アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

2005年 『美術手帖』第13回 芸術評論募集。落選原稿。『「スーパーフラット」の先の先』。

美術手帖」サイト

https://bijutsutecho.com

 

1996年に急にアートに興味を持ち、『美術手帖』という専門誌も時々買うようになり、そこで「芸術評論」を募集しているのを知り、初めて応募したのが、第12回の2003年だった。まるで、村上隆奈良美智への「ファンレター」のようになった自覚もあったのだけど、当然のように落選した。

 

 その後、「芸術評論」は不定期な応募だと知ったのだけど、2年後の2005年にも応募があり、次は、村上隆の日本国内の評価が低いと勝手に思い込み、だから、村上隆中心の「評論」にしようと思った。

 

 さらに、前回の落選を顧みて、自分だけの考えでなく、他の人の視点を入れないとダメなのだろうと勝手に思い、さまざまなものを読み、その引用もするようにした。

 

 自分なりに考えたと思ったのだけど、また、当然のように落選した。

 

(ここから先が、応募した文章です)。

 

 

 

スーパーフラット』の先の先。

 

 

1.

 

 1994年。アメリカでのサッカーのワールドカップ。その予選で苦戦したアルゼンチンは、代表にマラドーナを復帰させた。サッカー史上に残るプレーヤー。5人抜いてゴールを決めるという超人的なプレーも、手を使う反則でゴールを決め「あれは神の手」とコメントを残すのも、同じ試合という「伝説」を持つ天才。そして、マラドーナといえば、ドリブル。だけど、その94年の復帰時には、運動量が減ったせいもあってパスが多くなっていた。さらに、テレビ画面で見ていると、何だか不思議な感じがしてきた。そのゲームのマラドーナは、次の選択が分りにくいだけでなく、プレーのタイミングそのものが異様だったからだ。一流であっても、ボールを止め、周りを見て、次のプレーをする。そうした1、2、3、といった規則的なリズムの中にいることが多いのだが、マラドーナのパスを出すまでのリズムは、例えて言えば1・3とか、極端にいえば2・74といったものまで感じさせた。だから、ゲームの中で異質な存在だった。そのプレーの傾向は、ワールドカップの本大会でも続いていたが、途中でドーピングのため姿を消した。その、どこか違和感を感じるプレーの印象を思い出し、そのリズムの意味を再び考える機会を与えてくれたのは、村上隆の作品であり、やっていることだったり、やろうとしていることだった。もう少し細かくいえば、「戦略」からは、はみだすようなものだった。「スーパーフラット」にも、それが見えていた、と思う。

 

 

2.

村上隆は、九〇年代半ば以後、日本を代表するアーティストとして世界的に

注目されているが、それはけっして不思議なことではない。日本の伝統美術の平面表現をとことんまで洗練した上で、それをアニメの図柄で置き換えてみせるというのは、実に巧妙な戦略であり、また、その戦略を具体化してみせるテクニックも水際立っている。

(中略)村上隆は、ポップ・アートの後でもなお内面の深みという神話を捨てきれずにいる欧米の美術を尻目に、日本こそ内面が蒸発し尽くした「スーパーフラット」な美術がある、それこそが世界の未来を先取りするものなのだ、と大見得を切ってみせるのである。

  もちろん、日本の伝統美術の中からとくに平面性を取り出してくるのも、それをアニメの平面性とつなげてみせるのも、世界市場に向けてのマーケティング戦略に過ぎないことは言うまでもない。(中略)現に、村上隆の組織したグループ展自体は、狭い会場に「おたく」文化のゴミを詰め込んだといった印象で、総じて質は低いし、かといって質的判断を突き破るようなインパクトにも欠けていた。その点ではむしろコンセプト・ブックの方が展覧会より重要かもしれない』。(浅田彰 月刊『波』2000年9月号 「スーパーフラットアイロニー」より)。

 

  この文章全体では、ただの「スーパーフラット」肯定論ではないのだが、特にこうした部分は、「スーパーフラット」を語る時に「基準」となりそうな文章でもある。

   しかし、もし「コンセプト・ブック」をより忠実に再現した「スーパーフラット」展に近付けようとするのだったら、金田伊助のアニメーションなど、「今の日本のリアルを表現する作品」(註1)をさらに追加するだけでなく、伊藤若沖狩野山雪などの作品が、その会場に並ばなくてはいけないはずだ。だが、それが具体化することをイメージすると、その矢印はひたすら未来を指すものではなく、伊藤や狩野の作品が昔のものという意味だけではなく、さらに、想像以上に、妙な混乱が表れそうに思えるのだ。

 

 2000年に京都国立博物館で「没後200年 若沖」展が開かれ、その後、六本木ヒルズの最上階、森美術館の最初の展覧会「ハピネス」(2003年)にも、伊藤若沖の「鳥獣草木図屏風」が目玉の一つとして出品された。そこで改めて感じたのは、そうした作品に関する(一般的な観客としての)自分の見方の微妙な変化である。どこか「西洋人化」した目線で「日本にもなかなか面白いものがあるじゃん」という見方ではなく、自分達と直接、つながりがあるものとして見ていたのだった。

『とことん自己完結していて、なんだかよく分からない——その点において、伊藤若沖はいたって現代的な人間なのである』。(橋本治「ひらがな日本美術史 5」 ひとりぼっちなもの 伊藤若沖についての文章より 新潮社 2003年)こうした文章にも、より抵抗を感じなくなっていた。『若沖は、絵を描くことだけが好きだった。他に好きなことはない。絵と出会って、ようやく「この世に自分の好きだと思うものはある」と気がつけた人間である。そういう人間なら、思うことは一つである。「ちゃんとした絵が描きたい」——絵と出会った伊藤若沖は、そのことしか考えなかったはずである。絵がちゃんと描けるようになるまでは、「ちゃんと描けるようになりたい」と思い、「ちゃんと描ける」が実感出来るようになったら、それを実証したいと思って、ひたすら絵を描き続ける。伊藤若沖という人間の履歴をたどるのが「簡単だ」と言うのは、彼の人生にあるものが「絵」だけだったからである』。(前出「ひらがな日本美術史」5より)。これも、まるで「どこかにいる現代の人」のように感じるようになったのも、「スーパーフラット」の影響に思えて仕方がなかった。

 

 明治以来の日本を、こんな風に書いた文章がある。

 福沢諭吉こそが、日本の近代思想の基礎を作ったという話の後、『すなわち、保守も革新も、資本主義者も社会主義者も、民衆も指導者も、しょせんは福沢思想事典の中で議論してきたのだ。(中略)。ところが、福沢には、反面的に注目すべき論文がある。原稿用紙五枚ほどの「脱亜論」である。竹内好がその反面的重要性を指摘して以来、各種アンソロジーにもよく採り上げられるようになった論文である。

 この論文の主張は、題名どおり、亜細亜からの離脱である。

(中略)だが、今や、福沢に始まった近代主義・民主主義は、私がこれまでメンメンと書いてきたように、明白に破綻し、行きづまりを見せている。(中略)たった五枚で福沢が「脱却」し「離脱」できたつもりの、アジアに、前近代に、儒教に、封建主義に、あまりにも巨大な忘れものがあるのだ』。(呉智英「封建主義、その論理と情熱」より。1981年 情報センター出版局)

 こうした文章と同じように、というよりは一歩進んで、村上隆の「スーパーフラット」も、「脱亜論」への見直し、ということに対して、結果として答えを、さらに具体的な形にして示そうとしているように見える部分がある。

『現代美術が西洋で作られたゲームである限り、向こうのルールをある程度理解しなければ全く認められないっていう状況はしょうがない。だからこそ僕は日本人やアジアの人が自らの手で作るルールについて、そのルールブックを作れるかっていうチャレンジをしてみたいんですよ。《中略・プロのアーティストも無視出来なくなった「誰でもピカソ」のことや、村上隆自身が庵野秀明エヴァンゲリオンの監督)らのオリジナル・ドローイングが欲しいという話の後に》そんなリアルな感覚に文脈をつけ、歴史的な座標点を指し示していく、しかもずっとタフにあらゆるチャンスにあらゆる言語で、それが新しいアートの法則を打ち立てる最小限の仕事だと思う。で、これやります。』(「スタジオボイス」(株)インファス 1999年5月号 村上隆の文章より)。

 ひたすらに「西洋化」を目指してきた「脱亜論」な世界に対して、見直すとすれば、一つは「反・脱亜」といっていい「ナショナリズム」な方向がある。もう一つは、さらに「西洋化」を進めて、西洋を超えるくらい西洋化する。これは「超・脱亜」と名付けていい方法で、浅田彰の「スーパーフラットアイロニー」の『村上隆は、ポップ・アートの後でもなお内面の深みという神話を捨てきれずにいる欧米の美術を尻目に、日本こそ内面が蒸発し尽くした「スーパーフラット」な美術がある、それこそが世界の未来を先取りするものなのだ、と大見得を切ってみせるのである』といった方向も、その一つかもしれない。

しかし、「で、これやります」で終わる文章を1999年「スーパーフラット前夜」に書いた村上隆は、そのどちらからも微妙にずれている気がするのだ。それから、数年後の村上の文章にも、そのズレを感じる。

ウォーホールにおいても、彼はキャンベルのスープ缶をただ描いただけのイラストレーターだったわけで。それがなぜ、いつの間にかアーティストになりアートとなったのか。そのポイントは「アート」の歴史、そして「ルール」の理解と再解釈だったのです。

ずうっと、そんな調子で日本のアート界はくさい物には蓋をして、なぜ?と言うことにアタックしてこなかったけれど、そこに満足いかなくなっちゃったのが僕らの世代だと思います。で、今われわれが行ないたいのはズバリ「ルール」の再編成だったりするのです。

日本のアートには、ずっとルールがなかった。

でも、だからといって、僕は日本を否定したいわけじゃありません。日本人の持っている趣味性、工芸好き、アウトサイダーアート性。西洋だったら負の要素にしかならないそういうものが、実はこれからの芸術の本道になりうるかもしれない。そこからアートの世界の新しいルールを作ろうと、僕は本気で考えているんです。アメリカで大爆発した「SUPER FLAT」展やパリで話題になった「Colohiage」展はそのステップのひとつだし、日本でやってる「GEISAI」も、そうした土壌作りの一環としてやってるんです。』

(「ツーアート」 ぴあ(株)。ビートたけし 村上隆 共著より 2003年)。

 たぶん、そのズレは、自分が育ってきた「脱亜」な世界を否定しない。それでいて、それを、絶対的に正しいともしない、ということから生じているのだろう。ただ、その「脱亜」な中で自分が感動したり影響を受けたことには素直に感謝しつつ、でも、それを前提としながら、これからは、自分がホントに進みたい、そして「欧米の奴隷」でもない進むべき道を行こうとすること。「反・脱亜」でも「超・脱亜」でもないベクトル⋯⋯(註2)。

「脱・脱亜」という道。それが村上隆の歩んでいこうとする方向ではないだろうか?そのため、「超・脱亜(西洋化)」と考えようとすると「スーパーフラット」に微妙な混乱が見えるのではないだろうか?「脱亜」の最も先端に進まなければ、そこを「脱」することも出来ない。だから「スーパーフラット」は、「超・脱亜」と区別がつかなくなる。それならば「スーパーフラット」の先(註3)は、もっと明らかに「脱・脱亜」の姿がはっきりと表れるはずで、その時は「超・脱亜」の見方からは否定されるようになるだろう、と予想される。

 

3.

 1980年代、「西洋」の「本場」でまず認められ、それから日本に「逆上陸」という似たようなパターンを味わった森村泰昌と、宮島達男が、似た発言をしている。

『「表現」の源流、最も深いところへと遡っていくと、形も色も音もない、作っている本人すらとらえどころのない「欲望」にぶつかってしまうのだろうと思います。今のところ、私はこの事に関して、「人間は表現というものをなぜかやらかしてしまう存在なのだ」としか言えません。そして、それは真実だとおもっています』。(NHK人間講座テキスト「超・美術鑑賞術」森村泰昌より 2002年)。

 宮島達男はトークショーで、(註4)次の展開への戦略という質問をされて、⋯⋯自分の気持ちに正直にというか、やりたいようにやる、といった答えをしている。

  こうしたアーティストだけでなく、小説家の保坂和志美術評論家の若林直樹が、共通するようなことを言っている。(註5)それは、どれも「プリミティブ」過ぎるようにも感じるのだが、しかし、21世紀という節目付近で表れてきた言葉でもあり、どれもが「大脳への絶対的な重視」への本質的な疑問のようなものを感じさせる。

『数十年にわたって持続され、いかなる孤独や無理解、貧困とも関係なくそのひとに棲みつづけ、たったひとりでもそれを実現してしまう「なにか」「それ」「たたかい」なくして、われわれはそれをアートと呼ぶことができるのでしょうか。その意味で、アーティストとは職業ではありません。それは、一種の特異性、例外性なのです。ゆえに、アートを完全に制度化することはできません。むしろ、あらゆる制度からどうしようもなくはみだしてしまう「なにか」にこそ、アートの所在はあるのです。』(美術手帖 2003年2月号「存在のすみか 宿命の衝動」椹木野衣より)。

   この「なにか」を「新しいルール」として確立する。それは、森村や宮島らが言ったこととも共通し、それこそが、村上隆の「スーパーフラットの先」⋯次の段階へとつながらないだろうか?そして、それを指すものとしては「GEIJYUTU」(芸術)という言葉が浮上してくる。

   村上自身が、この言葉にたいして微妙な引っかかりを示してもいるし(註 6)、元々、日本にはなかった概念を無理矢理輸入し、100年以上がたって「芸術は爆発だ」(岡本太郎)といったことも込みで、様々な意味が追加され、西洋の「ART」とはかなり違うものになってしまったことも、「脱・脱亜」の価値観であれば、かえってプラスのことになるだろう。

    問題は、主観的なことを普遍化するような「ルールの設定」だが、「スーパーフラット」を確立させた村上隆ならば、可能性は高い。

 

   一つは、大竹伸朗の存在である。『1987 東京の佐賀町エキジビット・スペースで大竹伸朗展を見て衝撃を覚える。頭の中にわけの分らない音がワワワ〜ンと2日間くらい鳴り響いていた。圧倒的な作品の数量と見た目「自由」な印象に、「現代美術をやりたい」と強く思う』(ブルータス2001年9月1日号 村上隆の文章より)。他でも大竹に触れている(註7)のは、そのことを忘れていないということでもあるだろうし、「スーパーフラット」で敬意を持つアニメーターをアートの「文脈」(註8)にきちんと乗せたのと同様に、本人が望むかは分らないにしても、大竹伸朗も「新しいルールの確立」によってキチンと「本場」に認めさせ、「歴史」に残すというのは、村上にとって、まだ「宿題」になっていると思えるからだ。

 

  もう一つは、日本には江戸時代に「粋」と「野暮」という基準があったという歴史があったからだ。これは主観的なことを、でも微妙で繊細な基準が確かに存在した、というのは自分の祖父や祖母の記憶などをたどると分ると思う。そして、このルールには「それが分かんないから、野暮」という変な説得力がある基準もあったはずだ。

そして、さらに一つは、やはり村上隆の持つ「なにか」である。『何度もくり返していますが、アートは「ゲーム」だと思っています。そしてアーティストは、その巧妙な「からくり」を作る張本人足るべきなのです。ですので僕はやっぱりゲームの核心を作るようなことをしたいのです』。(前出「ツーアート」より)。この本の中でも、こうした発言を村上隆はやたらと何度も繰り返している、という印象が残るほどで、そこにも「なにか」を感じ、それが可能にするのではないか、という予測である。もちろん、すでに「GEISAI」や、そこでの審査の方法など、その蓄積は始まっているといってもいい。

「GEIJYUTU」を「新しいルール」として成立させるとは、つまり、こういうことだろう。

『「日本での美術の再構築」を通じて更新された、新しく自前の美術のルールを、日本から「本場」へと逆向きに提供することを意味する。もちろんそれは「こちら」が新たな「美術の本場」となることにほかならない。そして、それはついに「本場の美術」をも書き換えてしまうことを意味する。そのうえで村上は、洋の東西で対照的といってよい土壌の違いを理解した上で、異なる世界との間に、「表現」を志すものであれば誰もが通ることのできる、自前の一本の橋を渡そうと考えている』(椹木野衣「爆心地の芸術」 『スーパーフラットを超えて』より 晶文社 2002年 )。

 

 そうなれば、間もなく「GEIJYUTU」という「新しいルール」で古今東西すべての「表現」が再評価され、「本場」と呼ばれる場所さえなくなるかもしれない。その時こそホントに「スーパーフラット」な地球。デュシャンで始まった20世紀のアートは、村上隆で完全に終わりを告げる⋯⋯そんな今のところ妄想に過ぎない「脱・脱亜」の方向へ進まなければいけない理由もある。アメリカと運命を共にしないためだ。

『たとえば近年、国際展と称されるメガ・エキシビジョンでは、数年で身につけたフットワークの軽さとコネを使い、フラッシュ・アイデアめいた展示のコツだけでアーティストと称し「アート・ワールド」をゲームさながら渡り歩いていこうとする輩が後を絶ちません。そこでなによりも重要なのは、若さと新しさ、つまり「商品としての価値」にほかなりません。そして、そのゲームの作法は、いま、グローバリズムの拡大とともに非欧米圏にまで広がりつつある。そこに欠けているものがあるとしたら、それこそ(中略)「なにか」です。

9・11」以前であれば、それもよかったかもしれません。しかし、あの事件以後、わたしたちは「アート・ワールド」の少なからずが、「対テロ戦争」を闘う側の論理にうまく乗っていることを知ってしまいました。』(前出 美術手帖「存在のすみか 宿命の衝動」より)

   そしてもし、『「GEIJYUTU」展』と言える展覧会が開かれた場合、村上隆の作品の中から選ぶとしたら、私(筆者)は「727」をその候補にあげたい。

 

4.

 1996年。「トウキョウポップ」。平塚市美術館で初めて村上作品を見た。その時はミッキーマウスの出来損ないにしか見えなかったDOB君が、こっちを少し斜めに向いて笑っていた。「そして、そしてそしてそしてそして」(1994年)。後から考えたら、完成度が高く、そのせいで余計に可愛くないと思ったと分るのだが、その時は見た瞬間、嫌な気持ちになった。私(筆者)はいわゆるオタクではなかったが、小学生の頃は毎日テレビを見て、アニメの番組と曜日をセットで覚えているような平均的な1960年代生まれだと思う。そんな人間から見て、その作品は、アニメやマンガの表現を、アートという高い場所から引用して、新しさを出してみました。そんな「戦略」に見えた。

 その半年後「村上隆展 727」(小山富美夫ギャラリー)では、DOB君の目玉が増えたり牙をむいたりして、平安時代の絵巻物のような世界にいた。雲に乗って違和感なく浮んでいる姿。それは、テクニックや構図を美術的には評価された部分もあったらしいが、それよりも見た時に私は「なにか」を抱えている感じがした。それは「戦略」をはみだす「なにか」だった。

 2001年の個展で「S.M.Pko」など、勢ぞろいした等身大のフィギュアを見た。ほとんど人のいない部屋に入り、その作品を見ていると「よく出来てるなー」という感想が何故か口をついて出る。性器や乳房もつるつるだけど、妙に細かく、変なロマンチックな欲望が塗りこまれ、むきだしになっている。妄想が完璧に近い形でこの世にあることの違和感。明るい表面とは裏腹にポップな怨霊が出てきそうで、それを防ぐために呪文として「よく出来てるなー」と言ったのかもしれない、と思うほどだった。これは、村上の「コンセプト」だけでなく、いろいろな人間の欲望を吸収したせいかもしれない。そういうことを可能にする村上の「なにか」が凄く気になるようになった。

 

 そういう「なにか」を感じることは、作品以外にも、いくつもあった。

 2001年東京都現代美術館での個展の際の企画「戦争と芸術」というトークライブの中でも、「9・11」以来、何かが決定的に変わってしまったというリアルな危機感と共に、凄く無防備すぎる感じまでする村上の強い率直さ。

 その時、これからは日本を切り捨ててアメリカのハイアートを極めていこうと決めた。でも、その一方でヒロポンファクトリーのようにまだ形になっていないものをキチンと拾っていく。その両方をやっていきたい、といったことを言いながら、自分は頭がよくないので、ハイアートの世界に実際に手を突っ込んでみないと分らないから、という、体感というものを感じさせる少し不思議な言葉。

「アートを無料にしてしまった」食玩(註9)のことを尋ねられて「ケッコウ他力本願なんです。レールを誰かがちょろっと引くと、ガ〜って話に乗って進むだけ。進み切るとガチャンと止まって、また進路変えてこうガガガガって」(「フィギャア王」 ナンバー71 岡田斗司夫との対談より ワールドフォトプレス)という答え方。

 2005年、大勢の前で話すのは苦手、と言いながら、「GEISAI ♯7」のトークショーの司会をしたり、自身のラジオ番組「FM芸術道場」でプロジェクトの「主役」佐藤江梨子を相手に楽しそうだが、酔っぱらっているのか?と思われるような話を続け、それを放送したりすること。情報公開⋯だけど、どこか過剰なもの⋯。

 

 そうしたことの様々な気配が、村上の発する戦略からはみだす「なにか」が、冒頭の「マラドーナ」のことと結びついたのだ。

 サッカーの天才的なプレーヤーが異様なリズムでプレーしているように見えたのは、最もサッカーというものに忠実だったせいではないか?サッカーのゲームの中で、ベストなパスのタイミングは一瞬しかない。そこに完璧に合わせようとすれば、自分のプレーのリズムは不規則になることもある。普通はそこまで出来ないが、マラドーナはそのタイミングに完全にあわせることが出来たため、自身のプレーのリズムが異様に見えたのではないか?エゴイスティックに見える天才が、そこにいる誰よりもサッカーに身を捧げていたかもしれない事実。村上隆に感じたのも、そんな気配だ。自分の身を削るように、アートに身を捧げた感じが、漂っていたように見えたのだった。(註10)。

 

 椹木野衣は、しかし、既に、こう話している。

『外から見ると、たんに「うまい」というふうに見えるかもしれないけれども、実際にはあらかじめ道筋のない、かなり不透明な部分を抱えていると思うんです。ペインティングにしても、たしかに浅田さんのおっしゃるように、デザイナーとしてひじょうにうまいというか、そういう典型的な作品もあるけれども、彼の作品というのは、相当数あるそういう「うまさ」からかならずずれていくような部分があって、それがつぎの予測できない展開につながっている。いまに至る村上隆の作品を見てくると、連続性よりも不連続性のほうが強くて、なかには(《加勢大周宇プロジェクト》とか)わけのわからないものも多いんですね。僕自身は彼のなかのそういう特異点をすごく評価したいと思っているし、最も興味のある部分なんです』。(美術手帖2001年2月号。「原宿フラット全記録」より。椹木野衣の発言。浅田というのは浅田彰

 そして、「爆心地の芸術」(晶文社)の中で、こう書いている。

『少なくともいえるのは、村上隆は、みずからが純粋に「芸術家」であることも、単純に「芸能人」であることも決定不可能な状態で、つねにその両面をたえまなく交換し続けざるをえない、ということである。そして、美術家としての村上隆の可能性もまた、この両面を行き来するそのダイナミズムの賭けと投企においてこそ、最大の可能性を有している。

 その意味で、「スーパーフラット」ということばに村上が知らず込めた潜在的な二面性は、期せずしてこの作家の存在の不安を、逆さ鏡のように映し出している』。(「動物かオタクか 超・平面的か平面の超克か」より)

 さらに、同書で、村上のこれからについても、こう書いている。

『「美術家としての三段階」が完結したとしても、必ずや彼は、もっと強い敵、もっともっと強い敵、さらにもっと強い敵を設定せずにはいられないだろう』。(その戦いが終わるのは)『スーパーフラットの起源にある「何か」と、彼が和解することによってはじめて、もたらせるのではないか』。(「スーパーフラットを超えて」より)

 改めてこうした表現を抜き出すと、私(筆者)が感じてきたことと凄く似ているようで、そして、「爆心地の芸術」の村上隆について書かれた文章を読み直してみるだけでも、こうしたことに反応しているのが村上隆に最も詳しいと言われる美術評論家でもあるし、正直、ここまで私(筆者)の書いてきたことも必要ないのではと思うほど、様々な表現が十分に重ねてあった。しかし、それでも、個人的に凄く追い詰められて、ただ機械的に動くしかなかった時でも、自分に感情があるんだと教えてくれたのが、頭の中で何度も流れたシド・ビシャスの「マイウエイ」であり、たまたまテレビで見た谷川俊太郎が即興で詩を作って朗読する姿であり、アートの全くの初心者である私にとっての村上隆の作品や、そのやろうとしていることだったりしたから、椹木の書く「何か」を探り当てるというようなことでもなく、自分が感じた「なにか」を考えればいいのだというように思い直し、そうすると、村上の言葉の中にその「なにか」を感じさせる「方法論」が、すでにあるのに気がついた。

『(DOB君がデビューした時に凄く冷たい反応だったことの後)自信がなくなって来て、ポップアイコンは人間じゃないとダメなのかもって思って、「加勢大周宇Zプロジェクト」のような、もどき芸能人製作のプロジェクトをDOBプロジェクトの直後にやってました。ウォーホルのイーディみたいにならないものか。そういう韻を踏めばアートシーンの人間も分ってくれるのではないか?という発想からでしたが、これが完全に裏目に出てしまい、日本のアートシーンから完全に無視され始めてしまいました。ですからアイコン創造プロジェクトは出だしは最低でした。でも初めの確信に忠実に、その後も考え方も変わらずにやり続けて、形になってきた』(「村上隆 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」展覧会カタログ「美術家として生きる」より)

 正直いって、深夜のテレビで見たこのプロジェクトは、こういう意図があったことも分らないようなひどい企画だったのを私は思い出した。芸能界からも嫌がられるような、うさん臭く、「戦略」としては完全に失敗としか言い様がなかった。しかし、それが、今になってみれば、それこそが村上の強みなんだと気がつく。まず、やってみる凄さ。そして「初めの確信に忠実に、その後も考え方も変わらずにやり続けて、形になってきた」とさり気なく書いているが、それは、トライ・アンド・エラー・アンド・トライ。トライ・アンド・エラー・アンド・トライ。トライ・アンド・エラー・アンド・トライ。トライ・アンド・エラー・アンド・トライ⋯⋯という無限とも思える繰り返しを続けてきて、それも休みなく、たぶん異様としか言いようがないほどで、その結果が洗練された「戦略」に見えるだけ、というのが村上の「方法論」ではないか、と思えてきた⋯⋯。

 

 1991年頃の村上隆のことを、椹木野衣はこう話している。

『もちろんまだ芸大生で作家志望だから自分の作品を見せに来たんだと思いきや、自分も含めた五、六人の作家のグループ展を自力で実現したいから、うまくいったら取り上げて欲しいという企画の話だったのね。言ってみればキュレーションですよ。いま考えるとなるほどと思うけど、作家志望の新人で人の作品まで売り込もうというのはちょっと考えられない。だから村上隆っていうのは当時から作家としてのエゴよりも状況の構築を優先に考えていたんだと思う。本能的なものかもしれない。いまの「スーパーフラット」のやり方と同じですよ。(中略)その頃はまだ日本画と二股かけていて、でもものすごくまじめな根を詰めるような作品だった』(「アペル」 vol、4 2001年より)

 さらに、その前の日本画だけを描いていた時を伺わせるのは、村上自身のこんな言葉だ。

「いや、僕なんて他の画家さんに比べたら下手なんですよ。もともとアニメーターになれなくて芸大の日本画科に入ったような人間で、博士号も意地と勢いで取っちゃったようなもんですから。大学出てからはもっぱらアクリル絵具で描いてますし」。(芸術新潮1997年2月号。「たけしの便所の落書きビートたけしとの対談より)。

 さらに並べてみる。

「僕はアニメ業界からドロップアウトしちゃって、それでも業界の末席にでも居場所を見つけてなにかできないかと思い、テクニックを身につけるための日本画だった。双方に失礼な話ですけど」(美術手帖2001年11月号 辻惟雄との対談)。

 こんな言葉もある。

「ブルータス」(2001年9月1日号)の中で「創作活動の支えとなっているものは?」という問いへの答え。『「才能ねーな俺」っていうコンプレックス』

 もしかしたら、それは想像以上に根深い挫折みたいなものかもしれないし、そこからアートに身を捧げるような「無限に続くトライ・アンド・エラー」といった方法をとり出したのかもしれないし、もしかしたらここにあげた言葉や文章よりも意外なほど昔からなのかもしれないが、それよりも、村上が、まだそれを続けているに違いないところが「なにか」を感じさせるのだろう。そのことで、結果として膨大な情報を体で吸収するように得ることができ、それで世の中の流れまで、作品が具体化するようになってしまっていることに「なにか」を感じてしまうのだろう。

 今でも村上は、でも「マラドーナ」ではない。突出した個人ではなく、そういう選手を集め才能を引き出す才能⋯つまり、「スーパーフラット」チームの監督でもあり、(だから、年上の奈良美智を奈良くんと呼び、奈良は村上さんと呼ぶのかもしれない)これからは「GEIJYUTU」チームの総監督であるだろうし、そのことで「アートに身を捧げつつ」、自分も「現役」を辞めようとしない「なにか」を抱えている存在。

『村上 (三宅)イッセイさんマジ尊敬してます。物凄い力技。イッセイさんみたいに、自分の自由を獲得するために作品をつくってきて、最後に自由を獲得したら最低の絵をつくって「アホちゃう?」なんて言われたりして。

浅田 そうね。アメリカ人が派手なフィギュアを買いに来たら、熊谷守一みたいな絵ばっかり描いていたりして(笑)』。(美術手帖2001年11月号。浅田彰との対談より)。

 

 だから、『「スーパーフラット」の先の先』で、それはホントになるかもしれない。「GEIJYUTU」によって、アート界の偉人となった後でも、何の説明もいらず、戦略も必要なく、一発で「なにか」を伝え、本人も見る人にも、「完全な自由」を一瞬でも可能にするような作品を、「まだ」本気で目指しているかもしれない。

「村上さんは日常のリアルを作品に置き換えることをしてきたじゃん。俺はそういうリアリズムが好きなの。そこにすごい共鳴する。それは、形は違うけど自分がやっていることとまったく同じに見える。生活イコール製作、イコール・ヒロポンファクトリー、イコール毎日やるしかない。(中略)それは自分が望むものとすごい近いものがある。形は違うけど。俺は村上さんの作品を評価するというより生き方を評価するんだよ、リアリズムを」(美術手帖2001年12月号。奈良美智との対談で、奈良の発言より)

 

 結局のところ、すごくプリミティブなことだけど、「人間とは何か?」「生きるってどういうことか?」。そして、まるで「一生、部活」のように全力を出し続ける。そんなテーマを決して離そうとしない、そんな姿勢が「戦略」の向こうに透けて見えて、そのことで私は村上隆に興味を持ち続けているのかもしれない。それが「ナイーブすぎる」自分にとっては、とりあえずの結論である。

 

 

 

《註1》 渋谷のパルコギャラリーで始まった「スーパーフラット」展に

   ついて、これは、まず「本場」で認められること、に当たるプロジェク

   トではないか、という椹木野衣の指摘がある。(「爆心地の芸術」晶文

   社「スーパーフラットを超えて」より)。だから「日本のコアなカルチ

   ャーのもっとも強度ある部分がそぎ落とされている」とも続けているの

   だが、それで、「スーパーフラット」展を見た時の、ある種の物足りな

   さも理解できたと思えた。

 

《註2》 2005年現在、「サンボマスター」というバンドにも、そん 

  な「感覚」を見ることができる。衝動を前面に押し出したような(今ど

  き)ロック バンドという名前が似合いそうな魅力的な演奏。彼らが、

  テレビ番組に出て、自分達のアルバムのタイトルが「新しき日本語ロッ

  クの道と光」である理由を司会に聞かれ、少し詰め寄るようにこんな風

  に答えていた。政治的には仕方がないのかもしれないけれど、でも、ど

  うしてこんなにアメリカ、アメリカなのか?そういう気持ちをこめて、

  こういうタイトルを選んだ、と。だけど、アメリカを嫌っているわけで

  もなく、自分達を感動させてくれた「西洋」のミュージシャン達には敬

  意も持っているようだ。その上で自分達がやりたいことをやる。そんな

  姿勢。それは、どこか「スーパーフラット」とも似ていないだろうか、

  というのは言い過ぎだろうか?(註8を参照)。

 

  《註3》 《ただ、僕の中では若干、閉じてきている。『NYタイムズ』

   に最初に出たときは「これだよ」って思ったけど今はそれでは自分が補

   完できなくなってるんです》(美術手帖 2001年11月号 浅田彰

   との対談より)と、村上自身が語っているのが、「スーパーフラット

   がまさに最新の「コンセプト」に見えていた頃だから、次の段階には

   新しい言葉が必要となってくるのだろう。

 

 

  《註4》 1999年12月。佐倉市立美術館「知覚の実験室」展の企画

   で行われた宮島達男の講演会にて。講演後の「宮島のトレードマークと

   なっているLEDについて、もし飽きたらどうするのか?」という質問

   に答えて。

 

  《註5》 保坂和志の小説の中でこうした文章がある。

   「音楽や絵が、郷愁を誘ったり、おぞましく感じられたり、優しく包

   み込むように思えたり、生の深淵を垣間見せたりするというのは、個々

   の題材やメロディ・ラインや楽器の音色のことではなくて、それを超え

   た、もっと説明のつかないところに理由があるからで、脳が言語や物の

   識別をできるようになる前までさかのぼっているのだとしたら、それを

   言葉で完全に分析しきることはできない」(「カンバセーションピー

   ス」新潮社 2003年)。

   「退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史」(河出書房新社 

   1999年)で、若林直樹が書いている。「身体経験による想像力

   は決して同じ表現を生まない。何を見、聞き、触り、嗅ぎ、味わった

   か。

   近視なのか遠視なのか、頑強なのか、病弱なのか、足は大きいか、指は

   細いか、そして事故で腕を無くしたか、病気で歩行を失ったか。誰に育

   てられ、どこに住み、誰を愛し、誰と共に生きるのか。個々人の間のす

   べての差異が想像力の差異となる。そして、このような想像力が存在で

   きる共同体こそが、私たちの未来に幅広い選択肢を保証する」。

 

  《註6》 『うーん。芸術という言葉の日本語的ないい加減さのポテンシ

   ャリティも捨てたくない、俺は』(美術手帖2001年12月号。奈良

   美智との対談の中で)。

 

  《註7》 「村上 大竹さんは、僕はすごく大きな問題を孕んでいるア

   ー ティストだと思うんだけど、日本のアートシーンのみならずサブカ

   ルシーンではずっといまでもヒーローなんですよ。ビジュアルとして、

   彼が作るようなコラージュが求められているんですよね、延々と。」

  (「不可視なものの世界」より 東浩紀 朝日新聞社  2000年)。

   「プリミティブな作家像、作品創作動機だけを重視する日本のアート

   シーンのスター、大竹伸朗さんのような動きこそわれわれのリアルなの

   か」(美術手帖2001年11月号。浅田彰との対談の中での村上の

   発言)。

 

  《註8》 『この「スーパーフラット」という言葉に関してはプロモー

   ション的キャッチ・コピーであったり、「縄文的」のような発想で発生

   させた言葉であるというのは邪推です。もっとプリミティブな研究の果

   てに、たまたま探り当てた言葉なんです。金田伊助さんという、ひとり

   の天才アニメーターがいて、この人のつくりだしたアニメイトに受けた

   感動を僕なりに徹底的に解釈したい。そこからスタートして見えてきた

   風景のなかに「奇想の系譜」や日本のアニメの歴史、ホルスト・ヤンセ

   ンなどの自分がシンクロできる特定のモードをハッキリと整理したく

   て、それらの素材をコレクションしてきたのが、スーパーフラットの本

   の方です』。(美術手帖2001年2月号 「原宿フラット全記録」よ

   り 村上隆の発言。「縄文的」というのは岡本太郎の「縄文的」文脈を

    指す)。

 

  《註9》 2003年12月に売り出された「スーパーフラットミュ

   ージアム」のこと。30万個限定。希望小売り価格350円。それに先

   行して、各種限定エディションがある。その後、色をかえて別バージョ

   ンもコンビニで発売された。

 

  《註10》 2001年4月29日。東京「ナディフ」での大竹伸朗のト

   ークショーの相手に指名された八谷和彦が、なぜ自分を選んだのか?と

   いう問いに、大竹が、ポストペットで成功したのに、そのお金をエアボ

   ードプロジェクトに注ぎ込んでいたりして、それが「アートに身を捧げ

   てる感じがしたから」という答え方をしている。

 

 

 

 

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