アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

2003年 『美術手帖』芸術評論募集。落選原稿。「奈良美智と村上隆」

 1996年から、急にアートに興味を持った。

 1999年から、介護を始め、いろいろあって、仕事を辞めざるを得なくなり、精神的にも経済的にも厳しい生活になった。

 

 それでも、アートや美術に関しての興味は弱くならず、介護の合間の短い時間に、ペースは落ちたけれど、展覧会やギャラリーへ行っていた。意外なほど、自分の気持ちが支えられていたと思う。

 

 同時に、「美術手帖」という美術の専門誌も、時々、購入するようになった。

 母親の病室に泊まり込み、あちこちに動き回ることを止めるような日々でも、そこに持ち込んで、読んでいた。その時だけ、少しだけ、気持ちが、少し遠くに行けたからだと思う。

 

 

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 そんな時に、この「美術手帖」で、「芸術評論」を募集しているのを知った。介護を始めるまではライターもしていたし、それは主にスポーツ関連を書いていたから、全く経験のない分野だったのだけど、この約5年間、アートに支えられてきた気持ちを書きたいと思った。

 

『第12回 芸術評論募集』に原稿を送った。

 アートに興味を持った時から、ずっと気になっている村上隆奈良美智について、書いた。

 当然ながら、落選だった。

 それでも、書けたことが、少し楽しかった。 

 

 入選作を読んだけれど、自分は、「芸術評論」というものが、恥ずかしいほど、全くわかっていないのは、わかった。

 

(以下、芸術評論募集に送った落選原稿「奈良美智村上隆」です)。

 

 

奈良美智村上隆

美術の授業が嫌いだった。

小学生の頃、絵を仕上げるのが遅くて、放課後に残された。中学の時の美術教師は、いつもイライラしているゴリラみたいに見える女性だった。

 

美術の匂いのする人も嫌だった。

高校時代。隣のバス停から乗ってくる同じ学校の女の子がいた。肩かけカバンを頭にひっかけ、走っていても不思議とずれなかった。彼女は演劇部で、私にとっては美術関係者だった。大学では芸大のサッカー部と試合をしたことがあった。20年前なのに、ハードモヒカンが2人もいた。こういう奇をてらったことをするから、嫌いだ。と思った。マークする相手が、そのモヒカンだった。チームの中では上手い方だったのに、彼はヘディングをしなかった。試合は珍しく大勝した。

 

自分自身はスポーツ中心主義者といってよかった。

スポーツ新聞社に勤めた後に、フリーでスポーツのことを書くようになった。芸術的なプレー、サッカーはアートですよ。そんな言葉に触れるたびに、昔感じた嫌な思いが、かすかに蘇った。どうして特定のジャンルを、無条件に上に置くような扱いをするのか?と思っていた。

 

私は1961年生まれ。高度経済成長の頃に育った人間で、スポーツへの関心の強さは個人の好みの差だろうが、美術やアートへの無関心さは、平均的なもののはずだった。ここまでの個人的な話も、多くの一般的な人が似たような記憶があると思って、書いている。そうやって、30代後半になった。

 

そういう人間が、平塚美術館で「TOKYO POP」という展覧会を見にいった。たぶん初めて、美術作品と言われるものを、自主的に時間をかけてゆっくりと見た。アートというジャンルに属する要素が、初めてこちらに近付いてきたような気がした。あ、これでいいんだ。最初に「ナンバー」というスポーツ誌を読んだ時。深夜のラジオで「ブルーハーツ」の曲を聞いた時。そういう場合と同じように、自分の居場所が見えたような気持ちになった。

 

そして、現在までも興味が持続しているアーティストが、そこには何人もいた。その中で、共感と反発を最も強く感じたのが、奈良美智村上隆だった。30代後半まで、アートに全く興味がなかった人間が、なぜ、興味を持続しているのか?自分が特別というのではなく、そういう平均的な観客の関心の持ち方をたどることで、ここ6〜7年のアートの流れが、ほんの少しでも明確になるかもと思い、この文章を書いた。

 

奈良美智の作品の第一印象は親しみやすいということだった。大きいコーヒーカップがいくつも並び、子供の像が乗っている。はしごに乗って、美術館の壁の向うを見ている女の子のスカートの中は、サザエさんに出てくるワカメちゃんのようにふくらんだパンツだった。そこにあった絵よりも立体の方が印象が強い。完成度も高かった。感情の垂れ流しだけでないから、アート初心者も共感を持ちやすかったのだ、と思う。ただ、子供は笑っていないし、どこか孤独で静かな気配もあった。だから、共感だけでなく引っ掛かりがあって、興味が続いたのかもしれない。そういう細かい分析を抜きにしても、この展覧会の中でもっとも好印象だった。ナラミチと勝手に読んで、女性だと思っていた。作品も、そう思わせるものだった。一緒に見た妻の方がもっと気にいっていた。

 

それから美術館以外のところで、奈良の作品を見る機会が増えていった。本の装丁に使われたり、街のアートプロジェクトに参加したり、「その人知ってる」という人間に会うことも多くなった。現代アートと言われる分野から一般にも知られる人が出るなんて、という不思議な気持ちになった。これまで関心のなかった世界のことで、自分がちょっとだけ先取りしたような思いになれるのも、妙な居心地だった。

 

その絵は、こわカワイイなどと、ほどなくして言われるようになった。立体もキュートと言われる中に充分にはまった。だが、アートの初心者にとっても、画面のトーンが微妙なのは分ったし、ハッピーだけや、ましてやカワイイだけで出来ているわけでもない。初めて見てから1年を過ぎる頃には、そんなことも考えさせる力が、その作品にはあった。

 

そういう中で「ああ、あの大きい顔の女の子の絵でしょ?」と10歳くらい上の知人に言われた時、私はそう思ったことが一度もないのに気がついた。美術評論家の指摘の通り、テレビなどが普及したある世代以降は、自分も含めて奈良の絵をキャラクターとして見ていたのかもしれなかった。キャラクターだったら、頭がデカいとか髪型が変だとかは、それほど大きい問題ではない。大事なのは、それが魅力的かどうか、だった。最初の奈良の画集の帯に吉本ばななが書いている。「しみじみと孤独でかなり冷たい世界なのに決して居心地は悪くない。むしろ長居していたい」。世代だけで語るのは愚かとも思いつつ、これに共感できるのは、ある時代より後かもしれない、とも考えた。バブル崩壊の後、オウム真理教事件阪神大震災の1995年以降に奈良の作品は受け入れられていった、と知るようにもなり、分る気がした。時代が厳しい方が、よけいに必要とされる作品に思えたからだ。

 

奈良が、ならよしとも、という男性で1959年生まれで自分よりも年上というのを知ったのも、やはり平塚から1年くらいたってからだったが、軽い衝撃だった。意外だったからだ。しかも、写真だけだが、本人が今だに少年っぽいシャイさを持つ人間であるのを見た時は、ずるいと思った。自分よりもモテそうな人間に、すぐに警戒心を持つのはモテないヤツの悪い癖だと知りつつ、反射的にそう思った。そして、女性に人気の出そうな作品を創る人間は、もっと不細工だったりすることが多い。と自分が決めつけていることにも気がついたのだった。

 

「時代の体温展」が、東京の世田ヶ谷美術館で開かれたのは1999年のことだった。ノストラダムスの予言がはずれた後だった。私は雨の日に見た。強い印象が残った。

 

「彼らは共通して理屈よりもみずからの衝動やその手触りを大事にし、気負うことはありません。その表現がはらむ熱。それを、この時代の体温として感じとってみたいと思います。

世界の中の日本をちょっとお休みして身近(DOMESTIC)な場所としての日本のART。これはこの時代を生き抜くための『私たち』の展覧会です」。(チラシの言葉より)。

 

こうした美術館のような場所で初めて熱気みたいなものを感じた。生き残る、という表現もリアルに感じられた。個人的なことに過ぎないが、かなり追い詰められた状態だった。そういう人間にも、アートは必要なものだ、と改めて思わせてくれた。

 

そして、その展覧会で奈良の作品も重要な位置というか存在だった。

プライベートな部屋のようなものをベニヤ板らしきものを使って、作ってあった。ヘッドフォンで少年ナイフ篠原ともえの曲を聞きながら様々な絵を見ることもできる。会場のあちこちに奈良のピルグリムとよばれる立体像が並んでいた。というより、ここにもいた。という感じだった。目を閉じ、こちらへ手をさしのべている子供のような像。こんなところにも、あんなところにも。という場所にもあって、それにはサービスも感じたが、メルヘンだけでもなかった。

 

中年女性が、奈良の作品を見て、かわいいわねーほんとにかわいいわねーを連発していた。それは、それだけじゃないだろう?と勝手に違和感を覚えるような発言でもあったが、人によって見方は違って当たり前だし、いろいろな見方ができるというのは、開かれた存在でもある。ということだった。

 

この時代になって、内向きだけの世界、閉じた世界は、すべてダメになっていくような気がしていた。それは単純にグローバル化を急ぐということでもなかった。たとえば、本や雑誌など、とても少ない知識に過ぎなかったが、たかだかアートに興味を持ち始めて3年の観客にとっても、これまでの日本の現代アート界が不思議な閉じ方をしているように見えていた。最新の西洋のアートのルールをいかに早く身につけ、それを作品に生かすか。その競争のようにも感じられた。そうしたことが、昔感じた「美術関係者は嫌だ」にもつながっていたのかもしれなかった。それは自分に都合が良すぎる見方かもしれないが、そうした傾向はアート界のことだけでもない。そんなことを、アートを興味を持って見るようになってから、改めて考えるようになったし、この「時代の体温展」のアーティスト達も、自分達がやりたいことをキチンとやっている。少なくともアート界の中で閉じようとしていない。そうした姿勢は、かなり遠いのかもしれないが、この頃、海外で活躍していたスポーツプレーヤーのあり方とどこかでつながるような気もした。つまり、これから生き残るために大事なことでもあり、ドメスティックと言いながら、内向きな感じがしなかった。

 

奈良の作品は、3年前と比べると、ちょっと見には同じにしか見えなかった。それでもなぜいい意味で気になるのか?いいからいい、好きだから好き。それで済むのだろうけど、自分でもその理由を考えるようになった。他の展覧会などでも、そういうことを考えたりもした。例えば、横浜であった「コンセプチャイズムの新しい展開」のシンポジウムで、おもしろいと思えたアーティスト2人にも共通するのを確認したし、千葉県の佐倉美術館で美大生の質問に答える宮島達男の言葉にも同じものを感じたのだった。

 

奈良美智の個展が横浜美術館であった時、サイン会にも行った。妻の方がファンだったが、時代の体温展で気持ちがピークだったとか、本人に会ってガッカリしたくない。といった理由で最初は行くのをしぶった。よく分る気がした。

昼頃から整理券のために並び、その後もかなり待った。でも、それほど苦にならなかった。集まった人達のわくわくした感じも持続していたようだったし、コンサート会場みたいだった。サインをもらったのは並び始めて3時間はたっていたと思う。そして、その後、美術館のすみっこで妻と2人で「よかったね」を連発した。写真で見るよりもいい感じだったし、細かく言わなくてもピッタリのところにサインを書いてくれた妻はニコニコ顔だった。それは、この日に見た人達と共通する表情だった。私のサインも、妻と自分の名前を・(なかぐろ)で区切ったメモを渡したら、+(プラス)に変えて書いてくれた。何だか感心した。

 

個展をゆっくりと見て、お茶を飲んで、もう1回見た。午後5時になっていた。奈良はまだサインを続けていた。いい感じは変わらなかった。初めての大規模な国内の個展だから当然かもしれない、でも、なつかしいいい気持ちになれた。作品だけでなく、本人にもウソが少なそうだった。

 

個人的には時代の体温展を見た頃よりも、精神的にさらに追い詰められた状況だった。それに屈折もある40歳の人間なのに、何だか久しぶりにやる気が出てきていた。後日、雑誌でこの展覧会の記事を読み、ヨコハマプロジェクトの意味を知り、記憶に鮮やかな色彩が添えられた。

 

なぜ人気があるのかは本人を見て納得できた。作品に魅力がある。それに平たい言い方だが、シャイさを残した2枚目は人気が出て当然だった。40歳を越えたとはとても思えない若さもある。日記をインターネット上で公開し、「生き方が好き」といった声もあるらしい。本当は大人の冷静さもたっぷりとあり、そしてたぶん諦めなかったという積み重ねの中で身に付けた言葉でもあるのだろうけど、そうしたことの全てが、そのスター性のある容姿だからこそ説得力が増すのは間違いなかった。

 

作品だけでなく、本人も気になるのはどうしてだろうか?と考え続けたことは、他のアーティストや展覧会や奈良の雑誌などでの言葉で分っていたつもりだったが、本人を見て、改めて確認できたような気もしていた。

 

例えば社会に出て10数年もたてば、うまくいかないことの方が圧倒的に多いし、どれだけ無縁でも戦略というものから逃れられないし、青臭いという言葉をうっかり忘れるくらいに現実にはいろいろあったりする。ただ一方で結局は個人によって違うことも時間がたつにつれ、はっきりとしてくる。私自身も、大人になったら「生活のため仕方がない」を連発して手段を選ばない人間になるのかと思っていたら、そうはならなかった。だから成功から遠いのかもしれないし、単に才能や努力が足りないのかもしれないが、いい意味で変わることなく成功するヒーローを求めている部分があったのを、奈良の作品や発言で自分の中に改めて発見しているような気がしてきた。それは自分の叶えられない願望の裏返しかもしれないが。

 

「好きなことを好きなようにやり続ける生き方」。そういう分っていても難しくて出来ないことを具体化した人間。それも無知なのではなく、いろいろと知っていながら、自分なりの戦略で貫いてきた存在。そういう気配は、横浜の展覧会で魅力的な作品を創ったアーティストにも感じたし、宮島達男にも共通して感じたことだった。シンプル過ぎるかもしれないが、そういう当たり前のことに魅力を感じてきたといっていい。

 

あいつまだ青臭いこと言っているらしいぜ。と昔の知人から言われそうなのに、そう非難する人よりも成功している人間。成功だけが重要ではないし、それだけを奈良が求めているわけでももちろんないだろうが、奈良のような人間を見て、好きなことを続けようとしなかった人間の心の中に沸き起こって来る感情。例えば、そういう方法でも可能だったんだ。という後悔に似た気持ち。一部の評論家の妙な言い掛かりとしか思えない見方は、そういうあせりみたいなものから出てきているのかもしれない。ただ、分る気がする。奈良のことを書くと、この文章みたいにどこかファン通信みたいになってしまいがちで、それを避けたければ、とりあえず非難しておく方がいい。論じるのが難しいアーティストなんだろうか?最初は、もっとも共感を覚えた作品だったし、それは基本的には今も変わらないのに。

 

 

 

話は、村上隆にうつる。

 

「TOKYO POP」の中で、最も共感をおぼえたのが奈良だったが、いちばん反発を強く感じたのが村上の作品だった。平塚美術館には、ミッキーマウスを少し変型したようなキャラクターのような絵が並んでいた。同じキャラクターがバルーンになったりしていた。後で見るとキレイだな、と思えるような色使いだったりしたが、瞬間的には何だか反発を感じた。後になって、そのキャラクターにDOB君という名前がつけられていたり、それが「いなかっぺ大将」のセリフにも関係があると知って余計に反感がつのった。それまではほとんど意識してなかったが、30代後半になり村上の作品に反発を感じたことで、自分が結構アニメ好きなのに気がついた。自分自身のひがみが入っているのかもしれないが、アートという高級な世界から下世話なことにも通じてますよ。という妙なポーズにも見えたし、日本の文化はこうですよ。を表現するためにアニメ的なものを利用するだけに見えたからだ。これはレベルが違うが、後で起こるオタク的なものからの村上への反発に質は少し近いかもしれない。

 

でも美術雑誌などでの村上の言葉に接するようになると、反発は消えないまでも、妙に気になりだした。それは他の関係者に比べると格段に分かりやすかったせいもある。ディズニーとかは、いろいろなキャラクターを誕生させて、特にミッキーマウスは人気が出て商品にもなっている、だから僕はまずキャラクターを有名にしていきたい、という発言。おたくになりたかったけどなれなかった、だから芸術家になった、といった言葉。東京をアートの中心にしたい、という言い方。気になりながらも村上の言葉などを読むと、その後には必ず「戦略がかちすぎて嫌だ」という感想にもなった。秋元康と、どこかでダブらせていた。ただ村上への興味の方が強かったし、何かがひっかかっていた。

 

食糧ビル。名前も凄いが、建物も妙だった。少しずれたゴージャスさが時間によって削られて、そのぶんしっくりしたが逆に無気味さも増した建築物。そこで「727」という村上の個展があった。あんまり広くない部屋に何枚かの絵。その中でおそらく最大だったのが「727」。平安時代の絵巻物みたいな背景の中で、目玉が増え化け物のようになったDOB君が、違和感少なく絵の中の雲に乗っている。それほどキャリアもないが、観客として初めて村上隆の作品を見て、おもしろいと思った。生意気かもしれないが、どこか作者のむきだしの部分を感じ、自分でもコントロールできないものが伝わってくるように思えた。うそが少ない。信用できる。感覚的なところで、そう思っていた。ただ30代後半になっていたので、すぐに「これは、そう思わせるための戦略かも」と頭脳は警戒していたが、これまでの印象とは確実に違ってきた。少なくとも、戦略だけではない、と勝手に確信していた。

 

海外、特にアメリカで村上隆が評価されていると雑誌などで知るようになった。村上の発言も以前よりも注意深く読むようになった。村上は、海外で評価を得てそれを逆輸入するという方法を意識的にとっているようだった。それは一発当てて大儲け。だけではないものも感じた。どこか楽観的からは遠い気配もあった。それが何かはハッキリとは分らないにしても、結果は大成功だったらしい。でもごう慢なことだろうが、日本の観客にとってはリアルに思えることではなかった。98年か99年頃、村上はポックという言葉を使っていた。おたくとポップの合成語らしいが、ピンと来なかった。もっと刺激的な新しい考え方を示してほしかった。勝手な要求だが、それは村上の作品自体にいろいろなことを忘れさせるような種類の魅力がなかったせいかもしれない。次の考え方は何?こういう引っぱり方は、実は美術関係者にも有効かも、などと小賢しいことを私が思うようになったのは、もっと後のことだった。

 

奈良美智が横浜で個展を開いていた頃、村上隆東京都現代美術館で個展を開いた。様々な企画もあり、開催中に9月11日のテロもあって、それに関してトークライブも行われた。4人の出席者がそれぞれ話をしてから、4人でのトークになった。テーマは「戦争と芸術」だったが、単純にテロに反対しましょう。といった繰り返しにならなくて、どこかホッとした。それぞれの人が感じたことをかなり率直に語っているように見えた。中でも実際の戦争を知っていて自分で軍国少年だったと言う針生一郎をメンバーに入れたのは、素晴らしいと思えた。様々な世代の人間を入れた方が緊張感も増すだろうが、聞く方にとっても実りが多くなりやすいからだ。

 

予定の時間は大幅にオーバーした。

何かが変わってしまったこれからの危機感と共に、村上隆の率直さは印象に残った。討論している中でも、戦争やテロに関する話をした後「これが美術とどう関わるか分りませんけど⋯」と針生と共に村上は多用していたが、それは分らないことを明確にするという誠実さにもつながることに思えた。村上をよく思っていないように見える人からの質問にも、分らないことは分らないと正確に答えようとしていた。

 

狭い知識でしかないが、それまでにも雑誌などで村上は対談を多くしているというイメージがあった。同時に、本人の話を聞いた後だと、その文面で感じた率直さは本当だったんだ、と思えた。例えば、雑誌での岡崎乾二郎との会話では、村上は、自分がデビューする前に岡崎の作品に感動した、とストレートに話すことによって、おそらく気難しい岡崎も率直と思える答え方をしていて、それは読む側には少し感動的な場面になっていた。

 

それは、おそらく村上の武器にもなっているのではないだろうか。率直さは吸収力につながり、作品にも反映されているのを、その時の個展でも感じることができた。

 

等身大のフィギュアといっていい立体は、よくできてるなー。というため息混じりの感想が、口をついて出てくる。ただ、単純な感心だけでもない。アニメの世界ではおなじみなもの。例えば代々木駅のホームの落書きみたいなもの。でも実際に見ると写真とは違っていた。妄想が完璧に近い形でこの世に現われたような違和感があった。女性の立体も細かく具体的で、性器や乳房も必要以上と思えるほどに細かく、そして妙なロマンチックが塗りこめてあった。こういった作品は村上だけの妄想ではないらしいが、それこそ村上の吸収力なしでは出来なかったものに違いない。誰もいない会場で1人で見ていると、明るい表面とは裏腹にポップな怨霊までもが出てきそうだった。それを防ぐために、よくできてるなー。と呪文のように唱えてしまったかもしれなかった。

 

会場の構成も、完成度が高かった。ビデオがところどころに流れている。その時間、その内容、設置場所。どうすれば人が見てくれるか。という意識が常にあるのが分る。そういえば、トークの時のマイクハウリングを最も気にしていたのは村上だった。もちろん主催者だからだろうが、それ以上に、少しでも正確に伝えたい。といった体質的なものだったと書くのは、考え過ぎだろうか。

ただ、こういう率直さを持つ人は平気で成長していくんだろうな、と素直に感じた。それが、村上自身が様々な場所で言っていた「自分には才能がない」という見極めの後の意識的な習慣だとしても。

 

スーパーフラットも、そうやって成長してきたのではないだろうか。

最初にその言葉が出てきたのも村上本人ではなく、村上の作品を説明するギャラリー関係者から、らしい。

スーパーフラットという言葉にピンと来た。

ポックよりも現状の突破力がありそうだ。

それを掲げていると『奇想の系譜』を見つけた。歴史という味方をつければ、いつも新しい理論はないかと探している「本場」の欧米にもアピールしやすい。

でも、それを理論としてすき間を埋めていくように完成はさせない。いろいろな人との会話や対談によって補強と広がりを作り続ける。ジャンルを問わずに、作り手と作品を集め、理論よりもまず日本のリアルが感じられる展覧会を開く。

そうしているうちに、海外からも声がかかる。

言葉を立ち上げ、その言葉をカタにして世の中に流通させ、様々な人の意志や考え方を吸収し、最初は予想もしないような成長を続けてきた⋯⋯。

 

ただ、村上本人は、すべて意図的である。という言い方も雑誌でしていた。スーパーフラットにはゆらぎの要素を入れた。わざと輸出屋になった。でも、人の展覧会を見て、それだけじゃダメだ。と思ったら、また方針を変えたらしい。やっぱり成長する人だ。そして、そのスピードが早い。

 

最初は全くアートに関心がなく、まして戦略的すぎる人を嫌う私のような人間が、どうして村上隆に数年にわたって興味を持ち続けられたのか?

 

もう何年も前になるが、あるテレビ番組で、村上があるアーティストに対して「彼は頭が良すぎるんですよね」と少ししかめっ面でコメントしたことがあった。そのアーティストは十分以上に優れた作品を作り続けていたから、その軽い嫌悪感みたいなものが気になった。

 

理由は、後になって、村上の作品や活動を少しでも知るようになると、何となく分ってきた。そのアーティストは、自分の作りたいものに忠実だった。ただその一方で、自分の出来ること、出来ないこと。それを明確に意識し、そこから絶対に出てこないように、当時は見える部分もあった。村上も、頭はいいはずだ。自分の限界もハッキリと見える瞬間があるだろう。だけど、それを意識的に見ようとしないし、どこか信じていない。いつも、まだ出来るんじゃないか。そういう諦めの悪さがあったり、まずやってみないと分らないこともある、という一見愚かな行為でしか届かないところがあるんじゃないか、と考えているのではないか。トークライブでも「これからは日本を切り捨ててアメリカの美術界でハイアートを極めていこうと決めた。そして、その一方でヒロポンファクトリーのように、日本のまだ形になっていないものをキチンと拾っていく。その両方をやっていきたい」と言った後で「自分は頭がよくないので、ハイアートの世界を実際に手を突っ込んでみないと分らないから」という言い方をするところにも、そういう面が見えたような気がした。自分でも予想がつかない地点。スーパーフラットの成長のように、自分の想像を越えるような大爆発。それを求めて、その到達地点がしょぼいもので終らないように、計算できる範囲は計算し、出来るだけ遠いところに行こうとしている。そういう、どこかうごめくような感情もあるから、自分の限界から出ようとしないように見える存在を「頭がよすぎる」と軽い嫌悪感を示したのかもしれない。

 

村上のこれからのことを考えた。

 

今後の目標というか最大の敵はアート界にも欠かせないものとなったマーケティングという発想そのものではないか。ただマーケティングは、今のアートと一体化過ぎて、それを殺すことはアートそのものの命にも関わってしまう。それならば、その化け物の遺伝子を書き換えることによって違うものにしていくしかない。それを可能にするには、マーケティングの奥の奥。全てに通じ、しかも経験を積んでいくしかない。なぜ、変えなくてはいけないか?イギリスの産業革命から始まった価値観で今までずっと走ってきたが、現在の人類は、それでは幸福になれなくなったから。だから、まずはアートのルールを書き換えたい。といった方向へ村上は進むのではないか?と。ここまで来ると、ほとんど妄想に近いのだが、村上の、どこかエゴを越えたというか、どこかアートに身を捧げる感じがあったから、妄想にもスピード感が増してしまうし、そういう可能性を一方的にだが、観客として感じてきたから、ここまで興味が持続してきたのだった。村上に見てきたのは、確かに野望だった。だが、ここまで書いてきたように『まともな野望』であったから、決して素直ではない40歳の人間も引っ張ってきてくれたと思う。

 

 

そして、そのまともさはピュアとも言い換えられるが、それが村上と奈良の最も大きい共通点ではないだろうか。

 

ただ、これまでのメルヘンやファンタジーをのぞいた、これからを生き残っていくために必要なピュアといったものだろう。奈良の作品には、そうしたことをダイレクトに感じさせてくれる力があり、村上は活動全体でピュアな野望を体現している。今「ナラカミ現象」などと言われて流行りものみたいに見られている部分もあるが、それだけ人を引き付けるというのは、そういうまともさが求められている、という側面も間違いなくあると思う。

 

そして、私にとっては高度経済成長の頃、豊かになっていく時間の中で、その後にうっすらと見えたような気がした次の理想。それを、どこか形にしてくれたとも思う部分がある。それに、マーケティング用語に過ぎなかった新人類という言葉で呼ばれた同世代から出てきたヒーローだから、よけいに気になるし、彼らがまともであることが嬉しいのかもしれない。

 

テレビに村上隆が出ていた。

「美と出会う」という番組。今はお菓子や飲み物のオマケの完成度が高くなって、よくできてるなーとタメ息まじりの感想が出るくらいになっている。それは村上とも組んだ海洋堂のおかげもあるだろうが、考えればそのスタートを作ったのは村上かもしれなかった。そのオマケに村上も参入するらしい。中国の工場を訪れた村上がしゃべっている。

「これはスゴイことですよ。何しろ、アートがタダになるんだから」。さらに言葉を続けた。「でも、それくらいのことをしないと、アーティストやってきた意味がないから」。

 

奈良もテレビに出ていた。

「ようこそ先輩」という番組。あいつ見たことある。という顔をされるようになってきた。散歩もできなくなったらいや。それに出演で忙しいから。とかを、いい作品が出来ない言い訳にしたくないから、といった理由で、これからはメディアに出ないと話していたから、これが最後の番組になるかもしれない。でも、それまでと変わらなかった。子供達に教え、作品が出来ていった。奈良はこれからも作り続けるのだろうな、と思えた。

 

村上も奈良も、その前に見たGEISAI—2でのトークショーの時の印象とのギャップが画面上でもほとんどなかった。2人とも良い意味でむき出しだった。いろいろと攻撃も受けやすいが、得るものも多いだろう、と思わせた。そのやり方は続けていくのが大変だが、くぐり抜けていけば強度も増していき、成長を続けるだろう、などと考えた。

 

美術評論というより、ただの感想文に近い。と自分でも思うし、専門家だとよけいにそう感じるはずだ。冷静さよりも、感情が優先した部分も多い。妄想らしきものまで混じっている。でも、奈良と村上の作品や発言や行動を知って(もちろん彼ら2人だけではないが)、アートにまったく興味がなかった自分自身が関心を持つようになり、30歳後半を過ぎてからでも少し変化があった。少し前の私のようにアートに無関心な人にも、彼らを知ってもらいたい。もちろん受け付けない場合も少なくないかもしれないが、そう思わせる力が2人にもあった。だから、こういう文章を書いた。例えば映画評論の幅の広さのように、美術評論の幅を広げる可能性も引き出す力が、村上と奈良にはあった。というのは大げさすぎるだろうか。

 

「ナラカミ」は、たぶん流行ではない。とてもシンプルでこれからに必要なことをリアルに力強く発信している。だから注目する人も増えてきた。私もその1人に過ぎない。こじつけかもしれないが、これからを生き残っていく能力は、アートに興味を持ってからの方が上がった気さえするからだ。