アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「村上隆展 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」。2001.8.25~11.4。東京都現代美術館。

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村上隆展 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」

 

2001年10月20日。

 トークライブをやるというのを、インターネットのホームページで知った。

 村上隆椹木野衣美術手帖の編集長と、針生一郎美術評論家)も出ると知り、幅広い論者を集めたこともあり、出かけることにした。

 

 午後12時から整理券を配るというので、午前10時30分に家を出る。東京駅から現代美術館行きのバスが出ていると知った。村上隆の作品のキャラクターが描かれたバス。そんなにカッコいいとは思えなかったけれど、いつものように新橋から「業平橋」行きへ乗る時よりは、数倍気持ちが盛り上がる。バスの後部に座っている人間が、どうやら美術館へ行くみたいだと、会話で何となく分った。約30分くらいで、現地につく。すごく人が多いと思ったら、隣の公園で区民まつりをやっていて、その人出だった。

 

 トークライブの整理券のために、もう並んでいたのは私たちの前に、2人だけだった。妻と2人で3番と4番の整理券と、1050円ずつを払う。午後2時からトークライブが始まるので、美術館の中のカフェテリアで、食事をする。

 

 食事をして、ショップを見て、そうこうするうちに思った以上に時間は早く過ぎ、午後2時前に行ったら、1番と2番の人がひっそりといた。さっきと反対の方向に係の人が来て、「50番までの方」と呼んだから、もう並んだ番号はあまり関係なくなった。何十人かが、階段を下って、その会場へ向かっていった。

 

 トークライブは「芸術徹底討論会」と銘打たれ、テーマは「戦争と芸術」だった。9月11日のアメリカの同時多発テロを受けての開催だった。

 

 村上隆が壇上にいた。髪の毛を、ちょんまげみたいにしていて、大きかった。最初は美術手帖の編集長・楠見清がしゃべった。自分が昔、作った「アトムの時代」の話だった。原爆のキノコ雲の写真ばかりを集めた本のことだった。

 

 その次の村上隆は、アニメの映像や音楽を巧みに組み合わせた映像を大きく映し出していた。その大部分は戦争を描いたりするものだった。素直に、おもしろかった。人をどう飽きさせないか、といったことも良く考えられているのも、分かった。

 

 次は、椹木野衣が、話し始めた。

 今回のテロ事件、戦争のことと関係なく、ここ数年、戦争の影を感じていた。村上隆会田誠ヤノベケンジ。中ハシ克シゲ。それらの作家の大部分は、椹木が企画した「日本ゼロ年」に参加していたが、その展覧会のサブタイトルは「グラウンドゼロ」(爆心地)というものだった。椹木は1995年の阪神大震災地下鉄サリン事件以来、戦争を意識してきた。その後でも美術批評をやっていられるのか?と自問自答しながらやってきたと言う。不謹慎かもしれないが、地震の映像を見た時に、ノスタルジーがあった。さっきあげた4人の作家も戦争のことを取り上げている。それまでも、マンガやアニメで、戦争のことはものすごく多くテーマになっていて、それで、地震の映像さえも、すでに見たものに感じ、ノスタルジーにもつながったのでは、ないか。

 戦中の戦争画は、それまで階級があった日本画や挿し絵の世界が、すべてが一緒になったりしていた。そして、例えばウルトラシリーズに関わった成田享は実際に見た戦争中の廃虚を再現しようとして、作品を作ったと言っていた。だから、戦争を知らないはずの我々の世代でも、「戦争」を知っていたのではないか。戦後の美術では、戦争は扱われていないはずなのだけれども、実は戦争ほど繰り返し描かれてきて、人気を保ってきた分野はないのではないか、と椹木は話をいったんまとめた。

 

 美術評論家針生一郎は、明治以来、日本の美術は政府というか政治と関わりが強く、そこから分かれて、また在野へ行ったり、分裂したりの歴史に過ぎなくて、戦時中は戦争画を描かない画家はいないという話にもなった。

 

 その後、休憩をはさんで、4人でトークが始まる。

 前半もとても密度が高い時間だったが、後半の4人の話は、混乱しているようで、さらに密度が濃い時間がうねるように続いていく。

 

 椹木が「戦争画を公開する運動をすべきだと思っている」みたいなことを言えば、戦前・戦中は「天皇のために死ねると思っていた」今は70代の針生が、河原温の浴室シリーズを見て、何か「戦争」が残っていると思ったり、といったことを語り、その人が、今も変わっていないとも言う。動物的エゴイズム。人を殺す日本軍。今も美術界でも売り込み、コネ。弱肉強食が変わっていないと言い切る。

 

 村上は、ルールのあるゲームとして、スーパーフラットをやってきて、ただ、同時多発テロの、あのビルへの1発で、もうゲームではないというか、何かが始まってしまった恐怖みたいなものを感じた、とまで話した。

 

 それから、時間をかなりオーバーして、質問の時間になり、そうした言葉に対しても、村上は分からないことは分からないと率直に答えていた。さらには、この討論会の最中でも、「それが美術とどう関わるかは分からないけれど」と針生も村上も何度か繰り返していたが、それも誠実さを感じた。

 

 最後の方で、村上は、これからは、日本を切り捨てて、アメリカの美術界で、ハイアートを極めようとすることに決めた。そして、一方では、ヒロポンファクトリーみたいに日本のまだ形にならないものをキチンと拾っていく両方のことを、これからやっていきたいと言った。村上は、その時、自分は頭がよくないので、ハイアートを実際に手にしないと分からないから、という言い方をした。こういう何事も実感として分かろうとし、その上で、達成してしまうであろう凄みを改めて感じた。

 3時間ほどで、トークライブは終わった。

 

 夕方の5時くらいになってから、村上の展覧会を見た。

 実物を見ると、写真などで見ていたよりも、本当に、よく出来ているということもあったが、何かそれ以上に生々しいものがあった。普通じゃできないもの。という感じ。1996年の個展を見て以来、「まともな野望」を持つ人だな、という気がしていて、その時見た「727」もあって、そのことを改めて、思い出した。ただ、その野望はとても過剰なものなのかもしれないとも感じた。

 

 立体も、よく出来ていた。性器も含めて細かいところの描写まで、容赦がない感じがした。

 エンターテイメントとはいっても、ディズニーランドといった場所とは明らかに違う。

 アートなんだと、思った。

 

 ただ、村上は自分自身では、自分の絵には興味ない。みたいな言い方をしているのを、どこかで読んだ記憶がある。それは西洋のアートのルールを知った上で、その上で計算して、作品を作り出しているから、というのもあるだろう。ただ、写真以上に、実際に見ると、そういう計算だけでないようなものも感じる。

 

 会田誠を、賢すぎると「誰でもピカソ」(テレビ東京)で、村上が言ったのは、今の会田は、どこか分を知り過ぎているというか、無謀さが足りないみたいなことも含めて言っているのかな、とも思ったこともある。

 

テレビ東京 ホームページ 「誰でもピカソ」)

https://www.tv-tokyo.co.jp/pikaso/

 

 作品を作る人は、ルールがあるゲームといっても、何かそこから過剰にはみだすものがあるし、やはり言葉だけに頼っていないというか、そうじゃないものへの信頼というか、そんなものがあるように、村上の作品を見て、改めて感じる。

 

 でも、何しろ、「よく出来ているなあ」と言わないと、会場に人がほとんどいないせいもあって、何かの呪いをかけられるような恐さを感じるほど、作品の完成度が高かったように思う。それは、その完成度を可能にした人間の思いみたいなものまで、もしかしたら宿っているように、勝手に感じてしまったからかもしれない。

 

 会場のあちこちで、ビデオが流れていたが、その時間といい、その内容といい(製作の過程などを写している)、適切だったし、いい意味で文化祭のような熱気を作っていて、感心した。結局、見る人がどう見るか、という意識が常にある、というだけなのかもしれない。

 

 トークライブで、マイクがピーと鳴っている時に、一番気にしていたのは村上だったが、それは聞く人への意識を最も気にしていた、ということで、それは体質みたいなものにも見えた。

 

 トークライブも、展覧会も、とても密度が高かった。普段使わないような感覚や、知能を使ったせいか、疲労感はあったが、充実感も確かにあった。

 

 後日、美術手帖のプレゼントで、村上隆展の券が当たって、送られてきた。知人に渡した。そのあとに、テレビ雑誌のプレゼントでも当たった。こんなに続けて当選するのは初めてだった。応募者が、そんなに少ないのか、と微妙に不吉な思いになった。

 

 

(2001年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

 

 

東京都現代美術館 ホームページ 

村上隆展 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/2001/62/