アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」展。2023.9.9~11.19。アーティゾン美術館。

「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」展。2023.9.9~11.19。アーティゾン美術館。

 

2023年11月15日。

もしかしたら、日本の美術館の中でも、屈指のアクセスに恵まれた施設かもしれない。

 東京駅。八重洲中央口から徒歩5分。

 都心の真ん中。

 美術館によっては駅から距離がある場合も少なくないのに、こうして改めて条件をあげると、なんだかすごい。

 そして、都心部で、繁華街ではないだけに、オフィスや企業はたくさんあるのに、特定の時刻以外は、それほど人が歩いていない印象があるし、初めて行ったときも午後3時過ぎ、という時刻のせいか、人が少ないといっていい歩道の状況だった。

 ただ、歩いていって、そこにガラスが大きく、そびえ立つようにあったアーティゾン美術館は、やっぱり新しく見えた。そして、3階に上がるまでに、警備員が多い印象で、そこから6階の展示室に行くためにエレベーターに乗ろうとした時は、全体が黒い格好のせいか、持っているリュックを外側から輪っかのついた探知機(?)のようなものでチェックをされた。

 施設が立派で新しく、吹き抜けなどは、基本的に貧乏性なのでもったいなくも思えてしまうのだけど、こういう場所が空間をぜいたくに使ってくれるのは、やっぱり気持ちがいい。

 

「ここへきてやむに止まれぬサンサシオン」展

https://www.artizon.museum/exhibition_sp/sensation/

写実絵画やアカデミズム絵画に対する反動としての、あるいはその本来性を取り戻すためのものが西欧の〈近代絵画〉であろう。
が、写実絵画やアカデミズム絵画の歴史を持たぬ本邦に移入された近代絵画とはなんであろう。西欧の近代絵画と日本の近代絵画を蔵する石橋財団コレクションを前にして、改めて、山口晃1969- )はそう述べます。今回のジャム・セッションでは、「近代」、「日本的コード」、「日本の本来性」とは何かを問い、歴史や美術といった個人を圧する制度のただ中にあっても、それらに先立つ欲動を貫かんとする山口晃をご覧いただきます。

この展覧会のホームページの最初に、こうしたステートメントがあるから、考えたら、難しくも感じそうだけど、でも、こうしたテーマは、今のように停滞している時代こそ、歴史を振り返って、さまざまなジャンルで検討し直すのは必要だから、ある意味でタイムリーだとも感じるけれど、それでも、広く人を呼ぶようなテーマとは思えない。

 だから、こうした展覧会の開催を決めたアーティゾン美術館も、表面的な集客ではなく、大事なことを伝えたい、といった覚悟のようなものがあるのかと思った。

 

  最初の展示から、意外だった。

 そこは部屋があったのだけど、傾いていた。

 その展示室の前にはスタッフがいて注意を促すのだけど、それも当然で、入って、大丈夫かと思っていても、少し気を抜くと転びそうになる。だから、本来は、もっと壁や手すりのようなものにつかまった方がいいのだろうけれど、すでに二人ほど先客がいて、そうした場所が微妙にいっぱいになっているのと、何もつかまらない方が、この傾いて、転びそうで、ちょっと怖くて、という感覚を存分に味わえると思ったせいもある。

 新鮮だった。

 その部屋から、次の展示へ向かうとき、当然だけど、水平な床に降りるはずなのに、錯覚のせいで、その床が傾いて見えて、だから、そこへ着地するときに、あいまいな感じで、ちょっと怖れる気持ちも出てきてしまうが、当たり前だけど、しっかりした床だった。

 その外には、以前、遊園地にこうした施設があったから、という理由も、ふんわりした絵柄の漫画で説明がされていた。

 何か、本気なのだと思った。感覚について、嫌でも「感じる」始まりだったからだ。
 

文章と作品

 展覧会は、壁に「壁新聞」のように貼られた絵や文章による説明と、作品が展示されている形式になっていた。

 だから、嫌でも、ホームページに振りかぶるように掲げられていた「美術の歴史」のようなものを考えさせられてしまう。そして、その考える基本のようにしてセザンヌの絵画が作品としてあって、それがどうして優れているか、というよりも、なぜいいと思うのか?といった山口晃の感覚を優先した文章があって、そして、それは過去の名作を語る気配ではなくて、好きなものの理由を自分もスケッチをしながら考えていく、ということが順を追って見ていくと伝わってくるように思う。

 セザンヌは、確かに昔は、なんだか地味な印象しかなく、りんごを転がして描いている人、といったとても粗い感想しかなかったのは、おそらくは、そのセザンヌの絵を模倣しているような絵画を目にする機会が少なくなかったせいだと、ここにきて、改めて思う。セザンヌは、人間の意志のようなものを、どうやって絵画にしていくのか、といったことを考えてきた人、という印象に変わっていったのは、やはり、ただの観客とはいえ、美術の作品をある程度見てきてからだった。

 ここでは、さらに山口が、セザンヌの作品を掘り下げるように、自身のスケッチも公開しつつ、絵と文章で語っているので、セザンヌの試みのようなものが少し近く感じてくる。

 旧来の美術館では、小さなプレートに作品の制作年などが書かれているだけで、文字や、ましてや文章などが展示室にあることは少なかったけれど、こうして展示室の壁にガイドのようにさまざまな情報があり、その情報自体が絵画でもあるので、作品として成立しつつも、そこにある作品の意味までを説明している。

 だから、文章と絵画に触れながら、なんともいえない充実した空間にいるように思えてくる。

 

感覚

「感覚」に直接訴えかけてくる作品は、最初の傾いた部屋と、もう一つ「モスキートルーム」というものがあった。

 それは、展示会場の中で、白く輝く部屋だった。

 壁が白く、かなり明るくなっているところで、ただ、それだけの部屋だった。

 ただ、説明によると、その壁と適度な距離を保っていると、「飛蚊症」のようになる。もっといれば、自分の眼球という球体の中にいるような「感覚」になるらしい(説明が多少違っていたら、すみませんが)。

 壁を見ていると、「蚊」というよりは、なんだかわからないゴミのような浮遊物が目の前に見え始め、それが漂う。さらには、それが、大きい透明な球体の中でのことのように感じてきて、それは、自分の眼球のようで、それは不思議な感覚だった。だけど、時間の短さもあり、そこからさらに没入することができず、さらに「球体の中にいるような」感覚に変わるまでは体験できなかった。

 それでも、これだけシンプルな仕掛けで、こうした感覚の変化を起こさせることができることが新鮮だったし、傾いた部屋との時もそうだけれど、自分の感覚は元々はしっかりしたものではなく、揺らぎやすく、だから、感覚の柔軟性と共に、自分の感覚だけを信じすぎてはいけないのではないか、とも思った。

 感覚とは何か?について、観客に考えさせるほど、山口晃という作者自身が考え続けてきたから、こうした作品があるのは間違いなかった。

 そして、この展覧会の間だけのようだったけれど、この美術館では、スケッチもできるようにしてあった。実際に、模写すれば、気がつくことの深度は嫌でも深くなるが、情けないことに次の予定があって、そういう体験ができなかった。

 

移動の時代

 展示の終盤(順路が示されているわけではないので、個人的な感覚として)、壁にあった文章の中で教科書で読んだ「移動の時代」(中村光夫)について触れられていた。

 

『新しい作品論へ。新しい教材論へ』 

https://amzn.to/3R0GdBa

 

 それは、明治大正時代に、日本が西洋に追いつくために、とにかく新しいものを抜け目なく輸入(移動)することに注力するあまり、そして、それが文学や美術にも及んだことで、その「内発的」なことは無視されているのではないか、という指摘だった。

 私自身も特に明治から大正、さらには昭和に至っても、日本の美術作品を見たとき、例えばセザンヌそっくりすぎたり、モネっぽかったり、それは影響というレベルではなくて、下品な言葉で言えば、「パクリ」ではないかと思うことが少なくなかったからだ。

 そして、その「移動」だけをしてきた時代は、美術だけではなく、さらに長く続き、いち早く「本場」のことを輸入することで、経済的にも成功するので、なかなか終わらず、そして、完全に行き詰まった結果が、現在、ということを考えたら、今にも通じる課題を、さらっと扱ってもいるが、この指摘は、この6階の展示室から、5階から4階にわたって展示されている日本の近代の作品にも、当然、及んでくる分析だから、そのことを考えながら、5階、4階を鑑賞したら、見え方が変わってくる可能性もある。

 そういう意味では、山口晃の展示室だけではなく、その後の作品の感じ方まで変えるような仕掛けでもあって、なんだか感心もしたが、当然、それは日本の過去の作品に対して批判的な見方を促すことにもつながるのだから、こうした作品も含めて、この美術館での展示をしたことは、逆に、懐の深さのようなものを感じさせるのではないだろうかと思った。

 そして、その後、4階まで、その「移動の時代」についての指摘については、ずっと心と頭に残りながら、常設展を鑑賞することになったから、その見え方の変化も含めて、山口晃の作品だと思った。

 なんだかすごいと感じた。

 

 

 

山口晃 大画面作品集』

https://amzn.to/3SRVpCf