昔と比べて「植物」に興味を持つようになったのは、植物好きの妻の影響を思った以上に受けているせいだと思う。
だから、夏にどこかに行きたいと思ったときに、「植物」をテーマにした展覧会があるのを知って、予定に入れた。それは、同じ美術館で「電線画」展をおこなったときも感じたのだけど、この美術館は、独特の視点を持っている学芸員がいるのではないかと思っていたから、より行きたいと思っていた。
(『植物と歩く』練馬区立美術館)
https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202304211682073874
本展では当館のコレクションを中心に展示し、植物がどのように作家を触発してきたかを探ります。コレクションからは、画面をおおい尽くさんばかりに増殖する植物の生命力を描いた佐田勝の油彩画とガラス絵、花が散る瞬間を写実的かつ幻想的にとらえる須田悦弘の木彫、水芭蕉を生涯のモチーフとした佐藤多持の屏風や、約3mの大画面に樹木を描いた竹原嘲風の日本画などを展示します。コレクションに加えて、植物学者・牧野富太郎による植物図と植物標本や、倉科光子による種と芽吹きの両方の時間を記録する絵画を紹介します。
皆さんも、実在の植物から想像上の植物まで、美術館に集まった魅力あふれる植物たちとともに歩いてみませんか。
最初に、鮮やかなガラス絵の植物の絵は、佐田勝の作品から展覧会が始まるのだけど、実質的には最初に牧野富太郎の植物画が並んでいる。
その絵に関しては、印刷物として、どこかで見たこともあったし、それはアカデミックな分野のものだと思っていて、最近は「朝ドラ」の主役として描かれていたこともあって、この牧野氏という人が、かなり独特の人ではないか、といった印象は強まっていたが、それでも、今回の植物画はやや遠くから一見したところでは、アカデミックな意味合いが強く思えた。
ところが、そばに行き、近くで見ると、その絵の印象は全く違っていた。
植物の細部。というような穏やかな表現ではなく、植物のすべてを可能な限り再現したいといった欲望といったものが具体化したような表現だった。
植物の花びらの微妙なトゲのようなものがあって、それが、できるだけ、そのまま絵にしようとしている集中力のようなものは、すでに異常なレベルなものだと感じた。
それは、すごい絵画で、今でも、とても冷静に見えて、その奥にとんでもない感情が込められていなければ不可能な表現だと思った。
すごい。こんなに、とんでもないものだとは思わなかった。
それは、植物採集で、標本になったものでも、印象の強さは変わらなかった。その植物が、
小野木学
そうした精密な牧野富太郎の植物画の隣に、ややラフといってもいい植物の絵が並んでいた。だけど、なんというか、その描き方に、牧野富太郎とは方法は違っても、植物を植物として、とてもよく見ていながら、その視線に温かみがあるような気がした。
それが、小野木学の作品だった。
枯れた植物を題材にしている作品が多めだったのだけど、その枯れたことが寂しさや滅びるやなくなる、といったようには思えなかった。
不思議だった。
ただ、そのプロフィールを見ると、小野木氏は、1975年から1976年まで病床にいて亡くなったという時間を過ごしていて、この展覧会の作品は、1976年のものが並んでいた。
その背景ばかりを強調しては作者に失礼だとは思うのだけど、その植物への見方そのものが作品と関係が深いように思え、これは牧野富太郎の植物画とは違う方法なのだけど、独特な植物画になっていると思った。
1990年代に、この作家の作品を見たのが初めてだった。
美術館のトップライトのところから、チューリップが落下しながら、バラバラになったような形で、壁に沿った形で止めてあった。そして、その茎や花びらが、全部、本物のように見えたけれど、木彫りの作品だった。
それに、うっかり見落としそうな場所にあって、だけど、もし、見逃してもそれはしょうがない、という作家の姿勢であるとも知り、それも含めて、すごいと思った。
いつも木彫りで、実物そっくりに、そして展示場所に関係のあるような作品を制作する。控えめでありながら、いったんその存在に気がつくと、背景だったはずなのに主役になるような作品は凄みもあると感じていた。
今回、そのときのチューリップは、床に台があって、堂々と飾られていたが、最初に目にしたのは、他の人の植物に関する「作品」が並んでいて、陳列ケースのすみに、本当に生えているようにイヌタデがあった。それは、須田の木彫りの作品で、牧野富太郎の植物画の中から選んで制作されたものだった。
場合によっては、見逃してしまいそうだし、見つけても、どうして、こういうところに草花があるのだろう、と思ってしまいそうだけど、そういうことも含めて、須田の作品だと思えた。
さらに、壁の角のところに、見上げないと目に入らないような、赤い花びらが一枚だけあって、それは「ベルリン」という作品だけど、うっかり見逃すところだった。
そして、「雑草の夜」という展示コーナーには、「雑草」という作品があった。それは、一本の木材を削り出し、逆さまの雑草が作り出されているもので、どうしてだろう?と考えてしまうような作品だった。
倉科光子
タイトルに数字とアルファベットが並んでいる作品が並んでいる。
倉科光子という作家の絵画だった。
その説明によると、「ツナミプランツ」というシリーズがあって、東日本大震災の後、津波によって、いろいろなものがさらわれたあと、そこに生えてきた雑草を描いていたものだという。さらには、数年、同じ場所を観察し、そこにさまざまな年月のことも重ねるように描いた植物画もあった。
ただ、植物を精密に描くだけではなく、こうして意味が重なることで、現代美術になっているように思え、こうして、すぐにわかる、だけではなく、何かがわかると違う感じ方ができるのが、こうした現代のアートなのだと思う。
渡辺千尋
夜の草花を描いた作品。
光がなくて、色がなくて、だから普段はそれほど真剣に見ていないのかもしれないけれど、でも、こうして白黒の草花は、怖さもあって、新鮮さもある。
渡辺千尋。3枚の絵が並ぶ。
鑑賞者として、生意気かもしれないけれど、その作品の質が明らかに違っているように見えた。キャプションを見直したら、制作年が1983年、1993年、1999年で、新しい作品ほど、絵としての強さが増しているように見えて、それは、年数で質を上げているように思えたから、変な話だけど、それがなんだかうれしかった。
大小島真木
少し前に、ヒャダインの本名が前山田、女優の名前で上白石という人がいて、山田や白石という名字だったら、比較的平凡なのに、そこに漢字一文字が加わるだけで、かなりインパクトの強い名前になるから、他にも、そういう名前があるかどうかを考えたことがある。
その中で、いくらなんでも実在しないと勝手に思っていた名前の一つが「大小島」だった。
大きいと小さいが並ぶことは、いくらなんでも無理ではないかと思っていたのだけど、この展覧会には、大小島真木という名前の作家の作品があった。
それも、大きな絵画も、この美術館で公開制作をしたもので、約4メートル×約5メールの巨大なものを1ヶ月で制作したらしく、それは、鑑賞者としては、制作期間は早くて、すごいのではないかと思った。
コレクション展でも、全体にきちんとした意志を感じ、今まで恥ずかしながら知らなかった作家も知ることができ、思った以上に充実した時間になった。
その後、ロビーで過去の展覧会の図録なども並んでいて、そこにあるソファーも座って気持ちがよくて、その中の一つに「再構築」というタイトルの展覧会があった。自分の無知のせいだけど、その展覧会を全く知らなくて、その図録を開いた。
(『再構築』練馬区立美術館)
https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202006161592286707
2020年の7月から9月。
まだ、コロナ禍が始まったばかりで、ワクチンも開発されていなくて、今よりももっと怯えていて、だから、外出も徹底的に減らしていた時期で、その頃に、こんな意欲的で、図録を見ただけだから、本当の魅力はわからないとしても、この時に、よくこんな展覧会をできたと思えるような展示に見えた。
そのときに、今日みた大小島真木の大きな作品も、この展覧会の最中に制作されたもので、さらに、その展示している光景も、今日と違った方法で、写真で見ただけだけど、そこには、あのときの、まだワクチンもない頃のコロナウイルスへの怖さも含めた、切迫感もそこにはあるような気がした。
自分が知らないのが悪いのだけど、でも、知っていたとしても、あのコロナ禍のときは、山手線に乗ることさえ怖かったから、たぶん、無理だったと思う。
でも、コロナ禍に変化があった今年こそ、もう一度、この「再構築」の展覧会をやってほしいと思ったのは、とても勝手な要望だけど、それだけ魅力的に見えたからだった。
それで、家に帰ってから、練馬区立美術館に、そうした要望のメールを送った。
そうしたことも含めて、豊かな時間になった。