続けてきたのだった。

 

芸術と芸能

 芸術と芸能。

 この違いもいろいろと言われてきた。

 さまざまな視点から検討もされ、その結果として、エンターテイメントと芸術の違いのように、重なるところもあり、それほどはっきりとした違いがないかもしれないと思いながらも、決定的に違う要素があるようにも感じてきた。

「芸能」とは、ぜったいにウケないといけない世界である。

「芸術」とは、ウケなくてもやらなければならない世界である。

 この指摘の納得感が深いのは、芸術のプレーヤー側からの視点であり、しかも、その内面の違いも含んでの話だからだと思う。

ウケなければ生き延びることができない芸能界と、ウケなくてもやるべきことはやりつづけなければならない芸術の世界。「芸能」と「芸術」は、おなじ「芸」でもたち位置がまったく逆です。しかし「芸」であることの熾烈と過酷という意味においては共通しています。

 「芸」であることの熾烈と過酷が共通しているから、観客側としては、その違いがわかりにくいはずだった。だけど、これは、とても納得ができる分析だった。

 

名人伝

 そして、その「芸」に関しては、中島敦名人伝』の話まで進む。

 この短編は、弓の名人を目指した人が、途中では弓を使わないで空を飛ぶ鳥を落とす域まで達するが、それだけでとどまらず、その「名人」は晩年は弓矢の存在さえ忘れてしまう、といった展開になる。この小説は学生の頃の課題小説であって、この「名人伝」を最初に読んだときは、あまりにもトリッキーな結末だと感じていた。

 だけど、年齢を重ねた方が、この『名人伝』と同じ文庫にある『山月記』も含めて、芸や、表現することの業のようなものが描かれているのだと思うようになった。

 この『名人伝』の最後、弓矢を忘れてしまう「名人」のあり方について、森村は、こんなふうに説明している。

あえていうなら、難問は〝解く〟べきものでも、〝説く〟べきものでもない。おのずと〝溶けていく〟ものである。溶けてしまえば、答えをもとめて悩むこともなくなる。そうなれば作品をつくったり、本書を書いたりする必要もなくなるのだろう。 

 

 他にも、『華氏451の芸術論』。『コロナと芸術』。『芸術家は明治時代をいかに生き延びたか』。さらには、『生き延びることは勇ましくない』といったテーマについて、森村は語っていて、どれも新鮮な視点を提示してくれたように思った。

『ART SQUIGGLE YOKOHAMA 2024』。2024年7⽉19⽇〜9⽉1⽇。横浜山下ふ頭。

 

2024年8月24日。

artsquiggle.com

 

 会場は広かった。

 天井も高い。

 渡された会場の案内図を持って、中を歩く。

 最初に入り口付近の作品に自然と見に行ってしまう。

 

 そこには少し暗い中に立体が積み重ねられていた。ただ、それを構成する立体は、自分自身のプライベートな部屋と関係のありそうな要素が入っているようだった。それは、そのブースの壁に設置された作品にも反映されているようだった。その日常が入っている感じがいいと思った。作者は、宇留野圭

 

 他の出展作家も、ほぼ知らない人ばかりだった。プロフィールを見ると、30代前後だから、アートの世界だと若手と言っていいのだと思うし、だから、やはり見る側も勝手なことだけど、新しさを求めてしまう。

 

 会場の中で、それまで見た記憶のある作家は一人だけだった。

 藤倉麻子。

 CGを使った、見たようで、見たことのないような風景。ちょっと引っかかりのある映像が続く。それは、ある時期以降のものだけがつまっているようにも見えるので、そういう意味では新しさを感じる。

 それも、まだ2度目だけど、やっぱり違う感じがするけれど、この作家のもの、という印象は共通するから、それだけ、その人独自のものが色濃く反映されているのだと思った。

 

 新しさとは、なんだろう。

 基本的に若い作家が制作するものは、新しいような感じがする。だから、若いアーティストの作品を展示した方が、これまでにないものを、そこで見られる気がする。

 ただ、それだけで新しいわけでもない。

 今回も、もし新しさといったことをテーマにしてくれて、そのことに絞って、露骨でなくてもいいので、それが少しでもわかるような展示方法にしてもらったら、また印象が違うのかもしれない、などと思ってしまった。

 

 そうした中で、普遍的であるような、大げさに言えば、人のどうしようもない業のようなものを感じたのが、山田愛の作品だった。

 少し薄暗い部屋のような場所に円盤状の何かがある。

 それが、無数の石を並べてあるものだと入る前に、知識として知っていたのだけど、それをわかりながら、だけど、その情報と、実際に目の前に、石が並ぶのを見ると、その情報の中だけではおさまらない、戸惑いのようなものを感じるのは、石がそれぞれ、いろいろと違う過程を経て、微妙に違うことを、見ていると、いやでも伝わってくるかもしれない。

 さらには、その無数の石を作者が自分の手作業で並べている。

 作家が、長く続く石材店の子孫であることも、見る側が、そこに意味をさらに乗せてしまうことも、鑑賞者の見方に影響を与えているのかもしれない。

 

 そして、中島祐太はワークショップを体験させてくれた。

 土曜日の夕方のせいなのか、音楽のイベントがなかったせいなのか、入場者が少ないせいで、そのワークショップもあまり待つことなく体験ができた。

 それは「かつて鉱山で働いていた朝鮮人労働者のエピソード」(「アーティストノート」より)を元にしたワークショップだった。

 少し暗くなっている場所で、ノミとハンマーを使って大きな岩を砕き、その破片を砂にしていく。その体験をさせてもらうのだけど、岩が大きくて、おそらくどれだけ力を入れても、少ししか削れない。

 その頑丈さは、ちょっと怖いくらいだった。

 もちろん、これだけの体験で、わかったようなことは言えないけれど、鉱山の労働はとんでもなく大変だったことは、今までよりも少し想像ができる。そして、この大きい岩を運ぶのも大変だったとは思うのだけど、このワークショップは、この巨大さがなければ、印象も違ったはずだ。

 

 藤倉麻子、山田愛、中島祐太の3人の作品は、特に印象に残っている。

 

 この展覧会全体で、「スクイグル」というあまりにも広いテーマではなく、もう少し絞った、統一されたテーマのようなものを感じさせてくれたら、鑑賞後の印象はもっと違っていたとも思う。それに、ここにいる作家が、どうしてここに作品を出品しているのか。共通点は何か。そうしたことがもっと明確に打ち出されていれば、どうしてもバラバラになりがちな、こうしたグループ展全体で、さらにいろいろなことが伝わった気がした。

 試行錯誤を表すのであれば、机の上に資料を並べるよりも、もしかしたら、短くても制作途中の動画などがあったりした方がよかったかもしれない、などと鑑賞者は、勝手なことを思った。

 

 

 

 

(『現代アートとは何か』 小崎哲哉)

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『111年目の中原淳一展』。2024.6.29~9.1。渋谷区立松濤美術館

 

111年目の中原淳一

https://nakahara111.exhibit.jp

 

2024年8月29日。

 館内には、平日なのに、思ったよりも人がいた。

 展示は2階の会場からだった。

 

 中原淳一は、1913年生まれ。

 10代で自作の人形で注目を浴びて、活躍を始めたらしい。そういうことも、今回の展覧会を見なければ知らないままだった。

 若い頃から、才能を発揮していた人のようだった。それは、中原が影響を受けたという竹久夢二も同様に、独学で若い時から活躍していたことと重なるものの、それができる人はごく限られているのもわかる。

 私が知っている中原淳一は、戦後の「ソレイユ」の表紙絵に代表される、オードリー・ヘップバーンにも似ている女性だった。それは、戦後により西洋化が進んだ証のように思っていた。

 だけど、初めて見たはずの戦前の中原淳一の描いていた女性は、不思議なたたずまいだった。竹久夢二の影響も受けているのだろうけれど、でも、それとは違って、竹久夢二が、あくまで大人の女性を描いていたとしたら、中原は明らかにもっと若い女性、少女といっていい年齢の人物を描いていたし、それは、不思議な不安定さもあったから、どちらかといえばホラーの登場人物のようにも見えた。

 ただ、それが思春期なのだろうし、だから、戦前といっても、魅力的で、鮮やかで、ただ男性に依存するような姿には見えなかったから、10代の女性に人気があったのだろうと想像ができた。

 カルタや、ノートなど、そのデザインされたものも、手に入れて、そばに置いておくと、自分の毎日の暮らしが変わるような、ただピカピカに明るいわけではないのだけど、やはり希望を持たせてくれるような光を感じさせるものだった。

 あの時代に、こんな美しいものを享受していた人たちはいるはずで、それは、やはり豊かな層が中心だったのかもしれないが、雑誌などを通して、こうした作品を発表し続けたということは、より広く届けようとしていたような気がする。

 戦争とは縁遠く見える作品で、気持ちが浮き立ち、そこに魅入られてしまうような魅力もあるから、観客の想像通り、太平洋戦争が開戦する前年の1940年からは、軍部の圧力があったせいか、表立って仕事をしなくなったらしい。

 この作品が目に触れなくなったら、それは、ある種の豊かさを排除した、ということにはなるのだろうけれど、毎日が暗くなってしまうのに、とは思った。

 それでも、その時代のことは知らないし、中原は1933年に20代を迎え、そこからの10年以上を戦争が激しくなってくる時代になるから、早くに才能を認められ発揮し始めたのにやっぱり残念というような言葉で表現できないくらい、無念さは深かったのだろうと、想像するしかない。

 こんな歴史を持つ作家であることを、恥ずかしながら、これまで全く知らなかった。

 

戦後の太陽

今出来る事、今着られる服だけをのせていたら、

この『ソレイユ』の存在価値はない。

こんな本はくだらないと言われるかも知れない。

お腹の空いている犬に薔薇の花が 

何も食欲をそそらない様に。

然し私達は人間である!!

窓辺に一輪の花を飾る様な心で、

この『ソレイユ』を見ていただきたい。

 

 展覧会の第1会場に入る前の壁面には、『ソレイユ』創刊号の中原淳一による編集後記の、こうした言葉↑が掲げられている。

 

 ただきれいとか、可愛いとか、少し心が浮き立つようなことなどを、こうやって主張したのが、1946年に『ソレイユ』という女性誌を創刊した時だったのを知ると、その信念は本物だと改めて気づかされる。

 今まで知らなかった人間が言う資格はないのだけど、1945年が終戦だから、まだ1年後、多くの人がまだ飢えていたような時代に美しい暮らしを主張することが、どれだけ覚悟がいることだったのかを想像すると、それはすごいことだと思う。

 それも、これまで『ソレイユ』は、私にとっては、戦後にいち早くおしゃれな女性誌として創刊された、というような知識しかなかったし、確かに、そのような側面は間違いなくあったのは、今回の表紙に中原によって描かれた女性は、あこがれを集められる存在なのを見ると、わかる。

 ただ、今回、私にとっては初めて知ったことだけど、1948年頃の『ソレイユ』には、まだ生活が貧しいことを前提にした記事も少なくなかったようだ。

 空いたビール箱(当時は木製)を使って、塗装することによって、かわいく使える。押入れも、工夫しだいではおしゃれな勉強空間にできる。掘りごたつでその熱源はまだ木炭を使っていたとしても美しい部屋にするのは可能。洋服も古くなった服の生地をアップリケのように使えば、すてきになる。

 そんな、いろいろなことがまだ不自由なはずの時代に、その中でも、生活の中の美しさを諦めてほしくない、といったメッセージが、そうした記事の中にこめられているようだった。そうした暮らしの中にいるのは中原淳一の描くような女性だったから、魅力的な人がいたら、それだけで生活は明らかに輝くのだけど、それだけでなく、あこがれの暮らしは、知恵と工夫と美意識で可能になるとも伝えているようでもあった。

 そういう信念の人であったのを知らなかった。

 

 生活を照らす戦後の太陽として『ソレイユ』は存在し続けたのだろうし、会場には、『ソレイユ』を若い時に読んで、その光を浴び、あこがれていたと思われる女性も多くいたようだった。

 地下1階の第2会場には、中原淳一がデザインしたファッションも並んでいた。生活すべてに関わるすべてのことに美しさを持ち込もうとしていた人なのだと思った。

 中原淳一は、会場の説明によると、過労によって心臓の発作を起こし、その時期は、40代の半ば。今の40代よりは年齢的には晩年に近いとも言えそうだけど、とはいっても、まだ活躍できそうな時に病いに倒れ、その後も、療養生活が長くなったりしてしまい。バブル前夜の1983年に70歳で亡くなった。

 自分が美しいものが好きなのは前提としても、そのことを戦後直後から、まるで使命感のように社会を美しくすることを続けてきて、それを達成した人なのは、この展覧会だけで分かったようなことを言うのもちょっと恥ずかしいのだけど、そんな人間にも伝わってきた。

 来てよかった。

 本当に知らないことばかりだった。

 

 

 

『111年目の中原淳一』 

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「武井武雄 展 ~幻想の世界へようこそ〜」 目黒区美術館。2024.7.6~8.25

2024年8月21日。

 気温が高い時は、目黒駅から10分くらいはかかるので、歩くと体力を消耗しそうだから、と思い、バスを使う路線を調べたら、中目黒駅からのルートがあった。

 それで妻とも相談し、その路線のために中目黒駅で降りて、改札を出て、街を見るたびに、どんどんオシャレになっていく風景を見ながら、昔はこんなじゃなかった。特に線路下は、なんだかきれいと言えない居酒屋が並んでた、みたいな話をしながら、道路を渡り、初めていくバス停に向かって、いつ来るかわからない不安と共にバスを待つ。

 それほど待たないでバスは来て、そして、それほど長く乗らないで、初めてのバス停でバスを降りる。自分にとっては見たことがない光景だった。ラーメン二郎がある。妻は、大丈夫、このへん、近いと思う、と言ってくれたので、少し歩いたら、目黒区美術館を指し示す看板があった。

 目黒駅から来る方向とは全く逆だったので、わからなかったが、とにかく、無事に着いた。

 平日なのに、人が思ったよりもいた。

 

生誕130年 武井武雄 展 〜幻想の世界へようこそ〜

https://mmat.jp/exhibition/archive/2024/20240706-428.html

(「目黒区美術館」サイト)

 

 幻想の世界へようこそ。

 そういうサブタイトルがつけられていたが、チラシがこけしだったので、ちょっとピンと来なかったものの、「童画」と言われた絵画作品を見ていくと、その印象は変わった。

 それは幻想、という表現をするしかないとは思うけれど、武井武雄自身が、魅力的だと思う世界を見る人間に、そのたびに新しく提出するような作品だと思った。

「童画」と名付けられているし、主に子ども向けの雑誌の挿絵として使われていたはずだけど、絵の密度は高く、しかも3次元を技術を使って描くというよりは、あくまでも2次元の完成した世界を見せて、その上で、そこで楽しめるような作品だと思った。

 子ども向け、ということにとどまらず、それは、もちろん勝手ながら自分の好き嫌いはあるとしても、魅力的な作品が多かった。

 特に、キャプションを見ると、かなり晩年に描かれた絵画は、背景も複雑な質感になっていて、登場している妖精も魅力的だった。

 こうした作品を戦前から戦後にかけて、ずっと描いていたことを考えると、改めてすごいと思ったし、妻は、こうした作品を覚えていて、だから見に来たいと思ったらしい。自分自身も、おそらくどこかで見ているはずで、そして、これだけの質の高さがあるのだったら、気がついたら自分も影響を受けている可能性も低くない。

 自分が知らないだけで、「童画」と言われる世界で、こうした意味のある仕事をしている人がいることを、恥ずかしながら初めて知った。

 

 武井武雄が、この「童画家」を目指した動機ははっきりしているようだ。会場にも、図録にもこの経緯が説明されている。

 東京美術学校(現 東京藝術大学)を卒業し、洋画家を目指し精進していたが、結婚し、生活のためもあって、雑誌の挿絵を依頼される。

 

当初は武井もアルバイト気分であったが、半年ほど描いているうちに、多くの画家たちが片手間で、絵自体は上手なのだが、子どもの魂に触れるようなもの、精神的な感動を引き起こすものがないことに憤りを覚えるようになった。そこで彼は自ら反省し、アルバイト根性で行っていたことを180度転換し、“男子一生をかけて子供のために自分の能力をささげても、これは男子として恥ずかしくないことだ”と童画家と云う道を邁進することを決意する。

            (『武井武雄  幻想の世界へようこそ』より)      

 

 それが大正時代の中期だったのだけど、昭和に入った1927年には童画家の地位向上を目指し、日本童画家協会を結成している。

 その協会のメンバーが揃っている写真も会場に飾られていた。

 武井以外は、カメラをにらむような表情で、怖い雰囲気もある。ただ、この時代に「童画会」を結成した画家が、どのように見られていたのかを想像すると、今では考えらないくらいの侮蔑的な態度をとられていた可能性もあるから、それに対しての戦闘態勢と考えると、この写真に満ちている「イキリ」の気配も納得ができる。

 ただ、その中で武井だけが視線をこちらに向けていない。そして、おそらく、この「同化会」のメンバーの中で、いろいろな運に恵まれていたかもしれないが、最も長く「童画家」として活躍し続けていたのは、武井ではないかと思うと、また不思議な気持ちにもなる。

 

刊本作品

「童画家」も、それほど確立された肩書ではなかったはずだけど、武井武雄が戦前から戦後も費やして、磨き上げて行ったように見える。現実ではない夢の世界、という描き方ではなく、武井にとっては「実在」するような世界として描かれているから、ただ柔らかかったり、夢のある世界という印象ではなく、そして、他にはないような独特な世界でもあるようだ。それは、他の作家と見比べた上で、妻が話してくれた。

 同様に、最初は豆本といわれていたものを「刊本作品」という造語も自ら提案しながら、「本」を美術作品にしていったのだけど、そのことを、これまで全く知らなかったが、それをもったいないと思えるほど、展示のためにガラスケースに並んだ「刊本作品」は美しかった。絵画が織物になっていたり、陶器が使われていたり、「本」という形式をとった美術作品のようだ。

 こうしたすごい作品を、これまで全く知らなかった。

 この「刊本作品」も、会場の説明や図録にもあったのだけど、自身も政策に関わった「創作玩具展」で、来館者への御礼として制作された小冊子が始まりだった。

 

 当初は展覧会に興を添える程度のつもりであったが、最終的には亡くなる直前まで、全139作品が作られ、武井のライフワークとなった。

               (『武井武雄  幻想の世界へようこそ』より)   

 

 童画も最初はアルバイト感覚であったのが、子どもの魂を揺さぶるような作品にしなければ、と取り組み始めたり、「刊本作品」も最初は来館者への御礼のつもりだったのが、その制作過程も、会場には書かれていたが、本当に心身を削るような「作品」になっている。

 武井は、ある意味では偶然に身を任せつつも、その自分の偶然に対して、自分の使命のようなものを見つける力があり、それに一生を賭けてしまうような素直さがあることに、やはり凄みとともに、不思議な人だという印象にもなる。

 

「刊本作品」を前に。

 という写真が展覧会会場にあって、それは文字通り多くの「刊本作品」を前にしている武井がいるのだが、最初は喜びなのかと思って、よく見ていると、そこには悲しさや、虚しさや、あきらめのような表情まで混じっているように思えた。

 もちろん個人の印象に過ぎないし、単純に写真を撮られ慣れていないか、写されるのがあまり好きではないことで、そうした悲しさのような感情があるように見えただけかもしれない。

 ただ、自分の才能と手間と時間を、あまりにも膨大に、この「刊本作品」に費やしたことを、多くの実物を目の前にして、その記憶のようなものが押し寄せてきて、ちょっと呆然としている。

 それでも、写真は、そんなふうに見えるほど、目黒区美術館で見た「刊本作品」は圧倒的に見えた。

 この「刊本作品」について、こうした説明がある。

 刊本作品という名には、「本という形式と素材によって表現する美術」の分野を確立したいという武井の強い願いが込められている。

 戦後、武井芸術やこの刊本作品を愛する人々が中心となり、“刊本作品友の会”が結成され、刊本作品を入手するには、この会に所属する必要があった。美の追求のため、利益を考えずに原価で会員のみに頒布するという武井の方針もあったので、刊本作品を第三者に売買してはならないなど、会員には厳しい規則が課せられていた。また300人の正規会員になれずに空きを待つ“我慢会”や“スーパー我慢会”も存在していた。

(中略)武井は「会員は家族」という意識のもとに分け隔てなく交流した。ゆえに自らを含め、会員たちは「親類」とお互いを呼び合っていた。

 新作の刊本作品が完成すると刊本作品の解説や交流を目的とした頒布会が開催され、親類へ感謝の気持ちを込めて記念品の贈呈なども行われた。

                  

                  (『武井武雄  幻想の世界へようこそ』より)

 

 こうしたことを知ると、武井にとって「刊本作品」は、作品以上のものだと感じるので、本当だったら美術作品として原価ではなく、もっと作品としての価格設定をした方が、その後、こうした作品を制作する人たちにとってはプラスだったかもしれない。

 さらには「刊本作品」が、原価でなく美術品としての価格で武井が販売してくれていた方が、紙の出版物の存在意義が薄くなっていくこれからの時代もモデルケースとして成り立ちやすかったかもしれない。

 だけど、展覧会で、いろいろな作品を見て、文章を読んで、考えると、武井武雄にとっての優先事項は、みんなが仲良くしている平和な世界だったのではないか、と思うと、「刊本作品」を原価で頒布する友の会は、武井にとっては、とても正しいことだったのではないかとも思えてきた。

 

 そうしたことまで考えられたので、来てよかった、と改めて思えた。
 
 
 
武井武雄  幻想の世界へようこそ』

森万里子 「古事記」。2024.6.8~7.27。SCAI THE BATHHOUSE 。

2024年7月13日。

 20数年前に、最初にきちんと見た、現代美術の展覧会で、急にアートに興味を持てたのだけど、そこにも森万里子は作品を出していたから、その時に、軽さのようなものを感じた。

 それから、時々、作品を見てきたけれど、ずっと第一線にいるアーティストであるのは間違いないようだった。

 

 今回、久しぶりに個展を見に行った。

https://www.scaithebathhouse.com/ja/exhibitions/2024/06/mariko_mori_kojiki/

(「SCAI THE BATHHOUSE」サイト)

 

考古学から最新の物理学、あるいは仏教の唯識論まで、幅広いリサーチを通じて私たちを取り巻く見えない世界に形を与えて来た森万里子。90年代半ばより活動を開始し国際的なアートシーンで注目を集めた森は、現代美術家としての実践をより精神的な領域へと移行し、我々の生が到達しうる新たな次元の可能性へとその関心を注いでいます。本展「古事記」では、神代の創世神話から着想を得た作品群によるインスタレーション、および本年度ベニスにて公開される新プロジェクトに関する展示が発表されます。

                      (「SCAI THE BATHHOUSE」サイトより)

 AR体験もあったのだけど、時間のこともあって、予約ができず、そして、久しぶりに森万里子の作品を見た。以前よりも完成度は上がっているように思えた。ARは体験できなかったけれど、ギャラリー内の映像で、概要はわかった。

 今も、軽さのようなものは感じさせてくれて、それは、おそらく意識的にそうしているのだろうけれど、森万里子の作品を見ていると、「プラスチックの神」というような言葉が浮かんだ。

 その一貫性はすごいのかもしれない。

『ホー・ツーニェン エージェントのA』。2024.4.6~7.7。東京都現代美術館。

 

2024年7月4日。

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/HoTzuNyen/

東京都現代美術館サイト 『ホー・ツーニェン エージェントのA』)

 

 映像作品は、全部で8作品。

 それも、3つの展示会場で、時刻によって、映写時間がかわるので、どうすれば全部見られるかと考えたが、そういう作業に関しては無能なので、とにかく見ることにする。

 最初は、時間をテーマにしたものだった。

 

ホーの最新作で新たな展開ともいえる《時間(タイム)のT》(2023年)では、ホーが引用しアニメーション化した映像の断片が、アルゴリズムによって、時間の様々な側面とスケール—素粒子の時間から生命の寿命、宇宙における時間まで—を描き出すシークエンスに編成されます。それらが喚起する意味や感覚は、時間とは何か、そして私たちの時間の経験や想像に介在するものは何かを問いかけます。

                   

                  (「東京都現代美術館」サイトより)

 あらゆるエピソードが組み合わされ、だから、そのストーリーのようなものを追うのは諦めたとしても、全部みると60分かかる。標準時刻を表示している時計か何かを破壊しようとして、失敗した人がいる、といった事実も初めて知った。

 他にも、おそらくは知らない出来事や、フィクションも含めてアニメーションで制作されていて、どこかへ連れて行かれるような気持ちになりそうにもなったけれど、全部を見てしまったら、他の作品が見られなくなるのでは、とも思ったので、半分くらいは見たと思う。

 

3Dアニメーションを用いた《一頭あるいは数頭のトラ》(2017年)では、トラを人間の祖先とする信仰や人虎にまつわる神話をはじめ、19世紀にイギリス政府からの委任で入植していた測量士ジョージ・D・コールマンとトラとの遭遇や、第二次世界大戦中、イギリス軍を降伏させ「マレーのトラ」と呼ばれた軍人山下奉文など、シンガポールの歴史における支配と被支配の関係が、姿を変え続けるトラと人間を介して語られます。

                    (「東京都現代美術館」サイトより)

 この作品は、チラシなどでのメインビジュアルになっていて、あのトラは、この作品で出てくるのかとわかる。ただ、ものすごく壮大で、宇宙を連想させるような映像や、スローモーションも多用されていたのだけど、イギリスとシンガポールとの関係性のことを考えたり、ヨーロッパのアジアの事情を軽視している感じとか、だから測量中にトラと遭遇してしまうではないか、などとも思ってしまったのだけど、こうした事実自体を、この作品を見るまで、恥ずかしながら、全く知らなかった。

 そして、過去になったといえ、知らなかった歴史の細部をこれからでもわかって行くことで、歴史の見え方が違ってくるし、それは、現在の世界への感じ方自体にも影響を及ぼしそうな気持ちまでしてくる。

 それは書物などで読む経験とは質が違って、現在性が高いようにも思えた。

 

日本の歴史

 今回の展覧会ではVRも体験できた。それも前もって予約をすれば、入場料を払えば誰でも利用できるものらしい。

 それで、あわてて予約もした。

 そのテーマは、日本の戦中の京都学派といわれる人たちの思想だった。

 

《ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声》(2021年)を展示します。VRと6面の映像で構成された本作では、西洋主義的近代の超克を唱え、大東亜共栄圏建設について考察した京都学派の哲学者たちの対話、テキスト、講演などが現前します。VRでは、戦争の倫理性と国家のための死についての議論が行われた座談会から、西田幾多郎の「無」の概念を象徴する抽象的空間まで、京都学派の思想と哲学者たちの主観性を体現する空間に没入することができます。

                    (「東京都現代美術館」サイトより)

 

 明治以来、脱亜入欧を唱え、その上で、西洋を越えようとしていたのが、昭和の戦前の日本だったことは、なんとなく知ってはいたけれど、こうしてアニメーションを使って、その当時の哲学者が、獄中で亡くなったことなどを、をかなり明確にイメージできたような気がした。それは、過去というよりも、今起こっていることのように感じた、ということだった。

 特に、大東亜共栄圏を思想として唱えて、それが実際に戦争が始まる、という形になってしまった時代に、雑誌の座談会として、その思想を語り合うような企画にVRで筆記係として参加して、なんというか、戦争を始めた国で、しかも最初は勝っていたとすれば、それは想像しにくいほどの高揚感もありそうで、その上、自分たちが唱えていた思想で世界を変えて行くような万能感すらあったのではないか、という感覚になった。

 ただ、それはVR体験にもあったように、立ち上がれば空高くに舞い上がり、どこかで特攻隊を連想させる言葉が耳に入ってくるし、寝転がれば衛生的には最悪といっていい環境の監獄に落ちてしまうような危うい場所でもあったのだろうというようなイメージもできた。

 それは、歴史史実的には厳密さに欠けるとは思うものの、あの時代に、どうして戦争に進んでいってしまったのか、といったことは、ただ空気のせいにするだけではなく、もっと具体的に細部を考えて行かないと、知らないうちに、また同じような、だけど、決して同じには見えないように一見、冷静そうで賢そうで他に選択肢がないかのような場面がやってきて、また誤った判断をしてしまいそうな気がした。

 だから、歴史というものは、もっときちんと振り返って、そして、その具体的な出来事を通して、体験しないと分からないのだろうと思った。

 

 VRも含めて、見に来て良かったとも思えた。

 

 

『ホー・ツーニェン ヴォイス オブ ヴォイド ー 虚無の声』

https://amzn.to/3WLLbDD

 

 

『翻訳できない わたしの言葉』。2024.4.18~7.7。東京都現代美術館。

 

2024年7月4日。

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mywords/

東京都現代美術館サイト)

 

 いつもは日本語を話している。

 これまで海外に滞在した経験は、トータルして2ヶ月くらいしかないから、他の言語に囲まれたようなこともほとんどない。

 だから、日本語という言葉を発して、それで会話をすることはあまりにも当たり前で、言葉そのものよりも、その言葉の限界とか、そこにこめられた想いのようなものを感じるようなことばかりをしている、ように思う。

 

 妻と二人で義母を介護しているときは、耳が聞こえなくなった義母を相手に、普段は唇を読んでもらったり、表情でなんとなく伝わるけど、その動きを少し大きくしていたと思うが、少しでも複雑なことを伝えようとするときは、筆記ボードなどで文字を書いて、伝えていた。

 そのとき、義母は、こちらの伝えたいことを「聞きたくない」ときは、筆記ボードに書いても、それを目にしないように、目をつぶって、聞きたくないという自分の意志を伝えようとしていたのだろうけれど、勝手なことだとも思うが、こちらはいら立つ。

 そんなこともあったのを、この展覧会を見て、思い出したり、そのことについて、考え抜くまではいかなくても、そのことを考えたりもした。

 だから、この展覧会は、それぞれの作家が、自分に深く関係していることを、その人にしか伝えられないことを、作品にしていた。だから、その空間にいるときは、受け止めきれないような思いにもなった。

 ただ、ある意味では、その強い表現だったから、こうして展覧会が終わって、時間が経っても、思い出すと、そのときの感じが蘇る。

 

5人のアーティスト

世界には様々な言語があり、一つの言語の中にも、方言や世代・経験による語彙・文法の違いなど、無数の豊かなバリエーションがあります。話す相手や場に応じて、仲間同士や家族だけで通じる言葉を使ったり、他言語を使ったりと、複数の言葉を使い分ける人もいるでしょう。言葉にしなくても伝わる思いもあります。それらはすべて、個人の中にこれまで蓄積されてきた経験の総体から生まれる「わたしの言葉」です。他言語を学ぶことでその言語を生み出した人々の文化や歴史に触れるように、誰かのことを知ることは、その人の「わたしの言葉」を、別の言葉に置き換えることなくそのまま受けとろうとすることから始まるのではないでしょうか。

 

この展覧会では、ユニ・ホン・シャープマユンキキ南雲麻衣新井英夫金仁淑の5人のアーティストの作品を紹介します。彼らの作品は、みんなが同じ言語を話しているようにみえる社会に、異なる言語があることや、同じ言語の中にある違いに、解像度をあげ目を凝らそうとするものです。第一言語ではない言葉の発音がうまくできない様子を表現した作品や、最初に習得した言語の他に本来なら得られたかもしれない言語がある状況について語る作品、言葉が通じない相手の目をじっと見つめる作品、そして小さい声を聞き逃さないように耳を澄ませる体験などを通して、この展覧会では、鑑賞者一人ひとりが自分とは異なる誰かの「わたしの言葉」、そして自分自身の「わたしの言葉」を大切に思う機会を提示したいと思います。

             (「東京都現代美術館サイト」より)

 

 これは、展覧会のサイトにあるステートメントだけど、本当にこの通りの展示だった。だから、問題は、それをどこまで受け止められるか、感じ取れるか、理解できるか、という観客側にかかってくるのは、わかる。

 そういう展覧会は、やはり微妙な緊張感がある。

 

 最初の作品は、ユニ・ホン・シャープの映像。

 まだ「女の子」と言っていい年齢の女性が、こちらを向いて話をしている。

 それは、母親であるアーティストが、フランス語を母語とする娘に、フランス語の発音を習うという短めの映像だった。

 母語でなければ、正確な発音は難しい。だけど、だからといって、正確でない発音での言葉は、言葉ではないのか。みたいなことを伝えようとしている作品でもあったようだけど、それは、日常的に使う言葉が変わって行くような事情がある人にとっては、本当に切実な話だと思う。

 他の4人のアーティストも、それぞれ、違う視点から、他の人とはちがうかもしれない「わたしの言葉」について作品化しているようだった。

 

言葉で説明できにくい気持ち

 アイヌをルーツに持つ作家・マユンキキが、でも、身近にアイヌ語があったわけでもなかったのだけど、それを大人になって学び始め、そのことで感じたいろいろなことを、同様に、言葉を選び直すような経験をしている人と対話をしているような映像。

 さらには、作家本人がいるスペースに入るときは、署名をして、尊重を前提として、鑑賞するような体験。

 

 日本に移住したブラジル人の子どもたちが通う滋賀県の学校で撮影されて、その日常の光景。金仁淑の映像作品。そして、その子どもたちは、大きめの映像として、こちらをじっと見つめてくる。

 

 体を動かすことを表現手段として活動を続けているアーティスト。そのことをワークショップを通じて広げていく。ALS発症後も、活動を続ける新井英夫。この日は、作家本人は会場にいなかったが、もし、ここにいたら、またいろいろなことを感じたはずだ、とも思う。

 

 さらに、南雲麻衣の映像作品。

 作家は、3歳半で失聴し、その後、人工内耳を埋め込み、音声日本語を母語とし、大人になってから手話を知る。そうした中で、南雲は「音声日本語」が母語であり「日本手話」を第一言語と認識している、といったプロフィールも、この展覧会で初めて知る。

 映像は、相手によって、言語が変わる様子だった。

 特に母親と「音声日本語」を使って会話している様子には、なんともいえない緊張感があった。

 ハンドアウトには、こうした作家の言葉があった。

 

『家に帰ると私は音声言語で話しますから、母は手話を見てないと思うんです。手話を使っていることを話すと、「へえ〜、手話って言うんだ」みたいな反応ですね。でも大学2年生のとき、ろう者で映画監督の今井ミカさんからのお誘いでヨーロッパに行き、向こうのろう者たちと会ったんです。それまでは音声と手話を切り替えたかれど、その2週間の旅のあいだは手話漬けでした。でも、帰国して母と会い、楽しかったと話すと、発音の能力が落ちたと言われたんです。そのときの母の表情をいまでも覚えています。なんとも神妙な面持ちというか……。母よりも父のほうが心配していて、「手話のせいか」みたいな反応がありました。やっぱり親たちは聞こえる人で、私とは違うんだと実感しました。自分の人生は自分で決めると言ったのを覚えています』。

                 (会場ハンドアウトより)

 

 こうした大事で、だけど、もしかしたらとても伝えにくいことを形にしてくれて、なんともいえない気持ちにもなったし、南雲麻衣という人へ感謝するような思いにもなった。

 

 そして、5人の作家も誰もが伝わりにくいことを、伝えようとしていることを改めて思った。

 

 

 

 

『現代美術史』 山本浩貴

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