トタンを使った、ちょっとはかなげにも思える「彫刻」。
しっかりとした「形」になる前の「形」のような「立体」。
ありそうでない作品。
「創作ノートの中身のように
コーヒーを飲みながら
そこはかとなくつれづれなるままに
形にしていく」
(メール文中作家の言葉より)。
トタンを使った、ちょっとはかなげにも思える「彫刻」。
しっかりとした「形」になる前の「形」のような「立体」。
ありそうでない作品。
「創作ノートの中身のように
コーヒーを飲みながら
そこはかとなくつれづれなるままに
形にしていく」
(メール文中作家の言葉より)。
女性の下着が展示されているように見える。
少し入りにくいけれど、男性の下着とは、違うのはわかる。
その柔らかさ。ひらひらした感じ。もちろん、いろいろなタイプはあるのだけど、不思議な感じはする。だけど、それは、男性から見た、変な幻想なのかもしれない、とも思う。
ランジェリーをテーマとしていて、それは、その特徴みたいなものを拡大したような作品だから、その独特な感じが強調されているような気がした。
何かのオブジェのように見える。
『造形、素材、機能性の矛盾。女性の内面のようなランジェリー。
アートの街に生まれ変わった横浜・黄金町エリアで洋服製作アトリエを持ち、オリジナルブランド「un:ten」を展開。今回の展示ではアーティストとして、“ランジェリー”をテーマに展覧会を行います』(チラシより)。
2012年9月2日。
開会式のようなイベントで、「この会場全体が一つの花で、皆様の一人一人は花びらなんだ、」みたいなことを、参加者にもしていたようで、それは、やっぱりすごいことだと思った。
東京ビッグサイトといった場所ではなく、今回は古くからのビルなので、やはり雰囲気は違っていた。
参加者は、今回は年齢制限が撤廃されたので、いろいろな人たちが参加していた。そして、入場者も来ていた。活気はあった。このイベントの継続は、どうなるのだろうというような話は出ていたようだけど、できたら、長く続いてほしいと思った。
「クレマスター」という映像作品の存在を知ったのは、20年くらい前のことで、写真としてその一部を見たことが何度もあって、だけど、全体を見たことはなかったし、上映についても、作家本人が定めたルールがあって、全部を見るのが難しいらしく、自分の中では、もう伝説だった。
たぶん見ることが出来ないだろう。それが、日本でも見られると知ったのは、何カ月か前で、申し込もうと思ったら、その日のうちに、まだ数時間しかたってないのに、5本あるのに、すべてが満席になっていた。あっさりとあきらめた。
それが、そこから何週間かたったら、キャンセルが出たのか、機械の都合なのか、また申し込めるようになったけど、その時点で3席とか、場合によっては1席だけだったので、ちょっと悩んで、全部申し込んで、お金も払った。最初の「クレマスター1」だけは、妻と一緒に見ることにした。一本あたり、1000円から、「クレマスター3」は3時間だから、1900円。全部で、7000円くらいになったのだけど、そして、こういうことにお金を使うのか、といった気持ちにもなったのだけど、まさか生きているうちに見られるとは思わなかったので、それはちょっとうれしかった。
2017年11月25日。
「クレマスター1」。フットボールのフィールドと、飛行船2台を飛ばし、人もたくさん使って、何しろ、ぜいたくな作り方。内容は、おそらくは本人の妄想に近い、欲望に忠実なのだろうな、というような、だけど、これだけゴージャスに現実化するのは、特に20年くらい前だから、CGも使えないぶんだけ、お金もかかったよな、と余分なことも考えたが、思ったより面白く見る事ができた。
妻も、そんなにつまらない、ということもなく、だけど、ここで解散して、先に帰ってもらって、義母の迎えもお願いすることになる。
「クレマスター2」。どこまでがリアルな映像かも分からないが、2の方が、殺したり、死んだり、セックスしたりと、欲望に忠実になってくるし、変態臭も強い。気持ちも悪いけど、やっぱりよく映像化した、と思ったりもした。
2017年11月26日。
翌日、「クレマスター3」。長い。そして、あれこれ、きちんと気持ちが悪いし、クルマを破壊するのも、本当にまだやるのか、というくらい壊し続けていて、ちょっと恐いというか、気持ちいいよりも、まだやるのか、というような気持ちにもなり、時々、寝てしまったが、後半、グッゲンハイムの美術館を、本当に好きに使った感じとか、壁を本人が登って行くのは、身体能力も高いし、確か医学も学んでいるし、フットボールの推薦的なこともあったし、何でもできて、アートを選んだのは、それを元に好きに出来る、ということなのかもしれないが、舞台の場所がでかいし、映像の質は高いし、なんだかすごい。
「クレマスター4」。これが最初の作品らしく、途中、映像的にあんまりだ、みたいなところもあったが、どうしてこういう映像がイメージできるんだろうとも思ったが、もしかしたら夢を形にしているところが多いのかも、と思い、だけど、こんな夢見ているって、どれだけ変態なんだと思った。3も思ったけど、強い映像と強いエピソードらしきものも、よく分からないまま、どんどん過去になっていく。クレマスター、というタイトルに、妙に忠実だったりする場面があって、変におかしい。
「クレマスター5」。オペラがずっと流れている作品。最後は、A−8。一番前のほぼ正面。今回は、売り切れ間近で、一番後ろが、妻と一緒に見たDで、あとはBとAばかりだった。隣に座った男性が、開始5分くらいで寝ている。自分も、ここまで何度も寝ていたら責められないけど、いびきが聞こえる。映像の歌と、両方が聞こえる。途中、静かな場面のときは、いびきがやんだ。何らかのパフォーマンスのようだった。
見た。
つかれたりもしたけど、でも、見ている時に、世界に対しての見方が、妙に黒い感じになっていた。それだけ影響されたのだと思った。
(2017年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。
2012年8月29日。
椹木野衣がツイッターでほめているのを、というより、驚きと共に紹介しているのを村上隆のツイッターで知って、そのあとに会田誠もすごい、というような言い方をしているのを知って、見たいと思っていた。
2018年12月8日。
デュシャンの作品がまとめて見られる、というので出かけた。
1部は、フィラデルフィア美術館が所蔵する作品を中心に、かなりたっぷりと見ることができて、それで改めて、どうして「レディメイド」が出てきたのだろう、と不思議に思えたが、やっぱり満足感があった。ここから、現代美術が始まったと、改めて思う。
ただ、第2部の「デュシャンの向こうに日本が見える」という企画が、あいまいに思えた。デュシャンの作品と、さらに時代的にはもっと前の日本の工芸品、絵画などとの類似点を匂わせているように感じる。
もし、千利休の見立てが、デュシャンの「選ぶこと自体が作品」とかなり似ている、というのであれば、この展覧会をフィラデルフィアに巡回させ、その図録に、現代美術の源流は千利休の見立てなど、日本に発見できる、といった論文を書き、もちろん英語でも載せて、ある意味、西洋が中心である現代美術界に戦いを挑む、といった覚悟があれば、それが成立するかどうは別としても、この第2部の展示も、もっと違うものになったのに、とは思った。
それは観客の勝手な思惑かもしれないけれど、でも、そういうことも考えたのだから、この展覧会の主旨には、見事に沿っているのかもしれない。
2013年11月30日。
阿佐ヶ谷住宅、という場所があった、と聞いた。
団地、というには、どうやらもう少しおしゃれなところのようだった。写真で見たら、赤い屋根の団地は少し可愛くて、そして給水塔がとっくり型でそそりたっている光景は新鮮だった。私にとって集合住宅の水は、それぞれの棟の上に四角の金属の入れ物があり、そこまで水をあげて、そこから各戸へ水がいく、というスタイルだったという記憶しかない。
今日から、その阿佐ヶ谷住宅、という団地をテーマにした展覧会を地元のギャラリーでやってくれる。それは、他の場所でやっていて、その写真を見て、見たいなあ、と思っていたからそれを巡回展でやってくれることになって、楽しみにしていた。
を材料として万華鏡を作る、という商品もあった。妻は、その万華鏡を作るのに、植物の材料を選んで、入れてから戻したりもして、熱心に作っていた。完成したら軽く飛びはねるくらいで、周囲からわりと温かい笑いを受けていた。私も赤い屋根の住宅のブローチ「52」という番号が入ったものを買ってもらった。