1997年12月。
鉄の質感って、どうしようもなく支配的なものがある。
その空間の気分を大きく左右する。
それにサビとかがあると、何かいつも似たようなノスタルジーがある。でも考えたら、そのノスタルジーは、全部の世代に共通しないかもしれない。
村岡の使う素材の限定は、まるで、現代建築の安藤忠男みたいだ。鉄、それに塩が加わって、熱を使う。生々しいというか、もろさといったものを加えている。もし、塩がなかったら。塩という要素が、建築とは別のアートとしかいえないものにしているのか、とも思ったりする。
「彼の芸術テーマがより鮮明に打ち出されるようになったのは、従来からの鉄に加えて、塩や硫黄といった物質の熱現象そのものをこれまでになく直接的に主題化しはじめた80年代半ば頃からでしょう。一見して“人体”を思わせる酸素ボンベが、彼の作品に登場するのもこの頃からです。
“熱”や“酸素”――それらは、私たちの生命現象、いや宇宙の生命のみなもとであると同時に、それらを焼き滅ぼしかねない要因です。彼は、非情な熱処理によって鉄を焼き切り、威嚇的にそびえ立つ塩の壁を、あるいは無残にひび割れた鋼鉄の地殻を現出させ、酸素を吸入して吐き出す人体(酸素ボンベ)や、私たちの脈動をオッシログラフのように機械的かつ繊細に伝えるドローイングをそこに織りまぜながら、物質と生命の根源に向かって最後の問いを投げかけはじめたのです」。(チラシより)。
(1997年の時の記録です。多少の加筆・修正です)。