アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』。2024.3.12~5.12。国立西洋美術館。

『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』。2024.3.12~5.12。
国立西洋美術館

2024年3月27日。

https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023revisiting.htm

(『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』サイト)。

この展覧会は、国立西洋美術館においてはじめて「現代美術」を大々的に展示する機会となります。こんにちの日本で実験的な制作活動をしている、さまざまな世代の20を超えるアーティストたちの作品が集います。

 

 

主として20世紀前半までの「西洋美術」だけを収蔵/保存/展示している国立西洋美術館には、いわゆる「現代美術」は存在しません。過去を生きた、遠き異邦の死者の作品群のみが収められているともいえます。けれども、1959(昭和34)年に松方コレクションを母体として開館した国立西洋美術館の成立前史の記憶を紐解いてみると、この美術館はむしろ、開館以後の時間を生きるアーティストらが所蔵品によって触発され、未来の芸術をつくってゆける刺激の場になってほしいという想いを託されながらに建ったということができます。しかしながら、国立西洋美術館がそうした「未来の芸術」を産み育てる土壌となりえてきたのかどうかは、これまで問われていません。

西欧に「美術館」という制度が本格的に誕生した時期とも重なる18世紀末、ドイツの作家ノヴァーリスは、こう書いていました。

 

 展示室は未来の世界が眠る部屋である。――

  未来の世界の歴史家、哲学者、そして芸術家はここに生まれ育ち――ここで自己形成し、この世界のために生きる。

 

国立西洋美術館は、そのような「未来の世界が眠る部屋」となってきたでしょうか。本展は、多様なアーティストたちにその問いを投げかけ、作品をつうじて応答していただくものとなります。            

(「国立西洋美術館」サイトより)

 

 これが、今回の展覧会の美術館側のステートメントだった。

 

https://www.nmwa.go.jp/jp/about/history.html

 (「国立西洋美術館」歴史)

 

 戦後にできた国立西洋美術館の完成までのいきさつを少し知るだけでも、戦争をはさんでの複雑な歴史や政治的な動きと無縁ではないだろうという予測はつく。

 基本的には、ずっと「美術の本場」の「西洋」の作品だけを展示してきた、といっていい、だから、この美術館の設立に関わった人たちの理想は、もしかしたら、この国立西洋美術館に一歩足を踏み入れたら、そこはヨーロッパ各国にあるアートミュージアムにいるような気持ちになることだったかもしれず、そう考えれば、今回、日本の「現代美術」のアーティストたちが展覧会を開くことは、やはり、思った以上の歴史的な意味があるかもしれず、何より、この展覧会をおこなったあとは、西洋美術館のあり方に影響が出るかもしれない。

 この展覧会の企画と実現を知った時から、そんな期待もしてしまっていた。

 

 上野駅で降りて、国立西洋美術館に入り、地下に降り、ロビーのようなスペースがあって、そこの壁には田中功起の映像作品が流れていて、広い平面のソファーに座って見ていた。保育士というケアのプロの方々が、仕事に関するいろいろなことを、社会的な環境は待遇など、大事なことなのに、おそらくは普段は話しにくそうなことを、とても率直に切実に話をしてくれる映像だった。それは、話をする側の勇気や覚悟も重要だけど、こうして話を聞くことができるアーティストの能力に、こうした作品の質はとても大きく左右されるから、田中の聞く能力の高さを勝手に感じていた。

 そして、ここにはおそらく臨時だと思われるけれど、託児所も設置されていて、そうしたことも含めて作品になるのが現代美術だと思った。

 

内藤礼

 この展覧会のサブタイトルが「国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」とあるので、展示にはテーマがあり、本当に問いかけのような形式になっている。

 例えば、「1、ここはいかなる記憶の磁場となってきたか?」は、その歴史の蓄積なようなものに関しての作品が並んでいるように感じたが、個人的に印象深かったのは内藤礼の作品だった。

 展示室から展示室への導線はなんとなくあるものの、「順路」というような文字も矢印もないので、その自然な流れからは少し外れていて、だから、もしかしたら見落とした観客もいるのではないか、という場所に内藤礼の作品が展示されている。

 それは、セザンヌの絵の隣に、ほぼ同じ大きさの平面だったけれど、ただ、何もない白いキャンバスにしか見えない。その前には、若い男性が、しばらくずっと立って見続けていた。とても注意深く見ると、そこにはわずかに色が見えてくるようだったのだけど、この作品についての詳しい説明などは、作家からはなかったようだ。

 これまで内藤礼の作品を見るたびに思っていたのだけど、決して親切とはいえなくて、何しろ、こちらから見ようとしなければ、分かろうとしなければ、何もない空間のように見えたり、ただの紙などに思えてしまうような物質を並べたりしているのだけど、他にはない場所になっていた。

 今回も、ややこじんまりとしていたスペースだけど、ただ、白い壁にセザンヌと、ほぼ白く見える内藤の作品が並ぶシンプルな空間だった。

 そこにそういう作品があるだけで、いろいろなことを思え、同時に何か少し力が抜けるような気持ちにもなった。

 

内藤礼はこのたび、国立西洋美術館ポール・セザンヌの《葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々》を見たのちに《color beginning》という一連の絵画のあらたな一枚を描いた。セザンヌの絵の記憶を残しながらに描くためではない。両者を比較してみるためでもない。ましてや影響関係などありはしない。内藤は、鑑賞者の見る経験/時間をつうじて生起してくる絵画のあり方において、みずからの描く《color beginning》とセザンヌの作品とのあいだに通底しあうものを見出したのではないか。

              (「展覧会インタビュー集」より)

 これは、展覧会場にもあったし、インタビュー集にもあった言葉だけど、これを読んで何かがわかったり、理解が深まったわけでもなく、正直、何を書いてあるのか全部を理解できなかった。もし、内藤の作品の横にセザンヌではなく、別の作家の全く違う作品、例えばクレーでもカンディンスキーのような抽象画があったとしても、この説明は成り立ってしまうように思た。

 ただ、こうした言葉を読み、内藤の作品の前に立ち、色が見えてきたような時間、その中で、どこかだまされているのでは、という疑念が少し起こってくるところまで含めて、内藤礼の作品なのだと思っていた。

 

西洋美術館という存在

『2、日本に「西洋美術館」があることをどう考えるか?』というテーマで二人の作家の作品が展示されていた。

 

 一人は、小沢剛

 個人的にはアート界のスターの一人であり、1990年代後半に見た小沢の「ジゾーイング」は、いわゆる「批評性」もあるし、とても優れた作品でありながら、サービス精神のようなものも感じて、好きだった。それは、当初は小さい地蔵のような立体を持って、世界各地に行って写真を撮る、とういうものが、だんだん紙に地蔵のような形を描き、それとともに撮影する、というもので、当時の歴史的に意味があるような、たとえば天安門での撮影には緊張感も写っていた。

 ただ、それは、現在、自分の推しのアクリルスタンドを携帯し、いわゆる聖地巡礼をして撮影された写真と、かなり近い意味を持つものだと思う。

 それから、小沢は様々な作品を制作し、森美術館で個展をおこなった時は、なんだか嬉しくて、こたつ布団を盛り上げた部屋を見て、なんだか喜んでしまっていたが、私が知っている以上に、アート界の第一線で活躍してきたのだから、想像できないほど、考え抜いてきたのだとも思う。

 そして、今回は藤田嗣治をテーマとしていた。

 藤田の作品も飾られている展示室には、小沢剛が藤田に扮して、戦前にフランスで脚光を浴び、日本に帰国してから戦争画を描き、そのことで戦後は、また日本を後にしてフランスに戻ったという、西洋と東洋だけではない様々なことを考えさせられるストーリーを画像にし、さらには映像作品にしていた。

 西洋中心主義というものを考えるときに、藤田嗣治は、本人が意識しているかしないかに関わらず、ある意味で象徴的な存在なのは間違いないように思えてくる。

 国立西洋美術館は、国立なのに、原則として自国の作家の作品は収蔵しないのが、特殊でもあることを、学芸員が自覚していることも、展覧会のインタビュー集を読むとわかる。

 ただ、これだけ徹底した西洋中心主義が、それほど表立って不思議に思われないのは、戦後も、日本がそういう社会だったから、とは思うのだけど、その重いテーマは、本来は、展覧会という形だけではなく、美術館側が主体となって、それこそ文章としてどこかに発表し、世に問い続けるべきではないかなどとも思ったが、それでも、こうしてこれまで縁がなかった現代美術作家の力を借りて行っているから、何もしないよりははるかにいいのかもしれない、などと思った。

 

 もう一人は小田原のどか

 小田原も、国立西洋美術館の在り方のようなものまで考えさせる作品を展示していた。

 この美術館ができたのは、戦後であり、だから、戦前からの転向のようなものを考えることもでき、その転向については、様々な文章の資料を扱うことで表現しているのだけど、そこに関しては、とても膨大で少ししか読めなかった。

 その展示空間で目を引くのは、横倒しになったロダンの彫刻作品だった。

 どうやら、小田原が注目したのは彫刻を展示するときにその足元にある免震機能のある台座だった、というようなことは展覧会のインタビュー集でも確認ができた。

 確かに西洋、特にヨーロッパでは地震が少ない。だから大地が揺れない前提で作品をつくり、保存されている場所と、地震が多発する国で、その西洋の作品を展示したり、保存したりするときには、本来は台座に必要なかった免震機能がつけられる。それ自体が、考えたら、少し変なことでもあるのは、こうして横倒しになった彫刻作品を見せられたりしなければ、考えたこともなかったことに気がつく。

 

飯山由貴

 美術館に来て、入場料を払って、作品を鑑賞する。今回は、2000円で、やっぱり高いと思いながら、展示室に入ると、どうしても自分の好みで作品を見る時間は変わってくる。当然ながら、人によって「いい」と思う作品は違ってくるし、鑑賞にかける時間も違いがあるはずだ。

 だから、「3、この美術館の可視/不可視のフレームはなにか?」という美術館の枠組みというか、つくりそのものを問うような展示室があって、そこに布施琳太郎や、田中功起の作品があった。

 特に田中の作品は、文章が多く、それは、この場合の必然だとは思うのだけど、ただその膨大さに気持ちがついていけなくなって、そのテーマに関しては、自分の理解が追いついていなくて、残念ながらあとになってもまだ感覚にも頭にも入っていない。

 そのあとの「4、ここは多種の生/性の場となりうるか?」には、私も知っていて、これまでにも作品を見てきた作家が揃っているように思えた。

 鷹野隆大、ミヤギフトシ、長島有里枝、それは鑑賞側の見方の問題でもあるのだろうけれど、それまでのその作家のイメージがあって、それとは違う種類の印象の作品も並んでいて、それは自分の理解の狭さのようなものだと思いながらも、すごく集中して見ることができなかった。

 

 ただ、この「4」のテーマの作家の中で美術館に来る前から個人的には気になっていたのは飯山由貴だった。

 かなりプライベートなことや、歴史の中で目を背けられてきたようなことを、静かな映像作品にしている印象があって、だから、2年前にも人権プラザという場所なのに、その作品が上演禁止になるようなことに巻き込まれているような感じもしている。

 それは、飯山の自身の作品への誠実さのようなもので起こっている出来事でもあると思ってもいたのだけど、同時にそれは社会自体が変化していて、だから、そのような立場に追いやられてしまっているだけかもしれない、とも思っていた。

 それは、今回の展覧会でも起こっていたようだ。

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/28608

       (「美術手帖」飯山由貴の抗議)

 

 恥ずかしながら国立西洋美術館のメインスポンサーが川崎重工だったことも知らなかったし、この抗議の内容のことも理解していなかった。だけど、自分が知らないだけで、社会はいろいろなところで関係していると思うと、改めて怖くもなる。

 ただ、その抗議という行動も、この国立西洋美術館の作品を並べ、その松方コレクションの由来なども含め、戦前からの歴史なども美術作品には反映もされているはずで、そうしたことも考えていけば、その行動にもつながっていくのは、展示を見ても納得はできた。

 絵画が飾られ、その周囲に、手書き文字で、その空いている部分を埋め尽くすように飯山の言葉がある。その展示で、その言葉全てを読む気力が続かなかったけれど、今回の川崎重工への抗議も、こうした美術館の歴史そのものを振り返り、掘り下げたら、そうなるのだろうとは思った。

 だけど、その行動までつなげるには、今の時代であれば、相当の覚悟と勇気が必要だったとは想像できる。インタビュー集を読むと、この2年間は、自分の作品が展示できなかったことに対しての正当な抗議というか、問いかけでもあるのに、その誠実な行動が、逆に作家の活動を制限させるとすれば、それ自体もやはりゆがんだ状況なのかもしれない。

 

弓指寛治

 弓指寛治というアーティストは、独特の存在だと思う。

 どうして、そう感じるのかといえば、まずいつも絵画を中心とした作品を展示しているのだけど、その画風で、弓指の作品とわかることだ。

 写真のようにリアル、という技法とは縁遠く、うまさが表面に出ているような絵画でもない。そして、どうやらとんでもなく長い時間を絵画制作に費やしている、ということも聞いたことがあるが、そんなオーソドックスな方法を続けていることも、映像作品も多くなっている現代では、特に少数派になってきている可能性もある。

 それだけの修練を積んでいるとはいえ、それがうまさとして現れているのではなくて、特に人物を描く時に、形として似ている、というのではないけれど、そこには、「こういう人なんだろうな」という説得力として、その工夫と努力が表れているのが、やはり、現代では他にあまりない存在にしているような気がする。

 そして、そのテーマも一貫していて、当初は自身の経験から「自殺」をテーマに作品を制作し続けていて、そうした重くて、だけど、とても大事なことから全く目を逸らさずに作品を制作し続けていくことは、敬意も感じるけれど、それだけ負担も強いから、ただの観客に過ぎないのに、勝手に心配するような気持ちになっていたのだけど、そのうちに弓指の射程はもっと遠くまで届くようになり、歴史上の出来事さえ、今そこに起こっていることのように描き始めたようだった。

 そういう作家も、今は、それほどいないはずだ。

 

 だから、いつの間にか、というよりは最初から、人間の生死を描いてきたし、今は、人が生きることそのものを表現する作家になっているように思うから、今回の上野公園にも以前はもっと多く住んでいた印象のある「路上生活者」をテーマにするには、確かに適任かもしれないと、美術館に来る前から感じていた。

 そして、展示室には、絵画、それも1年の間に一人の人間が描いたとは思えないほどの膨大な量の作品と、マンガのふきだしのように紙に手書きで書かれた短い言葉が、その絵画の周りに配置されていたり、四角い紙に状況を説明する文章が並んでいたり、この設置方法自体も、ありそうでなかった独特の方法なのだけど、美術館の中で文章に出会うと、例えば絵画のような視覚的な作品と別のもの、という印象になるのだけど、弓指の作品は、絵画と言葉が一体化し、その作品の没入感を高めている。

 さらには、この「ホームレスについて作品制作を」と依頼される時から作品になっていて、弓指の、それまで特に興味もないし、知り合いもいないし、というスタート地点から、それでもツテをたどって、山谷に行き、ボランティア活動にも参加することによって、そこに生活する人たちを紹介してもらったり、知り合ったり、ということにつながる。

 山谷の人たちを看護している訪問看護センターの人たちも描かれ、もちろん、山谷に暮らす人たちのことも描かれていく。

 

 弓指は、一人一人を、生きている人間として描いている。当たり前のことだけど、自然な敬意がなければ、できることとは思えない。さらには、一人の男性の話を、おそらくはかなりの時間をかけて聴き、その全くの他人であった年上の友人と一緒にホームレスになりながらも長く一緒に生き、最期は介護まで引き受けているという、なんともいえない美しさのあるストーリーも作品として展示され、それを見ている観客も、わずかかもしれないが、追体験させてもらう。

 絵画と文字の組み合わせだけで、こんなにどこか別の場所へ、そこに描かれている人の生きている時間へ連れていかれるように思えるのが、作品の力なのだと思う。

 ただ、それを可能にしている要素は絵画の力を筆頭に思ったより多く、実は複雑なのだと思うけれど、その中の一つに、どの言葉を選ぶのか、があると思った。

 訪問看護ステーションで働いている人たちは、その看護をしている人たちが、ついギャンブルに手を出してしまったりする、困った部分もあるのは承知の上で、みなさん苦労されてきている方ばかりなので、といったつぶやきのような言葉を、小さい紙に書いて、絵画の合間に置いている。

 弁当を配るボランティアをしている作家に対して、元気なのはいいけれど、元気すぎるのは、ちょっと。みなさん、人の目を避けているようなところがあるので、といった言葉で注意されていたようだけど、その言葉がいくつかの紙片に分かれて、書かれている。

 さらに、展示の終盤。山谷からスタートした調査は、そのボランティアの活動が上野公園までも届いていることを知り、元々、このテーマを発案した国立西洋美術館学芸員も、ボランティアに参加し、その途中で、配っている相手から声をかけられる。あなたのことは知っている。このあたりで、いつも見かけているから。それで、自己紹介をする学芸員。そのやりとりも書かれている。

 様々な場所に行き、いろいろな人に会う。

 もしも、同じ経験をしたとしても、何を見るか、何を聞くか。どんなことを思うか。それは、人によって驚くほど違うはずだ。

 だから、弓指と同じような活動をしたとしても、どこを描くか。どんな言葉を取り上げるかは全く違ってくると思う。

 どうして、最も大事なことを、こんなに表現できるのだろう。

 こうして、かなり真っ直ぐに気持ちに届いてくる作品を体験させてくれるのが、何より弓指作品の独特の特徴のはずだ。

 すごかった。

 この弓指の作品は、今回の展示の「章」には入らず、というよりは、入れられなかったのかもしれないが、[反― 幕間劇―上野公園、この矛盾に満ちた場所:上野から山谷へ/山谷から上野へ]というタイトルがつけられていた。

 

パープルーム

 弓指の展示を見て、没入感と圧倒的な迫力もあり、ここで、もう展覧会が一回、終わったような気持ちになっていた。それは、ここまでの展示を気がつかなかったけれど、より集中して鑑賞してきたせいか、疲れも出てきていた。ここまで2時間ほどが経っていた。

 ただ、当然のように、ここからも展覧会は続く。

「5、ここは作品たちが生きる場か?」というテーマで、その指し示そうとすることと、そこにある作品をあまり結びつけられなかったが、そこにある作品は印象的だった。

 かなり破損しているように見えるモネの作品が壁にあり、その前に絹糸のカーテンのようなものがある。それは、正面から見ると、そのモネの作品を独自に修復しているようで、それ自体がきれいな存在だった。竹村京の作品。

 繊細な印象で、妻はかなり気に入っていた。

 

 さらに歩いて、次は「6、あなたたちはなぜ、過去の記憶を生き直そうとするのか?」に続くが、そこにも密度が高い作品が並んでいる。

 個人的には、「パープルーム」が出展することは、今回の展覧会に来ようと思った大きな動機の一つだった。

 パープルームは、最初は予備校、という名称もついていたが、それは、生活と作品制作と、作品までが、これほど切り離せない環境で続けてきたアートの集団でもあるのだけど、もう10年ほど継続している。

 10年ほど前は、こうしたアートコミュニティといっていい集団が、もっといくつもあって、そのうちに、そうしたアートコレクティブとも言われた集団は、解散のような形になったり、活動休止のようになっていく中で、パープルームは生き残った。

 相模原に拠点があり、生活と制作と場所が一体化するように見えていて、さらには動画も使って、その思想も積極的に伝えているから、作品だけでなく、そこにいるアーティストたちのことも、少しでも関心を持つようになると、気になってくるし、知るようになってくる。

 だから、作品だけでなく、特に現代美術では、どんな人がつくっているのか、といったことも、当たり前だけど、とても重要ではないか、といったことも考えさせられてしまう。

 今回のパープルームの展示は、まるで大きな部屋のような場所になっていて、壁にも床にも作品はあって、映像が流れ、壁には絵画もかけられ、あちこちに立体もあり、その場所には、どこまでが作品というはっきりとした区切りがあるわけでもなく、その展示室は混沌としているけれど、膨大な印象に取り囲まれるような気がする。

 だから、その展示室は、今回のテーマの流れに収まっている、というよりは、全体としても異質で、だから、この部屋の中に閉じ込められているような印象もあった。

 実は、もっと他の作品と近接させて、どんなふうに見えるのか、そういったことも考えれば、パープルームの作品は、もっと違う展示もできて、その方が効果的だったし、劇的だったかもしれないけれど、でも、それをしてしまうと、今回の展覧会の全体がパープルーム色が強くなりすぎるかもしれず、そんなことを考えると、こうして一カ所にまとめるのも正解なのかも、などと思ってしまう。

 ただ、こんなふうにいろいろと書いても、自分が何もわかっていないような気持ちにもなるし、同時に、だからなのか、また見たいという思いになるのかもしれない。

 今回の展覧会のインタビュー集にも、パープルームの主宰者でもある梅津庸一が「ここは東京藝大系および、美大教員系アーティストたちが眠る部屋なのか?」と、この展覧会自体への疑問を提示しているのだけど、このこともパープルームの作品なのだとは思う。

 こうした言い方は、梅津やパープルームのアーティストたち自身は好まないだろうと予測はできるけれど、やはり人生すべてをアートに捧げているように生きているような人たちの凄さが、ここにはあるのだと思った。

 

絵画

 最後の「7、未知なる布置を求めて」では、展示室に絵画作品が並んでいた。

 それは、ただ作品を見せるのではなく、絵画という昔から制作され続け、現在も、この美術館に所蔵されている過去の作品と、現代のアーティストたちの作品を並べる、という方法だった。

 展覧会のインタビュー集に記されている美術館側の意図によれば、過去に実験的な存在であった作者たち----クロード・モネジャクソン・ポロックといった存在と、現在でも(一人はすでに亡くなっているが)実験的な試みを続けていると思われる4人の作家の作品を並べる、ということだったようだ。

 観客としては、過去の作品だけではなく、辰野登恵子、杉戸洋、梅津庸一、坂本夏子ら現代の先端を進もうとしている作家たちの作品を一堂に見られるのは、ありがたい気持ちにもなる。

 梅津庸一は、パープルームの主宰者でもあるけれど、一人の製作者でもあるし、坂本夏子はパープルームと関係が深いので、ここにもパープルームの影響が及んでいるとも言えるのだけど、そうした邪推のような思いとは別に、静かな空間にも感じた。

 辰野登恵子の作品は、これまでも時々見たくらいだけど、今回も新鮮な気持ちになれた。杉戸洋は、特に昔の作品ほど気持ち良さがある。ただ、だんだん年月が経つと、さまざまなことを意図的に画面の中で構成するような意志が見えてくるような印象もあり(そのことは個展では、かなり明確だった)、梅津庸一の作品は、これまでの絵画の歴史のようなものを意識していることが、こうした過去の作品や、他の実験的な試みをしようとしている作家と並べると、より明らかになるような気もしてくる。

 この中で、これまで見たことがあるはずだけど、改めて魅力的な絵画だと思ったのが、坂本夏子の作品だった。

 絵画というのは長い歴史があって、それまでに名作と言われるものも数限りなく制作されてきて、だから、今、改めて描こうとすれば、そうした歴史などを意識して、だから単純に未来を信じられるような作品に見えなくなりがちなのだけど、坂本夏子の絵画は、本人の言葉によると、まだ知られていないこと------未知に向かって描いているらしい。

 そうした作者の言葉に誘導されているのかもしれないが、確かに、描くことに対しての迷いがないというか、最初から「絵画のおわり」のようなことを、ある意味で無視しているような、新しい場所に向かっているような広がりを感じて、なんだか新鮮だった。

 それは、過去の作品や、現代の他の作家と並べていることによって、より感じたことかもしれない。

 

未来をかえようとする切実な試行錯誤

 これで、この展覧会の展示は終わりだった。

 入場してから3時間が過ぎていた。

 それでも、全部の作品を丁寧に見た、という印象はなかった。特に、文章がかなり多いので、それも含めて全部をもっと読めば、もっと深く鑑賞できたのは間違いなのだろうけれど、それでも、満足感と疲労感の両方があった。

 だからもしも、この展覧会を、俗なことを言えば2000円という安いとは言えない入場料のもとを取ろうとすれば、もっと長い時間、たとえば、4時間とか5時間を見込んでもらえたら、さらに作品を理解できるだろうし、あちこちに座る場所もあるので、休みながら、それこそ作品を体験できるように鑑賞できると思う。展覧会のインタビュー集にも掲載されていないような言葉も多いので、すべてを吸収しようとするならば、この展覧会の現場にしかないことも多い。

 この展覧会をおこなった後の、国立西洋美術館は、これまでのあり方と、意識しても、無視したとしても、どうしても、少しだけど変わってくると思う。

 

 これまでを振り返って、考えて、本当に反省し、これからのことをなんとかしよう、という切実なこころみがなければ、未来がなくなっていく、という姿を、この30年間、ずっと見続けてきた気がする。

 だから、今回、65年目に、日本の現代美術家が作品を出品した、こうした展覧会をおこなったことによって、すでに古くて特殊なシステムとして今後衰退していったかもしれない国立西洋美術館は、未来へも必要な場所になっていくかもしれない、とは思った。

 

 

(『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』インタビュー集)

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