アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

トークイベント「岡﨑乾二郎 × 岡田温司 × 土屋誠一」美術館という地雷原──それらは不発のままで保たれうるか?2017.6.2 。ゲンロンカフェ 

2017年6月2日。

 ゲンロンカフェのトークイベントには、時々、出かけている。

 

 1月にはアートに関する、新しい動きのイベントに参加して、その時も若い人が多かったが、今回も若い人が多いように思うし、いわゆる関係者が多いらしく、あちこちで別々に来たらしい人たちがあいさつを交わす姿があって、考えたら、自分のように、何の関係もないのに、このイベントに来る、しかも働き盛りなどと言われる年代では、少なくて当たり前だとは思ったが、でも、岡崎氏は、すごく頭がいい、という印象だったが、岡田氏があまりにもダンディーで目を奪われてしまった。

 

 司会のようなポジションに土屋氏がいて、この4年くらいの、アートの表現に対しての介入や規制のことをあげた。確かに、こんなにあったんだ、というくらいで、特に東京都現代美術館では2回もあって、それも観客としては、同じ人がからんでいるのを思うと、その人自身の問題も大きいのでは、というのと、組織としてのありかたで、従順すぎる人を、というよりも意識しないで毎日従うのが当たり前になっていく人になるということなのだろうか、といったことを思ったりもして、その本人にはそんな意識はないのだろうけど、偉くなる、という下世話な言い方だけど、それに魅力を感じすぎる人がいるのも事実だし、そのことが問題なのかも、と思ったりもした。

 

 岡崎氏は、最初から、根本的なことをサラッと言って、場を支配していた。批評協会は、表現の自由のため、は最初から決まっているのに、という言い方をしたりもして、話が進むにつれて、俺を倒してから、批評をしてほしい、といった表現や、美術というのは、分かる人には分かる。言葉を使わないで伝わっていく。たくさん見れば、それで分かる。それが面白い。おそらくは、介入があった時には、説明し過ぎたのではないか、といったことを話をしていて、こういう人がもしいれば、素人には分かるか、ということを無言の中にも圧倒的にかもしだして、介入をふせぐことが出来るのかもしれない、といったことを思ったりもして、だけど、観客としては、ではアーティストは、どうあるべきか、ということも聞きたかったのだけど、質問が出来る雰囲気ではなかった。というよりも、質問する勇気が持てなかっただけだと思う。

 

 岡崎氏のすごさを、改めて分かったので、本も読もうと思ったが、言語だけで全部が説明できないから、美術の作品がある、という当然のことも確認させてもらった気もした。だけど、介入などに、岡崎氏のように出来ない場合、どうすればいいのか、といったことも聞いてみたかった。

 

 午後10時にトークイベントは終わった。いつもよりも早い時間に始まったから、3時間半だった。それでも長いけど、この場所では平気で午後11時を過ぎるので、それはとても異常なことというか、素晴らしいことで、長ければいい、ということではないけれど、時間がないと出来ない事も多い、という当たり前のことも改めて分からせてくれたような気もする。

 

 

 

「岡﨑乾二郎 × 岡田温司 × 土屋誠一美術館という地雷原──それらは不発のままで保たれうるか?」

https://genron-cafe.jp/event/20170602/

 

 

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