アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「デイヴィッド・ホックニー展」。2023.7.15~11.5。東京都現代美術館。

 

2023年10月25日。

 時々、グループ展や、常設展で、その明るさと静かさのある作品は、あちこちで見ている。それは、「あ、ホックニーだ」などとそれほど知らないのに、つい心の中で小さく叫んでしまうほど、そのオリジナリティーの強さはある。

 ただ、主役のイメージはなくて、時代的にも、ポップアートが隆盛を極めている頃には、アンディ・ウォーホルがいて、その後にはバスキアが出てきて、再び絵画の時代になったようなイメージがあり、それほどアートの歴史に詳しくなければ、ホックニーは、その主流を作ったアーティストではないのではないか。その程度のことしか分からない。

 

チケット

 美術館に入ったら、列ができていた。

 ここに来るときには、かなり空いていて、展示室には、警備をしているスタッフと、自分たちしかいない場合も少なくなかった。

 だから、チケットを買うだけで列ができているのは珍しく、そのことでまた少しショックを受けたのは、ここまででも予定よりも遅くなっていたのに、さらに時間がかかるからだ。

「デイヴィッド・ホックニー展」。一般で2300円。いつもよりも入場料金が高めなのは、海外で、しかも大物だからなのかなのかと思って、そういえば、この前のマティス展も、こういう値段だったとは思った。

 それでも、スタッフが掲げていた「15分」という目安通りにチケットは買えて、それからロッカールームに行って、こういう場所のロッカーは格好よくできていて、といったことを改めて思って、荷物を入れて、中に入った。

 

デイヴィッド・ホックニー

 

 最初は3階から。

 デイヴィッド・ホックニーは、1937年生まれ。だが、これまでその生まれた年をほとんど知らなかったし、意識したこともなかった。だけど、今回は、まだ学生時代の作品も並んでいて、フランシス・ベーコンに似ているというか、ここからもうちょっと肉体を変形させたりしたかったのかも、などと思ったのは、やはり、すごいアーティストの影響みたいなものが、伝わってきたせいかもしれない。

 当然だけど、最初から、デイヴィッド・ホックニーだったわけではなく、試行錯誤の、それもまだ自分が定まっていないから、とても影響を受けやすい頃もあったのだと改めて思う。

 だけど、そのほぼ時代順に展示されている作品を見ていると、1960年代に入ってから、アメリカの西海岸に住んで、それもポップアートの影響もありながらも、独特の明るく、その上で微妙に空しい感じもある作風にすぐに変わっていったように見えた。

 個人的には、あの明るく、寂しい、すぐにホックニーとわかるような、プールの作品をもっと見たかったのだけれど、今回は、回顧的に、キャリアの全てを見せる、といった狙いがあるせいか、恥ずかしながら、ほとんど知らなかった肖像画も多く見て、でもそれは、成功した画家が、仕事としておこなっているようにも思えたし、さまざまな試みの一つとしての写真のコラージュも、それがキュビズムの再現のように言われていたと記憶しているが、それほど効果的でないようにも感じた。

 ただ、それは、それほど詳しくないただの観客の思い込みかもしれず、これだけの長いキャリアと膨大な作品がある作家の一部を見て、勝手なことを言っているだけかもしれない。

 そう思えるほど、今回も全部ではないのだろうけれど、ホックニーが、そのスタイルを確立したと思える1960年代以降も、ホックニーは何十年も生きて、そして、さまざまな作品を制作していたのは、展示を見ていると、わかる。

 さらに、途中で、iPadを使っての作品の制作過程を展示している場所もあって、それは人も集めていたのだけど、その時間が10分弱で、そうした設定も含めて、人に見せることに対しての意識は、そのアイデアは周囲のスタッフかもしれないけれど、でも、ホックニー本人も高いのだろうと思えた。

 さらには、これまでの自分の作品が並べられているスタジオを、ホックニー自身も入って、写真を利用しての巨大な作品に仕上げたり、自身の描いた花の絵画を、ホックニー自身がゆったりといすに座っている姿も入れて大きな作品にしてあるのは、一種の自慢話のようにも見えたし、同時に、こうした作品はさまざまなテクノロジーを駆使しているという意味でも、「巨匠」として扱われるような未来も見えるような気がした。

 ただ、とてもゲスな推測だけど、ファインアートで、こうした東洋の端の国の人間にまで知られるようになったら、完全に成功したアーティストなのだろうし、西洋のアーティストであれば、収入的にも恵まれているのだろうから、それほど無理をしなくて、隠居のような生活をしてもいいのに、と思っていた。

 それをより強く感じたのは、展示室の1階に行ってからだった。

 

風景

 

 21世紀になって、ホックニーは、生まれ育った故郷といっていいイギリスに戻ったようだ。

 そこで植物を中心とした風景画を描き始める。

 

https://artexhibition.jp/topics/news/20230510-AEJ1371264/

(「美術展ナビ」)

 

1997年からおよそ15年間、ホックニーは幼少期に慣れ親しんだヨークシャー東部の自然や風物を抒情豊かに描きました。破格の大きさを誇る油彩画《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》(2007年)は、タイトルが示すように複数のカンヴァスを戸外に持ち出し、自然光の下でモチーフとなる木々を前にして制作された風景画です。

           

                     (「美術館ナビ」より)

 

 ロサンゼルスから、イギリスのヨークシャーはおそらく真逆に近い環境のはずで、それは失礼な例えかもしれないけれど、光を基準とすれば、「明」から「暗」の違いもあるくらいで、その上で、人工物であるプールから、自然に属する植物を描き始める。

 それは、「大物」のアーティストが行なった方が、評価につながりやすいのではないか、といった気持ちにもなる。

 ただ、その《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》(2007年)は、展示室の一つの壁一面を全部使うほどの巨大な壁画であって、これだけの大きさの風景画、それも、とても広い範囲の風景ではなく、比較的、近所の林といった規模のものだから、特に近くに寄って、見上げると、これだけ具象よりは抽象に近づいた造形にも思えるのだけど、確かに、国や風土も違っても、地域の大木を見上げた感覚を味わえるように思った。

 そう考えると、21世紀に具象的な風景画を描く意味といったことを、現代美術の鑑賞者はすぐに思ったりもしてしまうのだけど、この絵画の前に立って、見て、見上げると、確かに、あの、とにかく成長し続けるようなエネルギーがあるから、しばらく手入れをしないと、うっそうとする怖さのようなものも伝わってくるようで、それは、リアルでうまいというようなことでないけれど、凄みのようなものも感じたので、やはり、すごい作品なのかもしれない、と思った。

 しかも、タイトルに「ポスト写真時代の戸外制作」という言葉を入れることで、新しい方法を使っているという意識が、鑑賞者にさえ強くなる。それは、「印象派の反復」といった理屈もつきそうだ。

 

テクノロジー

 2010年にiPadが発売されると、そのテクノロジーを生かして、すぐに絵画制作を始めたらしい。

 

ホックニーの故郷、イギリスのヨークシャー東部で2011年に制作され、この度日本初公開となる幅10メートル、高さ3.5メートルの油彩画《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》(2011年)も注目です。本展では、同じく日本初公開となる大判サイズのiPad作品12点とともに、本作を展示します。

 

                      (「美術館ナビ」より)

 

《ウォーター近郊の大きな木々またはポスト写真時代の戸外制作》と違って、この《春の到来 イースト・ヨークシャー、ウォルドゲート 2011年》(2011年)は、より、ベッタリと一面的な塗り方になっているようで、その色彩ははっきりとしているものの、個人的には、2007年の作品の方が、すごいと思っていて、何か、この「春の到来」はとても平凡なものに見えた。

 その同じ展示室にあるiPadを利用し始めた頃の作品の方が、ホックニー本人の、少しヘニャヘニャしたような「へにゃい」線の魅力が出ていて、逆に味が出ているように思えた。

 ということは、もしかして、iPadが登場し、使ってみて、思った以上に、自分の描き方の癖のようなものが再現されるのを知り、油彩画を、あえて、その筆跡を消そうとした、とも思えるけれど、ただ、ホックニーは、ずっとそうした筆致を使ってきたようだから、どうして、この「春の到来」の描き方だけ、ベッタリ感が際立つのか、不思議だった。

 

 ただ、この展示室も、撮影は許されていて、スマホiPadで、写真を撮り続けている人がほとんどだった。だから、ここは作品の鑑賞ではなくて、作品の撮影のためにある空間のように思っていた。

 そして、もしかしたら、この絵画のベッタリ感は、撮影され、インターネット上に公開された時の方が、鮮やかで平面性が強い分、より、魅力的に見えるのかもしれない。それに巨大な横長の作品は、全体を一枚の写真で収めるのは難しく、部分を撮影した場合、どの部分も一様に同じ密度で色彩が展開されていた方が、印象が強くなるように思う。

 もしかしたら、そうしたことまで考えられているから、現代のアーティストの、現代アートの作品かもしれない、などと思った。

 

意味

 

 そして、最後の展示室全体を使って《ノルマンディーの12か月 2020-2021年》の作品が展示されている。

 絵巻物のように、90メートルの長さを使って、1年間の四季が描かれている。それもiPadが使われている、という。

 ただ、この作品を見ていて、うまいわけではない。かといってホックニーのちょっと力の抜けたような線の魅力も感じない。とにかくただ描いている、という、考えたら、絵画の原点を、iPodを使ったことによって意味を持たせるということなのだろうか。

 それにしても、絵画としての魅力が足りなくないだろうか。生意気にもそんなことを思いながら、ずっと歩きながらも見ていて、ただ、そこを同じ部屋で見ている私と同じ観客の多くは、とにかく撮影をしている。

 これだけの長さがあるから、おそらく全部を撮影するのはほぼ不可能で、それぞれの人が自分が気に入った切り取り方をして、それをSNSなどにあげるはずで、すでに、その数は膨大なものになっているはずで、だから、もしかしたら、それらのイメージを目にした方が、そのことによって広がる絵画への印象の方が、とても強く、すごいものになっている可能性が強い。

 当然だけど、今回も、平日とはいえ、現代美術館にこれだけの数の人が来ていて、こんなに展示室に人がいっぱいになった光景もほとんど記憶にないから、かなりの人数が来ているのだろうし、入場料を払わないと入れないショップでもレジで並ぶのに10分以上はかかったから、集客という意味でも成功かもしれない。

 ホックニー展に、若い人たちも多かったようだし、どうして、ここまで人が来たのだろう、と不思議だけど、それでも、実際に展覧会に足を運んだ人よりも、当然だけど、世の中の総数で言えば、展覧会に来なかった人の方が多いはずだ。

 だから、インターネット上に大量のホックニーのイメージがあれば、それを目にする人は、来場者に比べても、かなりの数になるはずで、そして、その部分を見た方が、その作品の印象は、よりすごいものとしてふくらんでいくような気がした。

 そこまで考えていたのかもしれない。やはり、現代のアーティストなのだろう。

 

https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/27525

(「美術手帖」サイト)

 

絵巻物のように周回するかたちで展示された本作は、コロナ禍においてホックニーが自らの周囲の風景を見つめながら描いたもの。

                      (「美術手帖」より)

 

 同時に、この作品が制作された時期には、コロナ禍という意味もあり、場合によっては家に閉じ籠るしかない時間も世界中の多く人も経験した頃に、遠くではなく、比較的身近な風景を描いた、ということで、そこにまた「意味」が加わっているから、その表面的な質だけではなく、やはり現代のアート、ということになるのだろう。

 ところで、今回の展覧会で、スマホiPadでの撮影は許可された場所があったのだけど、カメラは、全面的に禁止だった。自分自身は、デジタルカメラしか持っていなかったので撮影ができなかったのだけど、不思議ではあった。フラッシュをたかないように撮影すればOKという展覧会が増えているけれど、こうした区別をしている展覧会は初めてだった。

 だから、このことになんらかの意味があるのかと思い、スタッフに聞いたら、出展者(ホックニー)の意向です、を繰り返すだけだった。カメラよりも、SNSなどのインターネットにつながっている機器を優先させている、ということかもしれないなどと勝手に考えたのだけど、ただ禁止、ということしかわからなかった。

 

巨匠への準備

 

https://artnewsjapan.com/article/1256

(「ART news JAPAN」)

(このイギリスでの大回顧展への記事↑は、ホックニーのイギリスでの立場など、かなり批評的に書かれているので、ただ褒めるだけの視点ではないことに興味があるからにはおすすめです)。

 

 すでに、ここ数年の間に、ロンドンのテートブリテンと、ニューヨークのメトロポリタン美術館で、「大回顧展」も開催しているから、すでに「巨匠」の評価への準備は万端になっているようにも思う。

 今回の日本の大規模個展での、ショップのポストカードには、他の展覧会ではあまり見られないほど、「デイヴィッド・ホックニー展」という文字が大きく印刷されているから、名前が偉大である、ということを形にすることによって、より巨匠化を推進しているような気がして、このポストカードを含めて、現代アートのような気がしてくるのは、考えすぎかもしれないとは思う。

 だけど、ただ視覚的に気持ちいい、といったことだけではなく、こうして、いろいろなことを考えさせてもらえたから、やはり現代の巨匠なのだろう。

 それにしても、バスキアは20代で亡くなってしまったし、ウォーホルも50代で死去してしまったし、まだジャスパー・ジョーンズがさらに年上でいるとはいえ、ホックニーも、80代を超えて長く生きている上に、現在も作品を制作し続けることによって、さまざまなものを手に入れたような印象がある。

 長寿の凄みは、やはりあるのだと思った。

 

 

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