アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「とおくてよくみえない 高嶺格」。2011.1.21~3.20。横浜美術館。

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「とおくてよくみえない 高嶺格」。2011.1.21~3.20。横浜美術館

 

2011年2月18日。

 前から、気になっていたアーティストだけど、まとまった個展はあまりなくて、あったら行ってみたいと思っていたから、そのチラシを部屋にはっていると、妻が、それがきれいに見えたらしくて、行きたいと言ったので、一緒に行くことにした。コンセプトが強く出ているタイプの作家と思っていて、そのリアルさに独特の面白さがあって気になっていたのだけど、妻は苦手かもしれない、と思っていたから、それは、何だかありがかった。

 

 久々に横浜美術館へ行って、入場料は今は中年でも学校へ通っているから、学生料金で、それもうれしかった。ロビーから、もう作品が見えている。大きなカーテンが、人がそこにいるようにふくらんだり、へこんだり、を繰り返していて、そして、音、というか人の声が聞こえていた。それは、前日にアーティストの説明をホームページで見ていて、おそらくは性的なエクスタシーの声ではないか、というような気もしていた。そして、エレベーターに乗って、そのカーテンのような大きい布の裏は、何台かの扇風機が回っているだけなのに、それだけとは思えないような動きを見せていて、それに驚いた。そばに確か「木村さん」という人であろう写真があって、その人の声かもしれないが、そういうことは明らかにされないままだったのは、この「木村さん」という作品が、障害者の性介護のテーマで作品が撤去された、という過去のせいかもしれない、などとも思った。

 

 それから、最初の部屋には、カーペットみたいなものが並んでいたら、それは、美術の歴史みたいなものを引用しているようなものだったけど、不思議というか、そういう理屈が有効なのかどうかもよく分からなかったが、最後の方の油粘土を使った大きい額縁とか、大きい模様はなんだか素直に感心をした。ただ、自分の無知のせいかもしれない、という気持ちは抜けないままだった。

 

 次は、鹿児島エスペラント、という作品を暗い中で見て、それは、広く、様々なものを置いてある場所で光が導くように、文章を読ませるもので、それは人の共通感覚についての話で、読んでしまうともっとスムーズだが、それが、こういう形で見せられるのは不思議な印象にもなったし、これが横浜トリエンナーレで見た時は、照明が故障していたから、作品の全体像を初めて知った。

 

 それから、前も見た「ゴッドブレスアメリカ」はでかい粘土が変化していくよりも、早送りで何日もが高速で過ぎていく、その背後の作家とその彼女の生活が気になって、そちらの方を好奇心ばかりで見ているような気になってきて、人の気持ちの変なところに入り込んでくる作品だと改めて思った。

 

 そして、六本木でも見た、「在日の恋人」という作品にもなっている彼女との、韓国へ行って結婚式をあげた時のことで、その話は単純な差別とかでもなく、善意の人とはもっとも遠いような話で、世の中の凄さが、正直さによって、伝わりすぎてくるような作品にも思えた。

 

 それから、シルエットで、口を使った性的な愛撫をしているとしか思えないような映像がずっと写っていて、でも、それは立体を口でなめているだけなのに、でも、そういう行為をしているとしか思えないもので、そうとしか思わない人の気持ちが自分でも不思議だった。

 

 常設展で奈良美智や、フランシスベーコンを見られてよかったと思ったが、高嶺格の作品は、人が普段、少し見ないようにしているような、そんな気持ちを刺激するようなものばっかりのような気がして、そして、いろいろと、あとになって、なんだか思い出して、またそこで考えるような作品だった。

 

 

 

(2011年の時の記録です。多少の修正・加筆をしています)。

 

yokohama.art.museum