アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

2014年 「美術手帖」第15回「芸術評論」落選原稿。「村上隆は、どうしてそんなに嫌われるのか」。

美術手帖」サイト

https://bijutsutecho.com

 

 1996年に急にアートに興味を持ち、『美術手帖』という専門誌も時々買うようになり、そこで「芸術評論」を募集しているのを知り、初めて応募したのが、第12回の2003年だった。まるで、村上隆奈良美智への「ファンレター」のようになった自覚もあったのだけど、当然のように落選した。その後、2年後の2005年にも応募があり、次は、村上隆の日本国内の評価が低いと勝手に思い込み、だから、村上隆中心の「評論」にしようと思った。

 

 さらに、前回の落選を顧みて、自分だけの考えでなく、他の人の視点を入れないとダメなのだろうと勝手に思い、さまざまなものを読み、その引用もするようにしたが、また、当然のように落選した。

 

 そして、その4年後、不定期に開催される「芸術評論」に、3度目も応募した。これまで、2回、応募して、賞に選ばれた作品を読んだら、それは、自分には書けない「論文」といっていいもので、正直、全部理解できたか分からないくらいだった。

 

 

 それでも、また、懲りずに応募したのは、本人には迷惑かもしれないのに、村上隆というアーティストの日本国内での一般的な評価が、不当に低いと思っていたからだった。そして、応募して、また、ただ落選した。

 

 さらに、その4年後、2014年に、第15回の「芸術評論」の応募があり、また、村上隆のことを書こうと考えた。自分なり、これまでの蓄積を使ったつもりだったけれど、やはり、また、何にもならずに4度目の落選をした。

 

 

美術手帖」 第15回「芸術評論」入選作発表

https://www.art-it.asia/u/admin_ed_news/A8oDgtZPUqQbcfEaGs1V/

 

 

 

(ここから先が応募した原稿です)。

 

 

 

 

 

村上隆は、どうしてそんなに嫌われるのか」

ー見えやすいものと、見えにくい事と、さらに見えにくいものへの考察を通してー

 

 

 

1.

 夜中のテレビで、東京へのオリンピック招致決定が報じられたあと、何の根拠もないのに真っ先に批判されたのが、おそらく村上隆だった。オリンピックのキャラクターを村上隆がデザインしたら嫌だ。そんな声がインターネット上であふれたらしい。実際は、そんな動きは全くなかったのだが、何もしていないのに、そんなに非難される身にもなってみろ、といった事を村上自身がツイートした。それはニュースにもなったが(※註1)、村上が、日本でもっとも有名な芸術家の一人である証拠でもあるような騒ぎだった。

 ただ、素朴すぎる疑問かもしれないが、改めて、村上隆は、どうしてそんなに嫌われてしまうのだろうか。

 

 もう10年以上前の事になる。

 2001年に村上隆の個展が東京都現代美術館で開かれた。その会期中に、9・11アメリ同時多発テロが起こり、それに反応するように「戦争と芸術」という討論会が行われた。村上自身や、椹木野衣、楠見清だけでなく、実際に戦争の体験もある針生一郎も参加するという考えられた企画だった。筆者は、整理番号4番という早い番号を手に入れることができて列に並んでいる時に、すぐ前の女性が連れの人との会話で「……が、村上隆が嫌いで…」という話題を出していた。この討論会の観覧のために、これだけ早く来ているのだから強い関心があるのは間違いないのに、その口から「嫌い」という言葉が出て、そのことに、その女性も同意しているようなニュアンスでさらに話が進んでいた。

 この村上の個展でも、他のイベントと同様にあちこちの媒体で招待券プレゼントがあり、筆者は3カ所に応募したら、全部が当選した。過去も、それからもそんな事は一度もなかった。幸運だったのではなく、応募者が極端に少なかったと考えた方が自然だろう。

 村上隆に関しては、徹底的な無関心か、もしくは関心を持っている人の中で、嫌いな人の割合いが多いという印象だったし、何より、関心を持っているのに、その嫌われ方の程度があまりにも強く激しいのではないか。その時感じた、その感触は、それからも、ずっと変わらないようにも思える。

 2013年、「芸術新潮」で特集が組まれた時、「まだ村上隆が、お嫌いですか?」というタイトルだった。それから数ヶ月後に、オリンピック招致が決まり、村上隆のニュースもあった。

 最初の素朴すぎる疑問から、少し言葉を変える必要がありそうである。

 村上隆は、関心を持つ人から、どうしてこれほどまでに強く嫌われ続ける、どこか矛盾した存在であり続けているのだろうか。

 

 

2.

 嫌われるには、広く知られるようになる必要がある。

『2001年1月から5月には、ロサンゼルスで「スーパーフラット」展が行われ、盛況。スーパーフラットはポップの次世代の概念として世界のアートシーンに受け入れられた。

 翌2002年に「ヒロポン」が約4890万円で競り落とされる。

 さらに2003年に「ぬり絵」展がパリで開催され、「Miss KO2」は約5800万円の値がつく。同じ年「ART REVIEW」誌の「世界のアート業界をリードする100人」に初出、いきなり7位にランクイン。以後、2011年まで毎年選出。

 2006年にはスーパーフラット3部作の「リトルボーイ」展が、国際美術批評家連盟米国支部が選ぶ「ニューヨークの美術館で開催されたテーマ展」の最優秀賞に輝く。

 2007年から、大規模な回顧展がアメリカ、ドイツ、スペインに巡回する。2008年「タイム」誌の「世界でもっとも影響力のある100人」に日本人からはIPS細胞研究の山中伸弥と共に、2人だけ選ばれる。

 2010年には、ヴェルサイユ宮殿での展覧会が行われる。

 2012年にはドーハで5百羅漢も展示された大規模な個展が開かれた。』…以上は、「芸術新潮」2012年5月号。「村上隆の半世紀より」(p45〜49)の抜粋である。改めて振り返れば、これだけの成功を長期間続けている日本のアーティストの存在は、少なくとも戦後では初めてではないだろうか。

 

 だが、2012年発行の著書「創造力なき日本」(角川書店)での、川上量生ドワンゴ)との対談では、村上は、こうした会話もしている。

 

「村上 長期的な視点に立って若いアーティストたちをブランディングすることは得意なはずなんですが、僕自身のブランディングは決してうまくはいってないですね。なにせ、日本でこれだけ嫌われているわけですから(笑)。

川上 それもおかしな話ですよね。普通は、海外で成功すると、手のひらを返したように日本でももてはやされるものですから。

村上 僕の場合、ツイッターでわあわあやっていたりして、突っ込みやすいというのもあるんじゃないですかね。活動拠点を完全に海外に移してやっていくのも手なんですけど、それはやらないつもりです。日本人として、現代の日本とは何だろうということを見ていく。僕は日本は世界の未来国家だと思っているので、ここから世界の未来も見えてくるんじゃないかと考えているんです」(p213)。

 

 村上の分析に、いったんは納得しつつも、少し考えると、その嫌われ方の「程度の強さ」に関しての疑問が、はみだすように湧き出て来てしまうのである。

 

   

3.

この10年以上、海外で輝かしい成果を出し続けて来た時間の中で、村上隆は、日本国内で「どのように」嫌われて来たのだろうか。やはり「見えやすいもの」に関しての批判が多いと思われる。

 

 まずは、「見えやすいもの」…作品そのものが、叩かれて来た。

 

 批判のために、よく引き合いに出されているのが、「ギャラリー フェイク」の言葉である。主人公が、村上隆をモデルにしたと思われる登場人物を評している場面であり、マンガ界全体が、このように見ているはず、というような拡大解釈も少なくない印象である。

 

『彼は日本のオタクたちが営々と積み重ね育ててきた文化の “うわずみ”をかすめとったにすぎない。他人のイマジネーションを“包装”して“美術界”という流通にのせ無知な欧米人に叩き売るとは……。

 我がギャラリーフェイクもびっくりの仲介業ー。広告代理業ー。

 もっとありていに言えば “パクリ屋”ですぜ」(「ギャラリー フェイク」22巻。p97。細野不二彦小学館。2001年発行)。

 

 村上自身は、作品への批判の理由を、ツイッター上で分析している。ヴェルサイユ宮殿での展覧会の際に、また巻き起こった村上批判への反応だった。

 

「叩かれるポイント:1、村上フィギュアはパクリ。2、フィギュアとしての魅力が無い。3、日本のアートとして紹介されるの恥ずかしい。4、これならもっといいフィギュア造形作品があるはず=外人騙してる。この辺ですな。ココの問題でARTの定義が私側(現代美術業界)と批判側ですれ違ってる。」(※註2)

 

 ただ、批判が起こるのは、村上が指摘しているように「すれ違っている」だけでなく、現代美術(ART)の「位置」をどう捉えているか。そうした「認識」のズレが大きいのではないか、と思える事を、富野由悠季が村上との対談で語っている。

 

『富野 理由はものすごく簡単です。僕はテレビマンガの仕事しかできない人間ですから、アーティストと言われる人たちは至高の存在なんですよ。そういう人である村上さんが、なぜ僕らが日々の糧を得るためにせこせこやっているアニメやコミックの世界に擦り寄ってくるんだ。それは汚いじゃないかっていう、それだけのことです。

村上 あぁ、なるほど。

富野 ただ、アート、特に絵画というジャンルを考えると、新たな手法を生み出さなければ次の時代が創れないのだとしたらこういう方向に来るのもわからないではない。だけど、僕の立場で言ったら、我々が日常で作ってるゴミくずみたいな素材を利用して、それをアートだと言うのは、それはお前の能力がない証拠じゃないかという風に思った。嫉妬もあって」(「ガンダムエース角川書店 2012年10月号 p359より)。

 

 村上が、やや誤解している可能性があるのは、日本国内での一般的な現代美術への見方は、富野が率直に語っているように、現在も「アーティストとは上の存在」である、という事である。この場合は、アーティストも現代美術もARTも芸術も混じり合っている可能性が高いが、いずれにしても、村上のようなアーティストは「上」と思われているのが一般的だから、「搾取」という表現や「パクリ」という言葉が飛び交う。それは、上から下のものをとっていく、というニュアンスを感じているから多用されていると思われる。

 村上は、アーティストは最下層だと述べている(※註3)が、その一方で、村上が評価されている欧米では、アートは上位の文化であり、コミックは下位の文化という棲み分けははっきりしているはずである。そうした欧米の文化の中で評価されている村上が、日本国内ではアーティストが下、と本気で思っている、という事が、おそらくは理解されていない。こうした認識の「ズレ」によって、村上は余計に批判されている可能性もある。ただ、もしも、村上の認識と一致するような大きな変化が訪れれば、(それは大げさにいえば、社会構造の変化といっていいような事かもしれないが)村上は、こんなに嫌われなくなるかもしれない。

 

 そして、もう一つの「見えやすいもの」…村上自身が叩かれて来た。

 

 例えば、村上の態度が「嫌い」というような批判がある。

 

 『村上隆の作品は「ブラック企業」で生産されていた』(※註4)というタイトルでテレビ番組の書き起こしのような記事もあるが、そこには村上隆の態度(怒る、怒鳴る)への嫌悪も現れているようだった。成功者であるのは間違いない村上隆が、工場のようなアトリエに泊まり込み、しかも寝起きしているのがダンボールの中のベッドということにはテレビで紹介されていても記事では触れられていないし、「悪びれることなく」といった表現にも“嫌い”が色濃く出ているようでもある。この村上の態度への嫌悪を共有する批判者も、これまでにも、また大量に存在したと思われる。

 

 それに関連して、このような見方を提示する人達もいる。村上の事ではないが、リーダーについての話である。

 

『「リーダーの仕事は、周りの人を楽しくさせることではなく、なんとしても成果を出すことなのだ」と理解することです。日本でリーダーシップをとろうとする人が、周りの協力が得られず孤立したり、批判にさらされたりしがちなのは、このことを、自らのリーダー体験を通して理解している人があまりにも少ないからです。だから言葉遣いとか、進め方の是非といった表面的な手続きにばかり、あれこれと文句がつくのです』(「採用基準」 伊賀泰代 ダイヤモンド社 p110)。

 

「日本人の多くは、謙虚ですばらしい人格を持ったリーダーを好むが、そういう人は実際にはリーダーになれないのである。歴史に名を残すレベルの企業を作ったようなリーダーというのは、みなある種の「狂気の人」であることが多いのだ」(「僕は君たちに武器を配りたい」

 瀧本哲史 講談社 p197))

 

 仮定に過ぎないが、この二人だったら村上への態度や姿勢に対して、異なった評価を下す可能性がある。どちらの人物も、アメリカに本社を置く外資系のコンサルト会社への勤務経験があるが、こうした文化を背景に持つような人達が多数であれば、もしかしたら村上隆は、これだけ嫌われなかったかもしれない。だとすれば、今よりもさらに社会構造が変わって行けば、村上への評価が変わっていく事もあり得るかもしれない。

 

 かなり大げさな仮説になってしまったが、それでも、もし社会構造が変わったとしても、変化しそうにない批判がある。

 とにかく村上隆の存在が嫌い、というような、さらに根が深そうな見方である。

 

 例にあげるのが、どこまで適切か分からないが、映画評論家・コラムニストの町山智浩は、こんな表現をしている。

 

村上隆も似たようなもんだ。彼自身、「自分には表現すべきものがない」と言っているそうだが、本当は「自分は偉い」ということだけがテーマなのだ。』(※註5)

 

 このブログも最初は猪瀬直樹の話題から、ほぼ唐突に村上隆が出てくるし、映画解説(「桐島、部活やめるってよ」など)の語りの質の高さからは、あまりにもギャップがあるので、理屈を超えて感情的に嫌い、という根拠だと思われる。ただ、このブログも多く引用されている印象があるし、この感覚を共有する批判者もかなり多そうである。

 この嫌い方には、富野が述べていたように嫉妬が全くないとは思えないが、それでも世界的に成功しているイチローや、小沢征爾や、熊川哲也や、安藤忠雄らに対して、こうした激しい嫌い方をする人が多い、という印象はあまりない。好きか、あまり関心がないか、に分かれているように見える。

 村上隆には、同じような成功者にはあまりないような、「とにかく嫌い」につながるような独特の要素があるのかもしれない。作品や、態度といった「見えやすいもの」だけでなく、村上の存在自体を嫌うような理由には、もう少し「見えにくい事」も関係しているように思える。

 それは、何だろうか。

 

   

4.

村上自身は、嫌われる理由について、こんな風にも話していた。

 

「僕の場合、ツイッターでわあわあやっていたりして、突っ込みやすいというのもあるんじゃないですかね」。(前出。「創造力なき日本」より)。

 

村上のタイムラインで目立つのは、「村上隆」でエゴサーチをして、そのネガティブな内容をリツイートしている事である。エゴサーチそのものは、誰でもが行っているかもしれないが、ネガティブなことをこれだけリツイートしているのは珍しいのではないか。多数のフォロワーがいる人間は、こうしたリツイートに対して「晒した」などと非難され、「炎上」する事もあるので、行わなくなるのが自然だと思われる。

 それでも、村上隆は、ネガティブな内容のリツイートを続けている。

 

 あまり、ライブでトークショー等をおこなっていない印象が強かった村上隆は、2013年の後半から公の場での対談などが増えて来た。村田森(※註6)や、森川嘉一郎(※注7)との対談では、率直な話しぶりが目立ったり、コミュニケーションの方法を乞うような場面まであり、そこには「嫌われる村上隆」の印象はなかったが、本来は “ホーム”であるはずの美術界での座談会では、中原浩大やヤノベケンジらを前に(※註8)村上は繰り返し絶望を語っているように見えた。現代美術の理解のために様々な試みを繰り返して来たが、それは日本国内では不可能だと諦めるに至ったから話をしたくない、というような事を言いながらも語り続けた。「嫌われる村上隆」がそこにいた。座談会の最後の方で、村上に問い続けていたヤノベが、村上に対して、大変そうだ、という印象を少ししみじみと語った。さらには、好きなのに、憎んでしまう、自傷行為のようにも見える、という言い方までもしていた。

 村上は、その場では対応していなかったように見えたが、座談会が原稿になった時点では、即座に否定をしている。

 

「違います。この座談会で終始、西欧の現代美術を学習せねば、真の意味での現代美術の理解にはつながらない。しかし、日本人はその事実に目をつぶる。目をつぶって無学な鑑賞者の開き直りに絶望し、そんな連中に作品を見られたくない、と言っていることが、なんで自傷行為なんでしょうかねぇ」(美術手帳2014年4月号 p103)。

 

 しかし、理解してもらうのを諦めたと語りながらも、また多くを話し、攻撃的な表現も入れながらも、さらに語り続ける。そうした行為そのものが、自傷行為のようにも見える、という事であったら、その痛々しくも見える姿は、ヤノベの言っている事が間違っていないように思える。さらには、自らに対してのネガティブな内容をリツイートし続ける行為も、そんな印象にとられてもおかしくはない。

 

 2014年3月上旬「偏り過ぎた現代美術講座」と名付けた講義を村上は行なった。そこには予定をはるかに超えた約100名の希望者が集まったが、事前に村上への質問を募集し、それに村上が回答する、というやりとりがフェイスブックに公開された。その村上の答えの中に、現代の若者は「承認欲求」の中毒のよう、という表現があった。その村上の反応の強さには、村上自身が「承認欲求」というものへの強いこだわりがあるのではないか、とも感じられた。

 

「ぼくは勉強ができませんでした。言葉もうまくありませんでした。

 風体からも、周囲とはコミュニケーションが取れなかったのです。

 だから、何かものを作ることは自由を手に入れてゆくことでもありました」(「芸術起業論」p158)。

 

アメリカで認められるまでの日本での敗北の記憶や「自分には何もないんだ……」という思いは、いまだにぼくの作品制作の大きな動機になっています』(同著 p49〜50) 

 

 村上が、まだ認められていない頃ならば「承認欲求」はあって当然だとしても、ネガティブな内容のリツイートや、理解に対して絶望を語りつつも更に攻撃的な表現も使いながら話を続ける、という現在の村上の行為も、「承認の欲求」から発している可能性はないだろうか。それは通常ならば、これだけの成功をしているのだから一見考えにくく、それだけに「見えにくい事」になっているにも関わらず、実はその感情の強さゆえに、「承認欲求」を持つ人達の強い関心を招いてしまってはいないだろうか。

 

 

5.

心理学の用語としては、「承認の欲求」と「承認欲求」というのは、厳密にいえば、少し意味合いが違うようである。

 

「承認の欲求」というのは、A・H・マズロー自己実現の理論の中に出てくる言葉である。マズローは、人間の行動を動機づける欲求を5段階にした。それも、低次の欲求が充足されると、初めてより高次の欲求が現れ、最上位には自己実現の欲求が位置すると提唱した。①生理的欲求②安全の欲求③所属と愛の欲求④尊厳・承認の欲求⑤自己実現の欲求、の5段階の中の、4段階目に「承認の欲求」が現れる。(「新・心理学の基礎知識」有斐閣 p270より抜粋)。

 マズローによれば、生理的欲求や安全の欲求が満たされてから、所属と愛の欲求が現れ、その次に尊厳の欲求が現れるのだから、現代は豊かな時代だからこそ「承認の欲求」まで多くの人に現れた、という見方も出来る。つまりは、この欲求を抱くのは自然な事である、とも言える。

 

「承認欲求」は、他者に自分の存在を認めてもらいたい、あるいは自分の考えを受け入れてもらいたい、という欲求をさす。承認欲求が強い人は同調性が高いこと、説得されやすいこと、自己評価が低いことが知られている。また、まわりの人からよく思われたいために、印象操作を多く行うと考えられる(『心理学事典』有斐閣 p417より抜粋)

 この見方によると、マズローの理論でいえば「③所属と愛の欲求」と「④尊厳・承認の欲求」の両方にまたがっているとも思えるし、現代の「承認欲求」は、一般的にはこちらの方だと理解されているようだし、村上が他人に対して「承認欲求」と指摘する時は、こちらの意味合いだと思われる。

 

 無名な頃に「承認欲求」は強くても自然である。 そして、村上の現在は、「承認欲求」だけでなく、マズローの唱える「尊厳・承認の欲求」を満たすような成功をおさめたと言ってもいい。ただ、昔であれば、マスメディアや美術業界で称賛を浴びて「尊厳・承認の欲求」が充足され、次の「自己実現の欲求」に進みやすかったかもしれないが、SNSのある現代では、同じ作品が美術業界で「承認」されても、個人の「非難」が、時として同じ比重を持ったかのように本人に届くこともあり得る。村上本人が、非難をされ続けると、プチ鬱になる、とツイートする時さえある。(※註10)それは「承認欲求」さえ満たされない段階まで逆戻りしている状況なのかもしれない。

 もちろん、ツイッターをやめる、という選択肢もあるが、ツイッターを使い主張を続けるのは「生産的な表現環境を確保できるから」(※註2)と理由をあげてもいるし、一度利用し始めたSNSなどを使わなくなる、という困難さは多くの人が知っているはずである。現代は、「承認欲求」や、「尊厳・承認の欲求」に関しては、SNSといった要素も加え、さらに以前とは違った分析が必要になってきているかもしれないと思わせるのが、村上の行為や言動でもある。

 

 そして、複雑にねじれてしまった「承認の欲求」は、著書の、こうした部分に現れているように見える。そこには、あこがれと、尊敬と、劣等感と、誇りと、冷静な分析までが、同時に存在し、混じり合っているように思われる。

 

『“(富野由悠季や、大友克洋らがそれぞれにヒット作を展開していく様子に対して)“天才たちの空中戦”に感じられるくらいです。

 それをうらやましく思い、まぶしく感じながら見ています。(中略)それに対して、ぼくたち現代美術の作家は「特殊職業」のようなものであり、「今生きている大衆には決して認められない」というマイナスな要因を引き受けています。

 (中略)大衆芸術の作家の中には、現代美術の作品のほうが国境や時代を超えていくうえでは強力であることを認めたがらない人もいますが、それは少々、傲慢なのではないかとも思います。

 ぼくは今、映画もつくっていますが、それは本来は大衆には受け入れられない現代美術が、その接点を見つけられないかという実験でもあります。そうするためには方法論的に大衆芸術に近づく必要も出てくるのです。それだけ両者の性格と役割は異なるものです」(「創造力なき日本」角川文庫 p97〜98)。

 

 

6.

ファシズムの分析を心理学の面から行ったE・フロムは、指導者が強い支持を集める条件の一つを、このように述べている。

 

「指導者の心理と支持者の心理という二つの問題は、もちろんたがいに密接に結びついている。もし同一の思想が両者に受けいれられるならば、かれらの性格構造は重要な点で類似しているにちがいない」(「自由からの逃走」 エーリッヒ・フロム 東京創元社 p74)。

 

 前項では、現在の村上にも、複雑なねじれがあるとしても「承認の欲求」あるいは「承認欲求」が存在するのではないか、と思われ、その事で、立場が違うとしても「承認欲求」のある人達の関心を呼んでしまっているのかもしれない、と述べた。それがもしも正しければ、関心を呼んだあとに、村上の「見えやすいもの(作品や態度)」に接して「嫌い」ということがあったとしても、フロムが言うように、「承認欲求」という同じ性格構造があれば、強い支持を受ける可能性もあるのだが、実際にはそうなっていないようだ。

 関心が支持につながりにくいのは、実は「性格構造が重要な点で類似」していない可能性がある。もちろん、村上は「承認の欲求」を満たすような成果をあげていて、批判者の多くはおそらくそうではない、という決定的な違いがある。ただ、「承認の欲求」に対して関心を持って集まって来た人達が、村上に対して、実は「性格構造が重要な点で類似」していない違和感に接して、「嫌い」という反応に出ているとも考えられる。同じだと思っていたのに違っていた。そのガッカリ感に対して、嫌うことに激しさが加わるという構造は考えられないだろうか。

 その「類似」していない、「さらに見えにくいもの」こそ村上の本質に近い可能性もある。

 

 

  もう8年ほど前になる。

 村上隆の主催する「GEISAI」が10回目を迎える前、これからの存続も含めて出展者を中心に意見を聞きたいと村上からの呼びかけがあり、何十人もの参加者が集められた事がある。

 その会場に村上が現れ、参加者が囲んでいる輪の中に入り、パイプ椅子だけを用意して座り、一人で大勢の人間を前に全身をさらす形をとった。机一つだけでも体の前にあれば、気持ち的には楽になるはずなのに、それをしなかった村上は、そこにいる人間と全面的に関わろうとしているように見えた。そうした振る舞いや、この日の村上の発言は不機嫌さが表面にあったものの、話している内容から「志」が伝わって来たようにも思えた。「GEISAI」のスタッフのハッピにある「死ぬまで芸術やりますか」という言葉が本気なのだろう、という「純粋さ」もあるように感じられた。

 

 2013年の事になる。

 村上は、前出した森川氏との対談(※註7)の中で、「GEISAI」に関して、率直な言い方をしている。

 その始めた動機に関しては、成功した人間は若い人にチャンスを与えるべき、というどこかキリスト教的な気持ちもあって、という表現があった。プロとして30人くらいはデビューさせたので責任を果たした、という言葉もあった。今も初志貫徹でプロへの導線引きをしたくて審査員を立てているが、プロとアマがあいまいになっている今の時代の流れと離れているようで、葛藤がある、とまで語っていた。

 その話す姿勢から伝わってきたと思えたのは、アーティストを育てたい、という「志」だった。実際に大きな赤字を出しても継続しているという事実もある(※註11)。

 

 好き嫌いをあまりにも強い感情で語ったりする姿は、ヤノベと中原(※註8)との座談会でも目立ったが、この森川氏との対談(※註7)の際も、会場からの質問に関連して、いわゆる「汚い商売」に関して、潔癖ともいえるほどの、そして想像以上の強さの嫌悪感をあらわしたりもしている。あまりにも頑なと言ってもいいような態度でもあるが、それは、世界の中でタフな20年を戦って来ているのに、今も想像以上に「純粋さ」があるのかもしれないと思わせる言い方でもあった。それはあまりにも素直すぎる率直さとも言い換えられる(※註12)。

 

『ひと口に、作品を売って「金を儲ける」といいますが、自分の手に持っている職で金を儲けるには種も仕掛けもない。自分が持つ正義への忠誠心に忠実に生き、こつこつとモノを創造し、社会に問い、そしてその問いかけに対しての評価が下る。良い時も悪い時も、自分の正義に忠実であってそれが社会から信用を勝ち得た瞬間しか儲けを手に入れることはできません」(「芸術闘争論」p189)。

 

「純粋さ」も「素直過ぎる率直さ」も「志」も、村上を嫌う人達からはもちろん、村上の作品や戦略を支持する人達からさえも、気持ち悪いと言われそうな表現でもあり、否定されそうな部分でもある。そして、激しい戦いを経てもなお、あまりにも純度の高い「純粋さ」や、持続する「志」を持っている人というのは、筆者も含めて、そこまで徹底できない日常を送る人間にとっては、自分を守るために、つい目をそらし、時には遠ざけたり、否定したくなるような存在でもある。実は、こうした「純粋さ」や「志」は著書にもところどころ色濃く出ているのだが、攻撃的ともとられる表現に隠れてあまり目立たないのか、村上隆にそうした面を期待していないのか、あまり注目されていないという印象で、そのために「さらに見えにくいもの」になっているとも思える。

 だから複雑にねじれた「見えにくい承認欲求」に近づいてきた人達が、この純度の高過ぎる「純粋さ」や「志」という「さらに見えにくいもの」に触れた時に、強い拒絶反応を起こす、という構造ではないか。こうした「さらに見えにくいもの」にも共感する、一部の人達が、村上への信頼を表明しているのかもしれない(※註13)。

 

“私は『美』のために働いて行きたい。

 そして日本、世界のどこにおいても『美』を創造し、その名の下に喜びを分かち合いたい。そのために土壌造りから始めなければならないなら喜んで泥まみれになる。

 なぜなら『美』の前に立つ時だけは、みなが平等になれる、というファンタジーを一瞬、実現してくれるから。分かり合おうとする人の欲望の果てを、手に入れられる希望があるから。

 そのために働き続けたい。死ぬ時までこの気持ちが続くよう毎日祈るような気持ちで嫌がる体をひきずって、『美』の従者たり得るよう、ひたすら生きてゆければ、そう思っています」(中略)

 二〇〇一年に東京都現代美術館で行った個展「召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」のカタログで、私はこう書きました。(中略)私としては日本の、否、おこがましいのですが、世界のアート業界への業界改革宣言的な気持ちがありました。そして今現在もその気持ち、文言に曇りはありません”(「芸術起業論」p245〜246)。

 

 やや無理を承知であるが、村上の言葉は、前述したフロムが、まだナチスの脅威がヨーロッパを覆っている時に書かれたと思われる、こんな言葉と重なる部分が少なくないようにも思える。もしかすると、ヨーゼフ・ボイスの掲げていた「社会彫刻」よりも、村上の射程は遠く広いのかもしれない。(※註14)。

 

「経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときにのみ、また人間が積極的に社会経過に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望ー孤独と無力感ーにかりたてているものを克服することができる」(前出「自由からの逃走」p302).

 

 

7.

「見えやすいもの」と「見えにくい事」と、「さらに見えにくいもの」が同時に強く同居し、人によって見えるものも違い、時代の状況によっても、どれが「見えやすい」かも変化する可能性がある。そんな村上隆が矛盾した存在(※註15)ととらえられるのも当然だし、だからこそ、自身の蓄積された力の大きさに関して、やや過小評価と思われる村上が、作品だけでなく言動や行為すべてを含めて、いつのまにか大きく社会を変えて行くきっかけを作っていてもおかしくない(※註16)。

 

 

 映画「めめめのくらげ」の主人公の名前は「正志」。村上隆は、自分の名前と関連づけたかもしれないが、それは「正しい志」でもあり、現代では苦笑されそうなことでもある。「さらに見えにくいもの」は、こんなに分かりやすいところにも掲げてあったのである。

 

 

 

 

 

※註1  JCASTニュース  http://www.j-cast.com/2013/09/09183392.html?p=all

※註2  2010..8.31村上隆ツイッターより https://twitter.com/takashipom 

※註3 「創造力なき日本」角川書店 「アーティストは、社会のヒエラルキーの中では最下層に位置する存在である。その自覚がなければ、この世界ではやっていけない」(p20)。

※註4  「日刊サイゾー」。http://www.cyzo.com/2014/02/post_16273.html 。元ネタは「夏目の右腕」テレビ朝日系2014年2月16日放送

※註5  ベイエリア在住  町山智浩アメリカ日記 http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040221  

※註6  村田森 陶展(カイカイキキギャラリー)において、2013年11月23日。村田とのトークショー

※註7  村上隆×森川嘉一郎特別対談『芸術×サブカルチャー×場所』。2013年11月30日。明治大学中 野キャンパス。

※註8  文化庁メディア芸術祭シンポジウム「ジャパン・コンテンツとしてのコンテンポラリー・アート ージャパニーズ・ネオ・ポップ・リヴィジテッド」。モデレーター・楠見清 2014年2月16日。国立新美術館

※註9  https://www.facebook.com/GEISAI 村上隆の「偏りすぎた現代美術講座」熱すぎる応募フォームへの返信紹介:2

※註10 村上隆ツイッター 2014.3.4 より

※註11 http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200911280142.html 朝日新聞デジタル 2009年.11月23日

※注12 村上は、1986年にチェルノブイリ原発事故をきっかけとして、反原発運動に傾倒し、運動自体に限界を感じて挫折している。(「芸術新潮」2012年5月号 p46) 。個人的な感覚だが、バブル直前のその時代の空気感の中で「反原発運動」に傾倒している人達は、とても「純粋」な印象だった。

※註13 椹木野衣は評論。奈良美智東浩紀竹熊健太郎らはツイッターなどで、そうした発言をしている。

※註14 「美術手帳」2003年10月号 p40 。荒川をきれいにするプロジェクトについて、ボイスの「社会彫刻」と少し関連づけるようにも語っている。

※註15 「今も全力疾走中のアートの阿羅漢、この矛盾の塊のような人物を捉える言葉を、我々はいまだ見つけていない」(「芸術新潮」2012年5月号 p11)

※註16  参加に際して、主催者側が多くの要望を掲げたにも関わらず、「偏り過ぎた現代美術講座」は2回目も開催され、参加者が100名を超えた。(GEISAI フェイスブックより)。すでに変化は始まっているのかもしれない。