アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

MOTコレクション『歩く、赴く、移動する 1923→2020』。2023.12.10~2024.3.10。東京都現代美術館。

MOTコレクション『歩く、赴く、移動する 1923→2020』。2023.12.10~2024.3.10。東京都現代美術館

東京都現代美術館

 美術館に行くときは、その時期に開催されている企画展を目的に出かけることが多い。

 だから、常設展は、その鑑賞のあと、心身の余裕があれば見ることになる。だから、どうしても、気持ちの中で、ついで、といった感じがあって、東京都現代美術館ができた頃も、そんなふうに常設展を見ていた。

 建物の隅っこに常設展の入り口があって、そこから歩いて入ると、現代美術の定義の一つといわれる1945年以降の作品が並んでいる。それは、確かに日本の美術の歴史であって、重要なのはわかるのだけど、2000年代の初頭までは、常設展では、そこにいつも同じような作品を見ることになって、だから、どうしてもマンネリな感じがしてしまって、余計に、見る機会が減っていた。

 

常設展の変化

 それが、いつのことかよく覚えていないのだけど、東京都現代美術館の常設展は変わってきた。もしかしたら、3年の期間を使ってリニューアルした後の2019年以降かもしれないし、それ以前かもしれない。

 どちらにしても、明らかに変化をしてきた。

 毎回、常設展であってもテーマを掲げることは慣習化されているようなのだけど、最近は、そのテーマに沿っていて、企画展と思えるほど新鮮で充実した展示になっている。

 だから、ここ何年かは、企画展を見て、それが興味深いほど微妙に疲れるのだけど、それでも、常設展に足を向けるようになった。

 妻と一緒に東京都美術館に行って、企画展を見て、そのあとに疲れていたとしても、妻にも、できたら常設展を見ようと、以前よりも積極的に誘うようになったのは、その展示が魅力的になっていたからだった。

 そして、見る前には、どんな展示かもわからないのだけど、ここ最近は、実際に鑑賞しても、期待を上回ることが多くなっていた。

 今回の常設展は、2023.12.10~2024.3.10までの期間だった。

 

『歩く、赴く、移動する 1923→2020』

 展示室には戦前の作品から並んでいた。それは「現代美術」という定義から見たら、違うのかもしれないけれど、それにはきちんと意味があった。

 最初の展示室のテーマは「1.東京を歩く」だった。

 街を歩き、そこで出会った風景を描くこと----- 冒頭の一室では、今年100年の節目を迎えた関東大震災から、第二次世界大戦後までの東京を一堂に展示します。

 災害のことは、自分自身が当事者でないほど、忘れていくことが多い。それは、自分でも情けないというか、恥ずかしい思いもあるのだけど、もしかしたら、大災害ほど忘れたい、というような気持ちさえあるのかもしれない、とも感じる。

 だから、関東大震災から100年経ったことも、全く知らなかったのは、そうしたことを覚えたくないような思いがあるせいだろうけれど、それだけの年月が経っても、こうして、その現場を知っている作家が描いたスケッチでさえも、何もなくなってしまったことは伝わってくるし、日常が嫌でも変わってしまったことも描かれている。

 その行為は、パンフレットによると、鹿子木孟郎は「罹災者の避難を浴びながら」の写生でもあったようなのだけど、それは、いつの時代の災害でも共通することでもあって、だけど、このことを残さなければ、という使命感のようなものもなければ、できなかったことだろうとは思う。

 そして、松本竣介の戦中戦後のデッサンや、スケッチなども並んでいた。

 その展示室の意味の重さに改めて気がつけたのは、常設展とは思えないほど、40ページにも及ぶ、デザイン的にも力が入ったのがわかるパンフレットがあって、それを持ち帰り、読んだからで、鑑賞後に時間が経ってからでも、そうした資料があると、自分の中で作品の意味自体が変わるのが、わかる。

 

現場、清澄白河、世界

 赴いたり、歩いたり、移動するのは、東京だけではなく、さまざまな場所になる。

「2. 現場に赴く」では、社会の現場といえる場所を描いた作品が並んでいる。

 戦後日本において政治的/社会的な事象の現場に赴き、それを取材して描く「ルポルタージュ絵画」と呼ばれる表現を見せた作家たちを取り上げます。

                    (パンフレットより)

 労働問題など、さまざまな課題があり、そうした現場のことについては、おそらくは内部に入って撮影なども難しくても、そうした事象を取材して描くことはできる。そうした思いもあって、制作された作品で、それは重さもあるけれど、当たり前だけど伝わる力も強かった。

 そして、こうした作品が、この東京都現代美術館の初期の常設展で、展示室に入ると最初の方で並んでいた印象だった。

 

「3. 清澄白河を歩く」

 この美術館の地元が清澄白河で、1990年代後半に、この美術館ができた頃は、何もないような場所に思えていた。古くからの商店街はあったけれど、個人的な印象では、2015年にブルーボトルコーヒー清澄白河に日本初上陸してから、他のカフェやオシャレなショップが増えてきたように思う。

 それ以前のスケッチや、現在に近い風景は、「ワタリドリ計画」が作品化してくれていた。

 麻生知子と、武内明子の二人が、日本全国を旅して、それを題材にして展示を行うプロジェクトで、「ワタリドリ計画」の作品を最初に見たのは、岡本太郎美術館で、受賞作品としてだった。そのときも、人間が感じられる範囲を、丁寧に手作り感が伝わってくる形にしていて新鮮だったが、今回も、2020年当時に、美術館周辺の深川を旅して制作されたものだった。

 絵画を中心に、カルタの制作まで行っていて、それは、都内という身近な場所であっても、旅が成立することや、美術館の周辺は観客として何度か訪れている場所だったから、知っていると思っていても、まるで知らないことが多いようにも感じた。映像もあって、それは、テレビで見る「街歩き」のようでいて、柔らかさはあるものの、独特の生々しさがあって、目が離せなかった。

 この「ワタリドリ計画」の作品があったことで、今回の常設展を見てよかった、と改めて思えた。

 

(「ワタリドリ計画」サイト)

http://www.wataridori-keikaku.net

 

 他にも、世界を歩いたり、移動そのものを作品化したりして、スケールも大きく、もしくは視点が混乱するようなものだったりもして、それは、これまでの常設展でもしかしたら見たことがない作品が並んでいたように思う。

 ここまでも、長い時間を行ったり来たり、身近な場所だったり、遠い世界へ向かったり、といった作品が展示されていて、気持ちや思考もあっちこっちへ動かされた気もして、少し疲れたけれど充実した思いになった。

 

 そして、1階の展示の最後には、文庫本を使った作品があった。

 それは、ささやかに見えて、物理的にも小さかったけれど、文庫本に刺しゅうを施した作品は、特に妻は、とても熱心に見ていた。それは、小さな工夫にも思えたけれど、その文庫本は、旅や冒険に関する作品で、作者の福田尚代が繰り返し読んでいた大事な本らしく、そのことが、その文庫本を読み込んだ状態にしていたし、そこに時間が形になっているように思えて、作品に力を与えているように見えた。

 

(「ひかり埃のきみ」福田尚代)

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