アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

『梅津庸一 エキシビジョンメーカー』。2024.5.12~8.4。ワタリウム美術館。

2024年6月22日。

http://www.watarium.co.jp/jp/exhibition/202405/

(「ワタリウム美術館」サイト)

 

日々、おびただしい数の展覧会が開催され続けている。即時性と話題性が常に求められ、みな自らの「独自性」を主張し差異化を図ることに必死だ。しかし、残念ながらその多くの営みは既存のインフラの上で平準化されたコンテンツとして消費され忘れ去られていく。そんなサイクルが固定化しつつある。無論、美術家である僕もその渦中でもがき続けてきた。
 
身もふたもない話で恐縮だが、この悪循環から脱するためには「作品をつくる」あるいは「展覧会をつくる」とは何か?そんな素朴で単純すぎるかもしれない問いから再出発するほかないのではないか。


本展はワタリウム美術館の前身であるギャルリー・ワタリ時代の「知られざるコレクション」を軸とした展覧会だ。ワタリウム美術館にはいつも制度化される以前のアートの気配が漂っている。それは「未然のアート」と言い換えることもできるだろう。
 
ところで、展覧会を企画することを「キュレーション」と呼ぶようになって久しい。けれども、昨今の「キュレーション」の流行により展覧会づくりの方法や落とし所はあらかじめ規定・拘束されるようになった。
 
そこで、本展ではアーティストキュレーターとして振る舞うのではなく「エキシビションメーカー」の

精神に立ち返りたいと思う。いま一度、美術のいち観客でもある自分が見たいと思える展覧会と出会い直したい。

作品同士が、そしてなによりも「あなた」とこの展覧会が良い出会いとなれば嬉しい。

梅津庸一

                     (「ワタリウム美術館」サイトより)

 

 これが梅津陽一のステートメントとして美術館のホームページにも、展覧会の告知のためのチラシにも書かれている。

 こうしたどこか青臭いような文章は美術関係のメディアではよく見かけるような気もするが、そうした表現とは少し違って、自分をすごく見せようという意識は薄く、伝えたいことに対して、もっと真面目で本気で切実な気がするのは、その作品や、個展や、トークショーなどで、梅津の作品や言葉に接してきたから、観客として勝手にそう思い込んでいただけかもしれない。

 だから、やっぱり行きたくなった。

 

 美術館やギャラリーは、基本的には白い壁で囲まれているところが多く、それは作品に対して何かしらの影響を与えないためで、ホワイトキューブと言われていることは知るようになったけれど、今回の展示では、絵の具が、それも手作業の跡がわかるように垂らされていることで、客観的に作品を並べました、というよりは、誰かが選んでいる、といった意図がより伝わりやすいように思う。

「第1章 カスケードシャワー」。

 2階の展示室には、パッと見ると、どの時代に制作されたのかはわからない作品が並ぶ。

 そして、自分がそれほど知らないだけなのだろうけれど、初めて目にするアーティストの作品も多い、

 版画作品も目につくし、多くは平面の作品が並んでいるが、中にはかなり昔の作品では、と感じるものもあって、だけど、逆に今の作品に見える時代的にはかなり前の作品もある。

 どこで読んだか忘れてしまったのだけど、梅津は、今回の展覧会で、ワタリウム美術館になってからは展示されたことのない収蔵作品を中心にしている、と言っていたような気がしていて、だから、それ以前のギャラリーのときには訪れたことがない私のような人間にとっては初めて目にする作品も少なくないはずだ。

 ただ、そのときに、その時代の新しさ、というか、まだ見たことがないものを表現しようとしているのは、おそらくいつも同じだから、古い作品といっても、そこにあれば、その時間的な遠さとは関係なく、いろいろなことが伝わってくる。

 収蔵されているけれど、ずっと人の目に触れていない作品。さらに、最近の作品。もっと新しい作品。

 考えたら、時代が違ったといっても、同じような場所を目指していたかもしれない、などと思ったりもする。それは、前もっての情報として、どんな作品が今回展示されているかをある程度知っているから、より感じられたのだと思う。久しぶりに人の目に触れる、ということはどういうことなんだろう、とさらに考えさせられたりもした。

 

 次の「2章 眠れる実存たち」また周囲の壁の色をかえている。確かにそれだけで、なんとなく気持ちも変わる。

 そこで印象に残ったのは、今回は少なかった立体というか、インスタレーションだった。大きいベッドの上に人形や、アルコール飲料の空き缶や、食べ物の袋が散乱している星川あさこの作品で、ここに横たわっているのは、「アルコール中毒の入院患者」と作家が表現しているらしいが、こうして立体作品は、あるだけで存在が確かに強いと思う。

 

 ワタリウム美術館の特徴というか、ロフトのように少し狭めのスペースが3階の展示室になる。そこからは、天井の高い2階の展示室も見えて、角度や高さが違うと作品の印象が微妙に変わったりもする。

 そこには「3章 あたらしい風」というタイトルの元に並べられている作品がある。

 知っている名前、知らない人、どれも感情移入のようなものができそうな作品が多くて、だから「キャラクター」のようなことがテーマになっているのだろう。

 その中で、「息継ぎ」という作家を全く知らなかったけれど、とても魅力的に見えた。まったく関係がないのに、自分が見たような気がする光景に思え、さらに、すごく風通しがいいように思えたのは、本当に今の時代の人の作品のせいだろうか。今から、年月が経ったら、また違って見えるのだろうか。

 時代によって、観客の見る目そのものが違ってくる。それで作品は一緒でも変化することはあるのかもしれない。

 

 4階に上がる。

 そこには版画が中心に展示されているようだ。

 ただ、その作品のキャプションなどを読むと、それぞれの作家の影響や、中には梅沢和木と、その父親・梅沢和雄の作品までがあり、梅沢の作品は、父の作品も含めての新作が展示されている。

 ただ、血縁関係、というだけではなく、先行する世代が、そのあとに続く世代に影響を与える、のは当たり前のようで、不思議なつながりでもあるのだけど、それで、作品はだんだん豊かになっていくのだと思った。

 梅沢和木の作品は、やはりシンプルに美しいと思うし、デジタル時代のイメージをかなり明確に伝えてくれているように思ったし、もう10年以上前に本格的にデビューしていて、その頃は、もっと梅沢のフォロワーのような作家が増えると思っていたけれど、でも、梅沢以外に、梅沢らしいアーティストは出現しなかった、と感じている。

 それでも、梅沢の作品を引き継ぐ次の世代が、自分が知らないだけで出てきているのだろうと思った。

そんなようなことをあれこれ考えながら、作品を見ることもできて、穏やかだけではない、刺激的だけでもない、充実した時間だった。

 

 

 

 

(梅津庸一  作品集『ポリネーター』)

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