アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「横浜トリエンナーレ2001」①。2001.9.2~11.11。赤レンガ倉庫。トンチキハウス。

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横浜トリエンナーレ2001」①。2001.9.2~11.11。赤レンガ倉庫。トンチキハウス。

2001年9月14日。

 

 電車の中から、インターコンチネンタルホテルに張り付いてるバッタのバルーンを何度も見ていた。思ったよりも、少し小さいと思いながらも、勝手に気持ちは盛上がっていた。

 

 6月には前売り券を買っていた。

 やっと9月の14日に、初めて行った。

 桜木町の案内所でパンフレットをもらう。こちらのテンションが上がっていても、そこの人は別に関係ない。いつものように、そこにあります。みたいな感じだった。

 

 そこからバスに乗る。メイン会場のパシフィコ横浜の前を通る。途中でイチハラヒロコの言葉のアートがかかっている。クルマに赤や黄色のカバーをかけてあったり、といった作品が並んでいるのが見える。

 

 そういったものを見ながら、みなとみらい地区を大回りして、赤レンガ倉庫へ向かう。途中で、ほとんどの乗客はおりる。最後までいっしょだったのは女子高生の2人。話が少し聞こえてきて、どうやら修学旅行でこのトリエンナーレにも来ているらしい。いいなあ。と思いつつ、自分の高校時代も倉敷美術館に行っているのだが、その記憶そのものがない。行ったのを忘れているというよりも、最初から行ってない感じだから、もしこのようにトリエンナーレに来ても、たぶん何の記憶も残さない可能性がある。

 

 赤レンガ倉庫は、刑事モノのドラマか何かでよく出ていた、もともとは廃虚のような場所だった。バスで着いて、その入り口。柵が綺麗で、広くて、表示してある看板みたいなものが、いい感じで、とてもよかった。1人が自転車に乗り、1人が立って話しているオジサン達でさえ、その広い場所でカッコよく見えるくらいだった。

 

 赤レンガ倉庫の入り口には、トラの像。

 中に入る。カウンターで前売り券を入場券に変えてもらう。そして、3枚のポストカードをもらう。入る時、小さな黄色い丸いシールを妻と一緒に左肩のところに張られる。この中にいる時は、これをつけていてください。と言われる。

 

 最初の部屋に映画のようなスクリーンがある。音楽。時々、2つもしくは3つに分かれる画面。モノクロだったりカラーだったり、人が何か演説していて、その周りの風景は川が流れていたり、言葉が分からないし、何があるのかも分からないが、戦争があったり子供が遊んでいたり、貧乏だったり、いろいろなことがあって、何か膨大な時間や人が関係していて、何故かかなり見てしまう。30分くらい見たが、全部で45分くらいだそうで、この場所にこういう作品があると、その後のが見られなくなるよな、などと勝手なことを思う。マッツ・イェルム。人から人へ。という作品だった。

 

 アラン・セクラ。魚河岸の光景とか様々なものに、軍国主義的なものを見ているといった作品。確かにそうだが、それならば、やっぱり野球部的な光景は必要かもしれない。

 

 クシュトフ・ウディチコ。女の人が、(たぶんメキシコ)いろいろひどい目にあって、こういうまとめ方も実は失礼に違いないのだが、でも、警察にもひどいことをされ、そんな話しをしていると、その顔がアップになり、パビリオンみたいに出入り口が出来たりして、飽きさせない。でも、見て、暗い気持ちにはなる。

 

 そして、1階では束芋の作品。前後に広がる空間で、日本の通勤快速というテーマで、次々と画面が変わっていく。空缶が前から後ろへ転がっていったり、そういう技術的なことよりも、昔のガロの漫画のような不気味な感じ。電車の乗客が寿司ネタになって、外の巨大な人間に食われていく、といったような映像などが、妙な刺激になるが、電車って特に通勤関係とかはこんなすさんだ感じだよな。と共感できる。後で、作者が女性と知った。

 

 この会場は思ったよりも広い。2階、3階もあって、正直、見て回っていて、その先にも何かがあると、えーまだあるの。もう疲れたという気持ちにもなる。

 それでも、いくつか印象に残るものは自然に出てくる。

 

 ウイリアムケントリッジ。立川で見て以来、見ると、名前は憶えてないが、ああの人だ。などと自然に思ってしまう。この時もそう思った。クスリ箱と題された作品。薬箱みたいなものがあって、その中で映像が展開される。一枚の絵を描いて、そして消していく過程も含めて撮影しているらしく、その手作り感にはわざとらしさが少なく、なぜかそれほど劇的な展開がそこになくても、見てしまうものがある。もっと他の作品がなければ、もっとゆっくり見ていたと思う。

 

 紙とかを自分のダ液で溶かして、壁の向こうで巣作りを続ける作品。この日はいなかったが、これは自分もしてみたいようなこと。

 

 やなぎみわ。自分の50年後。女性に、その理想像を聞いて、その人を人工的に老けさせ、その場面もいっしょにつくり出し、写真にするというもの。モデルとして世界的だったり、歳をとっても若い男といっしょだったり、何しろそこには自己愛があふれていたが、でも現代な感じがした。そこには夫みたいなイメージがいっさいない。そして、この作品が最初に「流行通信」の連載だったと知り、賢くて正しいやり方だと思った。

 

 着物を着た大勢の女性が矢を射る映像が、スクリーンに写っている。その後ろに回ると、同じところの映像だが、その後ろからの撮影になっている。三十三間堂の成人女性の儀式だそうで、美術手帳とかの記事を読むと、少女から成人への通過儀礼に戦争技術である弓道が関係していることに、女性に対する保護とある種の差別を読み取ることができるなどと書いてあるが、それは読み取れず、人の集中していく表情などが大きく映し出される光景にしばらくボッーと見ていた。フィオナ・タンの作品。

 

 ドミニク・ゴンザレス=フェルテル。室内。その壁に少女の像や人影がぼんやり映ったりするが、不気味さや恐さや閉じこめれた感や、どれもそれほど感じず、予算がかかっていそうなのにと残念だった。

 

 沖啓介。自分の脳を立体化した作品。たくさん並んでいた。でも白く石膏にするよりも、もっと本物と同じような色とか質感とかにすれば、もっとおもしろかったのに、と勝手なことも思った。

 

 藤幡正樹。変な眼鏡をかけると、線と画面で出来た迷路に迷いこんでいるように思える作品。立体化している。銀河がたくさんあって、広い宇宙の、その中の一つにすぎない。そして、その他は広大な何もない場所。みたいなイメージを思い出した。

 音声ガイドをつけて、初めて分かる作品もあったが、有料なので今回はやめた。

 中にあるカフェで、コーヒーを飲んだ。2人でしゃべった。汽笛がなった。赤レンガパークにあるオノ・ヨーコの作品などを見逃して、後でとても残念になった。

 こういうたくさんあるのは、全部見なくちゃ、という貧乏根性でたくさんになって、もしかしたら普段よりも集中力が落ちてるかもしれない。

 スタンプは、もらった。

 

 その後、歩いて、トンチキハウスへ。

 県民ホール。この前も来たが、山下公園のすぐそばなのに、ものすごく寂れた感じが建物全体から、漂っている。他の催し物は、普段通りやっているようで、まったく関係なさそうな中年女性達がたくさんいる。

 階段を降りていくと、畳の広いスペース。ただ、この時は、大木裕之の映像作品。全体は暗いままだった。

 福田美蘭の塗り絵プロジェクトをやる。小さな白い紙。どうやら、お花畑のような画面。一応、塗る。どこか奇をてらって。できた。受付に持っていくと景品をくれる。いそいそ。持っていったら、ティッシュをくれた。武富士。いつも街頭で配っている武富士ティッシュ。そういえば、こんな菜の花畑だった。それが塗り絵になっていた。とんちのようなこと。悔しいが、気持ちよくなる。

 

 だらだらして、200円のコーヒーや、妻は紅茶。ポップコーンも食べた。Tシャツも見た。3000円とか4000円とか。こういうものをいいと思ったら躊躇なく買えるような経済力は欲しい、と思う。

 

 他の人達もでかいクッションに寝転がっていたり、としばらくいると、そこの空気はダラーンとしていて、おもしろいとも思う。

 

 妻の好きな須田悦弘の小枝の作品は、結局、見つからなかった。

 

 ここに来たいから、ここが終る9月15日の前(コンセプトは、海の家なので、早めに終わってしまう)に、一度来ようと思っていた。

 そういう意味では、満足で、充実していた。

 さすがにお祭りだし、国際だし、作品に、力が入っているように思う。

 次のメイン会場が楽しみだが、全部見られるかどうかは、とても不安。

 今から、勝手なあせりがある。

 

 

(2011年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

 

 「横浜トリエンナーレ 2001」

https://www.yokohamatriennale.jp/archive/2001/index.html