アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「こたつ派 2」サカグチヒロノリ+大塚聡+隠し玉。2004.7.27~8.21.ミヅマアートギャラリー。

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2004年8月4日。

 

 初めて山手通りから、駒沢通りへ曲がって、ビルについた。

 2階へ上がる。

 ドアの前に近づくと、音が聞こえる。人のしゃべり声みたいな音が聞こえる。一瞬、そんなに人がいるのか、と思ったが、録音の声だと分るとなんだか落ち着く。人ごみがホントに嫌になっている自分に気がつく。

 

 サカグチヒロノリ。大塚聡、隠し玉が1人いるらしいが、それは5階の青空同棲という作品の作者らしい。まずは、2階から見ることにする。

 

 入ると、絵が並んでいる。

 サカグチヒロノリという人の作品は、申し訳ないのだけど、あまり印象に残らなかった。

 次の部屋に映像。

 ステテコに腹巻きの若者がヒップホップの手ぶり。頭のあたりに両手をあいまいに上げ、それをそのまま上下するしぐさをずっとしている。街の中で、紙で作ったオノを持って、何かが気に入らないのか、そのしぐさを続けていて、そうすると「世の中イイ人ばかりじゃないからね」と警官に止められていたり、六本木ヒルズの「モダンって何?」の会場を隠し撮りして、作品に向かって、やっぱり頭のあたりに両手を上げて、それを上下させるしぐさを続けている。作品に向かって、なんだか文句をつけているようにも見える。いろいろな場所で同じことをしていて、何だか面白いな、と思っていると、今度は、公園で手をかざして上下に動かしている。その時だけ、何を言っているか、きちんと聞いた。

 

 最近の子どもはオシャレになりやがって。だいたい、シャツを入れてる子どもを見たことないぞ。だいたい、女の子は女子校生みたいじゃないか。とちょっとよっぱらいのオヤジみたいな言葉が続いていた。大塚聰。なんだか面白かった。

 

 会田誠は、常識いろはカルタという作品のアイデアを募集していた。それも、いろはカルタのことわざをそのまま使いながら、その絵柄を募集するものだった。そして、注意書きみたいなものがあり、その時だけ分る芸能や時事ネタでなく、100年後に外国人が見ても分るもの、というようなことが書いてあり、さらに、ことわざを浅くするようなものは避けてください。という書き方もあって、やっぱり真面目なんだな、みたいなことも思ったりして、でも、何だか行き詰っている感じがする最近の気配も勝手に感じたりしていた。

 

 そして、5階に上がった。

 青空同棲という看板があって、その中に入った。

 立体だったり、植物使ったり、とにかく部屋というかスペースいっぱいを使っていて、展示されている。その奥にまた引き戸があり、入り口に女性の下着が干してあって、さらに、そこから先に行く。男性がいた。若い。「見ていいですか?」と聞いた。うしろに若い女性もいる。ここで青空同棲をしている二人なんだろうか。作品だけでなく、そこに人間が二人もいるから、いろいろなことを思えた。

 

 会場が2つあるというのはおもしろかった。

 「こたつ派2」のDMの絵を描いたのは、最初のコタツ派に参加していた山口晃だった。最近の三越の大きい広告の絵も描いていた。最初の「こたつ派」展に作品を出していた。今は、安定感を感じる作家になっている。

 

 

(2004年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

mizuma-art.co.jp

 

加藤愛/愛☆まどんな

https://aimadonna.com/about

 

 

 

 

「北斗七星の庭 展。重盛三玲」。2011.12.4~2012.3.25。ワタリウム美術館。

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「北斗七星の庭 展。重盛三玲」。2011.12.4~2012.3.25。

ワタリウム美術館

 

2012年1月5日。

 外苑前駅に着き、いつのまにか少し行くのに慣れている気がしているワタリウムに向かっている時に、無印のお店が今月いっぱいで閉店するのを知った。あとで寄るかもなどと思ったが、まずは美術館に行く。

 

 ワタリウム美術館の2階に行ったら、北斗七星の庭、というテーマの通り、円柱状の石が北斗七星の形に並んでいた。それは、東福寺方丈庭園の「北斗七星の庭」の再現で、その2階は全部その庭園の再現らしくて、その大きい石がたっている「八相の庭」は、おそらく実物大の写真が並んでいた。あとは市松模様が石と植物を使って再現されている「小市松の庭」の植物がやや量が乏しい感じがして、そして、そこに重盛が描いたり、デザインしたものがあったりもしたが、かなりの手間がかかっているとは伝わってくる。

 

 そこから3階に上がったら、茶道関係の展示になっていて、重盛に影響を与えたというような庭とか場所のVTRがけっこう面白くて、こんな石がバラバラといっぱいあるような、とても実在すると思えないような庭もあったりして、こういう庭があったこと自体が、なんだかすごいような気もしていて、それから、4階に上がったら、座って、それもクッションが石みたいになっていて、庭を大きいスクリーンで見せるという趣向である程度は成功していると思えたが、だけど、20分くらいと長いし、庭を見せて行く、という映像は、途中でちょっと退屈をしてしまったりもしながら、見終わった。それは庭自体への興味が、それほどないのかもしれない。

 

 それから、地下のショップへ行って、沖縄の石垣島のペンギン食堂の料理が出ていて、そこで、沖縄ソバを食べて、時間になったから、そこで帰った。

 

 展覧会は面白かったし、庭を見せるって大変だな、とか、気になったのは、庭にとりつかれたような依頼する人がいて、中には、重盛が一番気に入っていると思われた人は、金持ちらしいが、すごくお金も使って、手間ひまも使って、どうしてそこまでやるんだろう、とか、そういう人にとっては、庭というのは自分であるから、かも、などと思って、ここでも自己愛が関係してくるのだろう、などとも思った。

 

 そして、もう一方では、生意気だけど、どうすれば、この「庭」をテーマにした展覧会がもっとすごいものになるかと勝手に考えた。庭のすごさみたいなものをもっと抽象化して、その空間に再現させるような、たとえば、日本の昔からの庭は、砂利を敷き詰めて、石を置いて、水を流す、というような人工的なものなのだから、たとえば、借景も、たとえば、今だったら、ワタリウムの外に流れるクルマの列を借景として、窓ガラスから板を渡して、空中で小さい庭園をつくるとか、2階から4階までの空間を使った室内庭園を作ったり、大きな石を一つでも持って来れれば、とも思ったが、本人が亡くなっているから、難しいとも思い、考えたら、この企画自体がよく成立させたし、ここまで考えさせるのがすごいのかと改めて思い、トーク「庭をめぐる話」の中で、藤森照信が「古今東西の庭と私の庭を紹介する中で、かつて庭はこの世とは別の世界であったこと、そして今は建築と自然の対立を調停する存在であったことを述べる」とあるから、分かりにくい存在でもあるし、取りつかれるように興味を持ったら大変なことになるのは、少し分かったようにも思えた。

 

 

(2012年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

www.watarium.co.jp

 

 

 

MOTアニュアル2003 「days おだやかな日々」。2003.1.11~3.23。東京都現代美術館。

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MOTアニュアル2003 「days おだやかな日々」。2003.1.11~3.23。東京都現代美術館

 

2003年3月16日。

 

 MOTアニュアルは、1999年からだそうだが、もしかしたら、全部見ているかもしれない。そして、毎回、何だかおもしろいと思っているような気がしている。だから、楽しみになっている。

 こういう身近なテーマ、という言い方がいいかどうか分からないが、でも、実際に自分にとってリアルに思えるものって、やっぱり、こういうことなんだ、みたいな確認作業に近い部分もあるのかもしれない、というようなテーマが多いようにも思う。

 

 デイズというのは、いつも何かを考える時に、自分が日常が好きなんだ、と思うが、それほど同じような毎日が好きか?と言われれば、そう思うし、そう思わない感じもする。それでも、こういうタイトルとテーマの展覧会が好きなのは、変わらないのか、変わってきたのかもしれないが、その変化は微妙過ぎて、はっきりしない。

 

 野田哲也という人の作品。日記というタイトル。日付けと共に、絵がある。それが並んでいる。だけど、どこか、ドラマチックが好きなのでは?と思うような感じがある。今回の中ではダントツに年令がいっていて、それだけで語るのもおかしいのだけど、60歳を超える人だった。

 

 上原三千代の立体も面白いと思った。上半身だけの普通の人達といえそうな人達の姿。そして、上履き。上半身の人の立体よりも、上履きのことは憶えていた。

 

 それから、高木正勝。「美と出会う」という番組のタイトルの映像を作っている人で、ベテランかと思っていたら、今回の中ではダントツに若い1978年生まれだった。何しろ、この人の映像は、テクニックはすごいが、善意がシンプル過ぎる気がして、それが勝手に古く感じていた。ただ、それはあくまでも個人的な感想に過ぎない。

 

 押江千衣子。ぶどうの木と思えるものを、ざっと描いているというか、素直に描いているというか、思いが伝わりやすい、というか、後で見ても、鮮やかな感じが残っていて、いいな、と思える。この絵は、妻がすごく気にいっていた。分かるような気がする。

 

 そして、小林孝亘。この時、初めて作品をちゃんと見た。

 ガスレンジの炎。ハンガーにかけてあるシャツ。寝ている人の顔。

 何だか、よかった。そして、中でも原付か何かに乗っているオジサンの後ろ姿の絵。それが、なんだか凄くよかった。その印象はかなり長く残っていて、といっても、いつも思っているわけではないけれど、でも、翌年の目黒美術館の個展に行きたいと思って実際に行ったのは、この時の印象が強く、というよりも、深く残ったせいかもしれない。

また、このシリーズは来たい。

 

 そういえば、自分がもっと若い頃には、「日常」は分が悪かったような気がする。旅が強かった。旅に出るロマンというような言葉が強かった。それが何となく嫌だったのは、自分が日常の方が好きというだけだったのかもしれない。今は旅に出るのは勇気の前に、何しろ、それが好きだっただけなのは、今になると分かる。それぞれ、好きにやればいいだけの話だったが、もしかしたら、これからの方が、自分は生きやすいのかもしれない、と思ったりもした。

 

 

(2003年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

www.mot-art-museum.jp

 

 

山梨県立美術館ミレーコレクションのすべて。2013.1.2~3.3。山梨県立美術館。

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山梨県立美術館ミレーコレクションのすべて。2013.1.2~3.3。

山梨県立美術館。

2013年1月17日。

 生まれて初めて大学生の前で授業の一環として何かを語るという経験をして、何人もが寝ていて、それは自分の話のしかたに問題があるのが分かっていたから、けっこう落ち込んでいて、疲れたし帰ろうかな、とも思ったが、せっかく甲府まで来たし、もしかしたら2度と来ないかもしれないなどとも考え、マクドナルドで食事をしてから、バスに乗った。初めて行く美術館。予定は終ったあとだから、気持ちはいい。広く、いろいろな彫刻も置かれていて、美術館はこうやって無駄とも思えるようなスペースをたっぷりとった感じに建てられていると、やっぱりうれしい。

 

 ミレーの「種まく人」は、実物を初めて見た。

 描かれている人物は、体がかなりしっかりしていて、彫刻のようで、それはギリシャ彫刻のポーズをモデルにしたのではないか、みたいな気持ちにもなるほど、実は立体感がある絵だった。ただ、その人物の表情が、思った以上に、働くことの憂うつみたいなものがあったように見えた。こうやって働いていても、未来がない、というような表情をしていたのに、少し驚き、同時に新鮮だった。羊飼いを描いた作品も似た印象だった。頑丈な体にゆううつな表情。落ち穂拾いのいくつのかのバージョンの一つも見る事が出来たが、貧乏といったものも確かに伝わってきた。ミレーは、ただのロマンチックではないのだと初めて知った。

 

 何かしら、おそらく働いている途中に空を見上げて、その時のことを忘れ、我を忘れ、という状況に一瞬なっている絵もあって、辛い時にでも、こういう時はある、という気持ちにもなれた。そういう意図の絵かどうかは分からないにしても。

 

 作品の中で、妙に生々しく可愛らしい女性の絵があったが、それは結婚相手を描いた作品だった。それも結婚生活は3年ほどで、相手が、若いまま亡くなってしまったという事だった。

 

 来てよかった。ミレーが、働く事の憂うつをきちんと描いていることを、恥ずかしながら初めて知った。立派な美術館だった。母親が生きている頃に、誰からか、なぜか招待券をもらって、何とか行けないだろうかと思ったことがあった。それから5年以上が確実にたっている。時間の流れ方が、ただ早いというだけでなく、その頃とは、まったく質の違う流れ方になっていることに、微妙に悲しいような、切ないような気持ちもまじる。今は、その頃と比べたら、かなり恵まれているとしても。

 

(2013年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

www.art-museum.pref.yamanashi.jp

 

パウル・クレー展。2002.3.9~3.31。神奈川県立近代美術館。

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パウル・クレー展。2002.3.9~3.31。神奈川県立近代美術館

 2002年3月31日。

 何だか疲れて、起きたのが午後12時を過ぎていた。でも、急に行こうと思ったのはやっぱり押し付けがましいかもしれないが、妻がクレーを好きだったからだし、これからクレーの作品ばかりを集めるような機会はないのでは、とも思ったからだった。最終日。混んでるかもしれない。

 

 結構、あわてて支度して、午後1時過ぎには出発する。

 乗りついで行くうちに遠足気分になり、電車の中でおにぎりを食べたりして、気分もよくなる。わりと早く、2時30分頃には着いた。

 

 混んでいる。

 宇宙人みたいな格好の人とか、芸術家っぽい感じの人とか、他人事ではないのだけど、もう後戻りが死ぬまで出来ない人達も結構来ていたりして、おかしみも感じたけれど、自分を振り返って悲しくなったりもしたりした。

 

 絵はよかった。

 どうしてこういう色が出るんだろう?

 どうして、こういう線が描けるんだろう?

 見て、少しぼーっとした後に、そんな気持ちになってくる。

 

 かすれたピンクの中に、建物の絵がごしょごしょっとした線で描かれていて、そういう位置とか大きさとかが、とてもいいとしか言えない。

 旅に出て、そしてスケッチしたものを見ると、かなり正確な形として立体として描いてあって、ただ実際に絵として作品にしていく時は、まるでそういった形を無視するように崩して描いていく。それも、奇をてらうというのではなく、その方が自然にいい、と思える方向への絵になっている。

 

 線の強さも、太くなっても柔らかく、でも売店で図録を見ると、やっぱりその感じが出ていない。ただ、中に矢印がくっきりと描いてある絵があって、不思議で、「あの矢印が⋯」とちらっとしゃべっただけで、店員が素早く反応して、それには感心するよりも少し怖かった。

 

 その時もポスターか何かがあったが、天使の絵は、ただ線だけなのに、どうして、こういう味が出せるんだろう?というのを思い出し、でも、確か、そういう絵を描いた頃はクレーは、確か病気もあったし、いろいろな意味で追い込まれていたということをテレビなどで知ったりして、自分のためにも描いたのだろうか、と勝手に思ったりもしていた。

 

 展覧会は、わりと年代順に並んでいたが、クレーでも最初の頃の作品はセザンヌっぽかったり、印象派のようだったり、それから、おおと思ったりするような絵になるのは、20年くらい後だったようだ。

 

 観客の中には、「これはクレーらしくない」と言ったり、「子供の線と同じでためらいがないのよ」と言う若いお母さんらしき人もいたりして、そういう反応もおもしろかった。それでもクレーの絵はよかった。あの色使い。あの線。

 

 美術館の中の喫茶店でお茶を飲んだ。ピカピカ光るサングラスをした市民ランナーにいそうな中年女性が、ずっとバルコニーのいい席を独占していたり、その店が変に古臭く見えたり、といったこともあったが、かなり気持ちも、天気が良ければいいと思える場所だった。

 

 帰りに小町通りのいろいろな店を見て回った。妻は大喜びだった。雑誌「ブルータス」のカフェ特集に載っていたカフェも発見し、やはりカッコ良くて、また来た時は入りたいとも思った。

 最終日に慌てて行ったが、行って良かった。

 いい天気だった。

 

 

(2002年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

www.moma.pref.kanagawa.jp

「日常/オフレコ」。2014.1.11~1.30。KAAT神奈川芸術劇場〈中スタジオ〉

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「日常/オフレコ」。2014.1.11~1.30。

KAAT神奈川芸術劇場〈中スタジオ〉

2014年1月27日。

 初めての場所。みなとみらい線の駅から8分という距離。けっこうありそうで、でも駅を降りて、大きい道路を歩いていたらかなり立派といっていい建物があってそこが目指すところだった。スペースがやたらと広く、天井も高く、ただ月曜日のせいか、まだ完成してないせいか、人気が少なく、とても広いロビーのソファーに3人くらいの人が寝たりしていて、そんなに人が少ないところなのに警備員がいて、という場所の広めの階段を昇って行く。

 

 階段や床には、封筒やハガキなどが散らばっていて、それも作品だろうと思ってみたら、全部があてさきが、この会場のこの展覧会の名前になっている。そこを登るとピアノの発表会の受付みたいな机があって、チラシでいくらか値引きしてくれるというので、見せたら、はじっこを切ってくれた。そこから入場口が少し遠く、歩いているとよく出来たアニメの工場の模様があって、いくつも画面が並んでいて、それは最後に伊達巻きを作っている場面だと思い、そこから映画館の入り口のような密閉率の高いドアをあけると、少し暗いフロアーが広がっている。

 

 天井に30個近くのドアがある。それが床に向いていて、一つか二つずつ自動で開いて行く。次は何色だろう?みたいなことを妻と当て合ったりもして、いくつか開くのを見てから、それから小さな部屋があって、それはロッカーみたいな場所というか、演劇のための控え室にも作品が並んでいて、それは階段の封筒とドアと同じ安藤由佳子の作品で、中には日めくりカレンダーがちぎられてちらばっている。残ったカレンダーは11月くらい。

 

 そこから出て、そのあとにピアノがあって、それは全部、木造りだった。青田真也。よく出来ているのだけど、それほど心が動かないのは、自分のせいかもしれない。

 

 薄暗い部屋の中にぶらさがっている大きい平面と、その下に床があって、全部が黒い。その素材を係員に聞いたら、分かりません、と言われて、それはあとになってカタログを読んだら、鉛筆と墨で出来ている黒さというものだと知って、情報が見方に少し深みを加えるんだな、と思った。梶岡俊幸。

 

 八木良太の作品。最初に見たレコードを切断してレールのようにして、そこにレコード針をつけた電車?を走らせた作品を見て以来、なんだか興味を持たせてもらい、そのあとには氷のレコードで感心し、今回はカセットテープを巻き付けた球体とか、それを元にした映像とかもあったけれど、ストレートな音のみの作品をもっと見たいな、と勝手に思ったりもしていた。

 

 最後の方の控え室みたいな部屋にはアニメショーンの登場人物が3次元に現れ、それを精密に描いたような絵が3人分並んでいた。伊達巻きと同じ作家。佐藤雅晴。どうやら「悪の華」と同じロとスコープという手段を使っているらしいが、この作品は妻がとても感心していた。小さな画面でコーヒーに砂糖を入れるだけの繊細なシーンがループで見せている映像作品は、しばらく見ていたいと感じた。 

 

 これで終わりで、120部限定で、まだ30部あるカタログがあって、買おうかどうか迷った。こうしてあとで思い返すと、自分にとって、おもしろかったんだ、と改めて思う。

 

 

(2014年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

今日の作家展2001。アーティキュレイト・ヴォイス ー 新しい“イメージ”の可能性。2001.9.1~9.24。横浜市民ギャラリー。

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今日の作家展2001。アーティキュレイト・ヴォイス ー 新しい“イメージ”の可能性。2001.9.1~9.24。横浜市民ギャラリー。

2001年9月22日。

 

 関内の駅、すぐそば、いつも人が少ない印象が強い横浜市民ギャラリー。 

 それでも、時々おもしろい展覧会をやる場所。

 今回も、トリエンナーレの時期だし、それにこの日は無料だったが、他の日は200円で、それなりに自信がある企画に違いない。

 

  3階に上がる。

 受付があって、すぐそばの部屋は薄暗く、何かごちゃごちゃと床に盛上がっている。紙テープだった。キャンディーズの解散。それを知らない作家が、その写真だけを見て、そのイメージだけで作ったらしい。キャンディーズ。「見ごろ食べごろ笑いごろ」の番組のことを、また思い出す。

 

 その後、武智子という作家の作品。

 ダッチワイフというテーマ。良く見ると、ビニール製のダッチワイフは生きた人間が着るような構造になっている。それは、展開図になっていて、商品のように綺麗にパッケージされて展示されたりしている。そのすぐそばに、ビデオで製作されたらしい映像が流れている。少し見ていたら、1人の中年男性がしゃべっていた。理想の女性像うんぬん。それも、少し複雑そうな関係そうだけど、とにかく3人の娘がいて、その中でのんちゃんと呼ばれる娘が、理想に近い、とにかく自分を殺して、相手に合わせてくれるから。といった話になる。そんなこんなで、ビデオが終った。

 それから、そのダッチワイフと題された作品を見ると、もっと生々しかった。ああそうかい。じゃあ、これならいいのかよ。そんな声が聞こえてきそうだった。そのビニール製の服のようにも見える作品は、胸と股間と肩のところだけ、オープンと書いてある。

 

 ビデオが最初に戻った。

 題名が、ダッチワイフ/ダッチライフだった。 

 作者は、オランダに住んでいるらしい。

日常の会話のテンポで進んでいく。登場人物も、武智子本人らしい。

 そして、自分の生い立ちを語る。自分の父親を知らない。生まれてすぐ、いなくなったと聞かされた。そして、育ての父も他に家庭がある。

 それから、母親にいろいろと聞き、それに答える母の姿。母は強し、とか、虐げられた女、とかそんな一言でまとめさせないような話が進んでいく。

 その後に実の父に会い、さらに、その1年後にオランダに留学する作者のところに、父と、初めて会う20歳の妹が一緒にやってくる。それが、のんちゃんと呼ばれる娘だが、父の着替えを手伝ったりとかが、すごく普通にやっている。考えてみれば、今では珍しい女性かもしれない。

 こうやって話にすると、どこか単純なストーリーだが、でもそれが日常のリアルなリズムだけに、心に後になって、徐々に染みてくるように、何か重い気持ちになっていく。つもっていく。簡単にまとめてはいけない。

 

そのビデオは1時間以上かかった。でも、おもしろかった。こうやって比べるのは反則かもしれないが、この週に映画館で見た映画より、はるかにおもしろかった。予算でいえば、はるかに映画の方がかかっているのに、それはその週の日曜日の「新日曜美術館」で村上隆が言ったようにローコストなのに人を感動させるのがアート。といったことを証明するようなことだと思った。

 これだけプライベートな内容なのに、そして、男性の私にまで(本当の意味でどこまで理解できたかは自信がないが)、伝わる力の強い映像で、距離感の優れた作家だと思った。

 

 見知らぬ人に、ある時刻に窓際で立っていてくれ。それを撮影したい。と頼んで、その写真が並んでいて、それなりに面白かった。

 

 そして、眞島竜男の作品。第3ビデオという架空のレンタルビデオショップを会場内に作り、そのビデオを貸し出すというもの。

 家に帰って、見た。

 退屈なんだか、よく分からない。そのうちにオカルトビデオらしいと分かると同じような映像なのに、勝手に少しどきどきした。マンガか何かで、いつも通り慣れているはずの道に急にレンタルビデオ屋が出来て、それを借りると、変な世界に引き込まれていく。といった話を思い出したせいかもしれない。実際は、え、これで終りなの?といったところで終ってしまったが、でも恐いっって何だろう?どうすれば、もっと恐くなるんだろう?と考え、もし、この映像がもっと知っているような映像ばかりが並んだら、どうだろう?とかいろいろ考えた。どっちにしろ、映像作品によってはこうやって貸し出してくれた方が有り難いことは、実はもっと多いのかもしれない。つまらなければ、早送りできるし。

 

 そのビデオの会員証もあるし、ビデオは送り返さなければいけないけれど、でも、武智子の作品がこの中では最高によかったのだけど、帰ってから楽しむこともできたし、充実した展覧会だった。

 

 

(2001年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

ycag.yafjp.org